沢田教一 ライカM2(写真左)と一ノ瀬泰造 被弾したニコンF(写真右)
日本カメラ博物館は、2025年9月30日(火)から2026年2月1日(日)まで、特別展「沢田教一と一ノ瀬泰造」を開催する。
沢田教一と一ノ瀬泰造は、ともに紛争地帯の最前線に身を置き、激戦の様を記録してきた報道写真家である。彼らが写した写真は様々な媒体でとり上げられ、いまも多くの人々に深い感銘を与えている。
沢田と一ノ瀬の写真と展示資料
沢田と一ノ瀬は、報道写真家として生き、戦場に殉じた。しかし、ふたりが捉えていた被写体は戦闘ばかりではなく、戦地へと赴く以前や、戦場での撮影の合間にも様々な写真を撮影していた。彼らのフィルムには、人の営みが感じられる風景や、そこに生きる人々の姿が記録されている。
日本カメラ博物館で開催するこの企画は、これまで発表される機会が少なかった作品も含め、戦場とはまた異なる視線で見つめた2人のまなざしを、写真と数々の資料でたどる特別展である。
沢田が遺したフィルムには、故郷青森の三沢基地、下北半島など各所をはじめ、恐山のイタコ、1964年の新潟地震、同年の東京オリンピック、そのほかベトナムやカンボジア、香港など、そこに生きる人々の姿が写し込まれている。
一ノ瀬の写真には、学生時代にテーマとした大学闘争やデモ、自身も打ち込んだボクシング、山谷でのアルバイト中に撮影した工事現場、故郷の佐賀、下宿先の自室で撮影した父の記念写真など、身近な人々もテーマとして写しとられ、戦場にいたるまでの一ノ瀬の青春をたどるかのような作品群が遺されている。
このほか、沢田が使用していたライカM2やヘルメット、IDカード、ピュリツァー賞賞状や数々のトロフィー、一ノ瀬の被弾したニコンF、配信に使用していたタイプライター、学生時代に打ち込んだボクシングのグローブ、自作の写真集など、貴重な資料も展示する。
隣接するJCIIフォトサロンでは、10月に沢田教一、11月に一ノ瀬泰造の写真展を開催し、ベトナムやカンボジアの紛争地帯最前線の記録など、代表作を含む写真の数々を紹介する。
第2次世界大戦終戦から80年、ベトナム戦争終結から50年を迎えた本年、戦場に散った2人の報道写真家について、あらためて思いをはせる機会を提供する。
特別展「沢田教一と一ノ瀬泰造」概要
| 開催期間 | 2025年9月30日(火)~2026年2月1日(日) |
| 展示品 | ・沢田が撮影した三沢基地周辺の風景やサタ夫人との記念写真、恐山のイタコ、ベトナムやカンボジア、香港の街に生きる市井の人々 ・一ノ瀬が撮影した大学闘争やデモ、自身も打ち込んだボクシング、アルバイト中の工事現場、故郷の佐賀、下宿先の自室で撮影した父の記念写真 など、戦地に殉じた報道写真家が写した日本の風景や戦争国に生きる市井の人々などの写真を展示。 このほか、沢田が使用していたライカM2やヘルメット、IDカード、ピュリツァー賞賞状やトロフィー、一ノ瀬が使用していた銃弾を受けたニコンF、配信に使用していたタイプライター、学生時代に打ち込んだボクシングのグローブ、自作の写真集など、貴重な実物資料も展示。 |
| 展示点数 | 写真:沢田、一ノ瀬それぞれ約25点、その他資料:約50点を予定 |
| 展示協力 | 沢田サタ、斉藤光政(元東奥日報社特別編集委員)、永渕教子(一ノ瀬泰造アーカイブ)、公益社団法人 日本写真協会(敬称略) |
プロフィール
沢田教一(さわだ きょういち)
1936年青森県青森市生まれ。地元の小島一郎の写真館に勤務したのち三沢基地内の写真店に移り、夫人となるサタと出会い1956年に結婚。1961年12月UPI東京支局入社し各所を撮影。1965年2~3月に自費でベトナム戦争を取材、7月にUPIサイゴン支局写真部に赴任。同年9月に撮影した写真「安全への逃避」が世界に配信され、同年世界報道写真コンテスト1位、翌年ピュリツァー賞を受賞。その後も取材を続け、1968年の「テト攻勢」では古都フエで激しい市街戦を撮影。1970年10月28日、カンボジア・プノンペン近郊を移動中に銃撃を受け死亡。享年34歳。
一ノ瀬泰造(いちのせ たいぞう)
1947年佐賀県武雄市生まれ。1966年日本大学芸術学部写真学科に入学。卒業後にUPI通信社に勤務するが翌年退職し、アルバイトなどでベトナム行きの資金を貯める。1972年カンボジアへ入国。しかし国外退去を命じられ同年8月ベトナムへ向かう。その際に取材した写真がUPI月間賞を受賞するなど各媒体に掲載。1973年ふたたびカンボジアに潜入し取材を続ける。11月、友人宛の手紙に「地雷を踏んだらサヨウナラ」と記し、アンコールワットへ潜入。その後消息を絶つ。このとき満26歳。9年後の1982年、プラダックの草原に埋葬された一ノ瀬の遺骨が発見された。