
新たな映像体験がもたらす可能性
空間ビデオとは、左右の目に入る映像に視差がある2つの動画を組み合わせたステレオ(立体)動画である。人間は左右の目で周囲を見ており、それぞれの目で見える映像に違いがあることによって距離を認識している。この仕組みを「両眼視差」といい、カメラやディスプレイで再現することで、単眼動画と比べてより立体感や没入感を感じられる。まるで人間がその空間にいるような体験を提供できることから、「空間ビデオ」と呼ばれている。
「空間ビデオ」をキーワード検索すると、Appleのウェブページが表示されるように、同社がApple Vision ProやiPhoneでの開発・販売過程で名付けたものである。英語では「Immersive Video(直訳:没入型動画)」と「Spatial Video(直訳:空間的動画)」の2種類の表記がある。iPhoneで撮影できるステレオ動画をSpatial Videoと呼び、Apple Vision Proで視聴できるiPhoneで撮ったものに限らずステレオで視野角の大きい動画をImmersive Videoと呼んでいるようである。

ヘッドマウントディスプレイで見る映像は、従来のディスプレイで見る矩形映像と比較して立体感や没入感など、その空間にいる感が感じられるものとして評価されてきたが、Apple Vision Proではそのディスプレイ性能やまた最適化されたサンプル動画が配信されたことで、この空間ビデオが話題になっているのであろう。

消費者向けにスポーツやドキュメンタリー等の高品質な空間ビデオが提供されると同時に、産業界ではカメラメーカーであるBlackmagic Designやキヤノンがアップルの空間ビデオに対応したカメラやレンズの発売発表があったことも、この空間ビデオの盛り上がりに繋がっている。
空間ビデオに類似する用語としてパノラマ動画やVR動画があるが、技術的には以下のように分類できる。
- 画角:人間の視野のように限定された視野か、360°の全周囲視野か。
- 2D / 3D:両眼視差を再現しているかどうか。
この分類から考えると、パノラマ動画は360°映像であり、2Dと3Dの両方が存在する。一方、VR動画は360°に限らず、VRヘッドマウントディスプレイ(HMD)での視聴を想定した高視野角な動画であり、これも2Dと3Dの両方が存在する。360°動画の撮影はRicoh Thetaが「m15」にて撮影対応したころより一般化してきたが、いざヘッドマウントディスプレイで視聴しようとした時には後部まで頭を回すのが大変だったり、360°の中でどちらに注意を向けて視聴すべきかの撮影者・編集者の意図が伝わりにくかったりと、ストーリーテリングのフォーマットしては課題も抱えている。
空間ビデオはその課題を解決し、視野角は前方のみに絞るものの高視野角であり、ステレオであることから立体感は実現している。本記事では、空間ビデオとはAppleが提唱するものを想定