スポーツ選手が自ら情報を発信する時代になった。かつて競技の映像を広く届ける役割は、テレビ局やスポーツメディア、専門の映像制作者が担ってきた。しかし今では、アスリート自身がスマートフォンを手に、練習風景や試合への思い、競技の舞台裏をSNSで直接伝えられる。
映像を届ける側と受け取る側の関係も変わり始めている。テレビや大きな大会で取り上げられることだけが、アスリートを知るきっかけではなくなった。選手自身の発信をきっかけに競技に興味を持ち、応援するようになる。そんな新しい接点が生まれている。
映像制作の世界でも変化が起きている。これまでAdobeのPremiere(旧Premiere Pro)といえば、プロの映像編集者が使うデスクトップ向けの制作ツールという印象が強かった。しかし、Adobe ExpressやAdobe Premiere モバイル版など、無料から使い始められる製品が登場し、映像やデザインの制作環境はぐっと身近になった。
必要な機能から無料で使い始め、より高度な機能やサービスが必要になった段階で有料プランを選ぶ。こうしたフリーミアム型の提供が広がったことで、Adobeのツールはプロのクリエイターだけでなく、これまで本格的な編集ソフトに触れる機会がなかった人にとっても、手に取りやすい選択肢になっている。
この二つの変化が重なり合う光景に出会った。場所は映画やテレビ番組の編集室ではない。日本のトップアスリートがトレーニングを積む施設だ。
2026年10月上旬、東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンターで、公益財団法人全日本スキー・スノーボード連盟のスノーボード・アルペン競技チームを対象に、Adobeによる「PremiereモバイルWorkshop」が開催された。強化選手の合宿期間中の時間を活用し、スマートフォンでの動画撮影からSNSでの発信、Adobe Premiere モバイル版を使った編集までを学ぶ講座だ。
会場に集まったのは、普段は雪上で競技に打ち込む選手やチーム関係者たちだ。その中には、2023年の世界選手権女子パラレル大回転で金メダルを獲得し、スノーボード・アルペン種目で日本勢初の世界一に輝いた三木つばき選手の姿もあった。映像編集の経験がある参加者もいれば、これから始めようという参加者もいる。講師は、SNS向けの映像制作や撮影技術を発信している映像クリエイターの加納裕也氏が務めた。
スノーボード・アルペンでは、わずか0.01秒の差が勝敗を分ける。その一瞬を追い求めるアスリートたちが、この日はSNS動画の「最初の2秒」に向き合っていた。
自分たちの姿をどう撮り、どう編集すれば競技の魅力が伝わるのか。プロの映像制作の現場とは異なる場所で、映像を発信する人の裾野が広がりつつあることを感じさせる一日だった。
アスリートが映像の発信者になる。SNSの「最初の2秒」に競技の魅力を込める
講座はPremiereの操作説明ではなく、「最近どんな動画を見ていますか?」という問いかけから始まった。参加者はペアを組み、InstagramやTikTokなどで普段見ている動画を紹介し合う。ゴルフ、動物、料理、ファッション、筋力トレーニング、雪山など、挙がったジャンルは実に幅広い。
このやり取りには狙いがあった。普段はSNSを見る側にいる選手たちが、発信する側に回ったら何を考えるべきか。その視点を切り替えるための導入だったのだ。
講師の加納氏が強調したのは、縦型ショート動画における「最初の2秒」の重要性だ。次々とスワイプされるSNSでは、冒頭で視聴者の関心をつかめなければ、続きを見てもらうのは難しい。
例えば、選手にとっては当たり前の練習風景も、一般の人にとっては見たことのない光景かもしれない。特殊な道具、独自のトレーニング、試合前の習慣――。競技を知らない人に何を見せれば興味を持ってもらえるのか。さらに、競技を知ってもらう「認知」と、選手自身を応援してもらう「ファン化」とでは、動画の作り方も変わってくる。
加納氏は、ショート動画では1本で伝えることを1つに絞るのが重要だと説明した。誰に何を伝え、どんな気持ちになってほしいのか。そして冒頭で何を見せるのか。編集技術よりも先に、視聴者の立場から映像を考える。この考え方が講座全体を貫いていた。
特に興味深かったのが、「競技の言葉を伝わる言葉へ」というペアワークだ。スノーボード・アルペンで使われるPGS(パラレルジャイアントスラローム=パラレル大回転)やPSL(パラレルスラローム=パラレル回転)といった専門用語を、競技を知らない人にも伝わる言葉に置き換えていく。
その中で飛び出したのが「シャケった」という言葉だ。選手によると、滑走中にコース脇のセーフティーネットに突っ込んでしまうことを指すという。網にかかった鮭のように見えることから、そう呼ばれているらしい。
「バナナ」という言葉も出てきた。通常は左右交互に設置される旗門が、同じ方向に2つ続く区間のことで、通常より大きなターンが求められる。ほかにも、レース前にコースを下見する「インスペクション」、雪面を整える「デラがけ」など、選手たちの日常に根付いた言葉が次々と紹介された。
加納氏も初めて聞く言葉に興味を示し、「シャケった」を動画の冒頭で紹介するなど、専門用語そのものを企画に変えるアイデアが生まれていった。競技者にとっては何でもない言葉が、一般の視聴者には新鮮な情報になる。
ここに、選手自身が映像を発信する面白さがある。外部の映像制作者が競技の迫力を捉えるのとは違い、選手は競技の内側にある言葉や習慣、練習の意味を知っている。それを自ら紹介することで、これまで伝わりにくかった競技の魅力を届けられる可能性がある。
講座ではその後、スマートフォン撮影の基本も紹介された。編集を前提にした4K/30fpsでの撮影設定、スローモーション用の60fps以上での撮影、全景とクローズアップを組み合わせる画角の工夫など、実際の競技撮影にも応用できる内容だ。
印象に残ったのは、選手たちが新しい撮影技術を学ぶ前から、発信すべき題材をすでに数多く持っていたことだ。必要なのは、必ずしも特別な映像を撮ることではない。自分たちの日常のどこが面白いのかに気づき、それを映像で伝える視点なのだ。
Premiereモバイル版で映像編集に挑戦。スマートフォンが競技の発信ツールに変わる
講座の後半、参加者はいよいよスマートフォンを手に取り、Premiereモバイル版の操作に進んだ。
Premiereモバイル版は、基本的な編集機能を無料で利用できる。映像編集を専門としないアスリートでも、パソコンを使わずにスマートフォンだけで制作を始められる。
参加者は新規プロジェクトを作成して動画素材を読み込み、タイムライン上で不要な部分をカットしていく。実習中には、狙った位置でうまく映像を切れないという声も上がった。これに対し加納氏は、タイムラインを拡大する方法や、再生位置を1フレームずつ移動させる操作を紹介した。
この1フレーム単位の操作は、スポーツ映像と相性がよい。ターンの切り替えや動作が決まる瞬間を、音楽のビートに合わせて編集できるからだ。わずかなタイミングの違いで映像の印象は変わる。スマートフォンでも細かな調整ができる意味は大きい。
続いて紹介されたのが、SNSへの投稿を意識したテロップ編集だ。画面上のアイコンなどと文字が重なりやすい領域を示すセーフティゾーンを確認しながら、文字を配置できる。映像を完成させるだけでなく、実際にSNSでどう表示されるかまで考慮した機能だ。
さらに目を引いたのが「背景を削除」機能だ。動画クリップを複製し、元の映像の上にテロップ、さらにその上に背景を削除した複製クリップを重ねる。すると、人物が文字の手前に立っているような立体的な表現が生まれる。
従来は一定の編集知識が必要だった人物の切り抜きも、Premiereモバイル版なら手軽に試せる。
このほか、映像の途中で速度を変えるスピード調整、手ブレを軽減するスタビライズ、キーフレームによる動きの追加なども紹介された。特に、横位置で撮影した映像から被写体を追いながら縦型動画に変換できる「オートリフレーム」は、選手が画面内を大きく移動するスノーボード・アルペンに適した機能だと感じた。
質疑応答では、小型の自動追従カメラで滑走する選手を撮影できるかという質問も出た。話題はドローンや360度カメラにも広がり、参加者たちは編集機能を知るだけでなく、実際の雪上でどんな映像が撮れるのかまで考え始めていた。
選手たちには、すでに撮りたい場面や伝えたい体験がある。だからこそ、新しい編集機能を知るたびに、自分たちの映像にどう生かせるかを考えていたのだろう。
練習前の準備、競技特有の用語、試合に臨むまでの過程。選手自身だからこそ知る日常を撮影し、その場で編集して発信できる環境が整いつつある。
では、チームは今回の取り組みをどう捉え、講師はなぜSNSの基本から教えたのか。講座終了後、両者に話を聞いた。
競技の魅力を選手自身の視点で伝えたい。ヘッドコーチが語るSNS発信の課題と可能性
まず、全日本スキー・スノーボード連盟でスノーボード・アルペン種目のヘッドコーチを務める戸﨑啓貴氏に話を聞いた。戸﨑氏は今回の講座を、選手自身が競技の魅力を発信するための機会と捉えている。
SNSを積極的に活用する選手がいる一方で、誹謗中傷への不安から発信を控える選手もいる。まだ広く知られていない選手は反応を得にくいこともあり、練習や遠征が続く中で、発信に時間を割くのは簡単ではない。
戸﨑氏は次のように話す。
一生懸命発信している選手も何人かいるんですけど、SNSでは誹謗中傷などもあるので、それで控えてしまう選手も多いんです。今回こういう講習を受けたことで、1人でも発信する選手が増えてくれればと思います。チームとして発信できる内容と、個人ベースで見せられる視点は違うので、すごくためになったと思っています。
チーム公式と選手個人とでは、発信できる内容が異なる。ウインタースポーツの個人競技では、選手自身がSNSの運用を担うことも多い。競技に打ち込む日々の中で、映像編集を学ぶ時間を確保するのは難しい。今回の講座は、選手やスタッフが制作技術に触れる貴重な機会となった。
SNSはスポンサーとの関係づくりにも役立つ。支援を受けている選手はスポンサーの製品やブランドを紹介でき、これからスポンサーとの関係を築いていく選手にとっては、自身の活動を知ってもらうきっかけになる。
スポンサーがついている選手は、自分のスポンサーの宣伝にもなります。逆にスポンサーが少ない選手は、トップ選手を見て「こうしたらスポンサー獲得につながるかもしれない」という、マーケティングの部分も学べるのかなと思っています。
映像発信は、ファンとの交流だけでなく、競技活動を支える環境づくりにもつながる。一方で、何を伝え、どう続けていくかは、これから一人ひとりが形にしていくテーマでもある。
話題は、競技分析に使うドローン映像にも及んだ。長野県・菅平の強化拠点では、滑走を上方、側方、後方から撮影しているという。ただ雪山では、天候や樹木、斜面の傾斜などの影響があり、高速で滑る選手との距離を保ちながら撮影するのは難しい。
戸﨑氏は自動追尾技術にも関心を寄せる。選手を安定して追い続けられれば、技術分析だけでなく、映像編集やSNS発信にも活用できるからだ。
競技分析と、競技の魅力を伝える映像とでは目的が異なるが、同じ素材を活用できる余地はある。新たな編集技術が、その用途をさらに広げていきそうだ。
編集技術の前にSNSを理解する。加納氏が語るPremiereモバイル版の実践的な強み
講師を務めた映像クリエイターの加納裕也氏にも話を聞いた。加納氏は、スマートフォンによる写真・映像制作のハウツーをSNSで発信するほか、映像制作や講師としても活動している。
今回の講座では、Premiereの操作説明より先に、SNSの仕組みや動画の企画方法を学ぶ時間が設けられていた。その狙いについて、加納氏は次のように語る。
一番は、何を発信していいか分からないという方もいると思ったので、そこをそろえていくことです。必要であればSNSの基礎からお伝えしようと。どうしても編集スキルの話に行きがちなんですけど、結局はSNSに出すものなので、SNSのアルゴリズムや、投稿したらどう伸びるかというところから伝えて、それから撮影に入ったほうがスムーズに理解できると思いました。
動画を編集することと、動画を見てもらうことは同じではない。どれほど完成度の高い映像でも、冒頭で視聴者が離れてしまえば内容は届かない。だからこそ講座は、競技の魅力をどう伝えるかという考え方を共有してから、撮影や編集に進む構成になっていた。
Premiereモバイル版について加納氏は、無料で使えて広告が表示されない点に加え、編集者の視点に立った機能を備えている点を挙げる。特に便利な機能として紹介したのが、タイムラインを1フレームずつ移動できる操作だ。
一番の強みは、無料で広告がなく、しかも編集者目線で使えることだと思っています。1フレームずつ動かす機能も、最初は何がいいのか分からないかもしれませんが、使ってみると意外とここが必要になる、という機能なんです。
スポーツ映像では、ターンの切り替えや動作が決まる瞬間を音楽のタイミングに合わせるなど、細かな編集が求められる。スマートフォンならではの手軽さを備えながら、フレーム単位で調整できる。映像表現の幅を広げる機能といえるだろう。
加納氏は、デスクトップ版Premiereとの連携にもメリットを感じているという。外出先で仮編集を進め、自宅などで本格的に仕上げるといった使い分けだ。連携には対応する契約やクラウドストレージなどの条件があるものの、移動や遠征の多いアスリートにとっても活用の余地は大きい。
そして、今回の講座で特に試してほしかった機能として挙げたのが「背景を削除」だ。人物の背景を取り除き、その後ろにテロップを配置するだけでも、映像の印象は大きく変わる。従来は一定の編集知識が必要だった表現を、スマートフォンで手軽に試せる点に魅力を感じているという。
今回の取材を通じて見えてきたのは、編集ソフトの操作を学ぶこと以上に、映像を発信する人の裾野が広がっているという変化だ。競技の現場を知る選手自身が、その経験や知識を映像にして届ける。無料から始められる制作環境は、その第一歩を後押ししている。
もちろん、競技と両立しながら発信を続けることや、SNS上のリスクへの向き合い方など、簡単ではない面もある。それでも、選手にしか伝えられない競技の魅力を、自らの手で映像にして届けられる意義は大きい。
雪上で0.01秒を争う選手たちが、スマートフォンの画面で「最初の2秒」を考える。映像を作る道具が変われば、映像を作る人も変わっていく。今回の「PremiereモバイルWorkshop」は、スポーツ選手が撮影される側であるだけでなく、自らの視点で競技を伝える「発信者」にもなっていく――そんな時代の変化を感じさせるものだった。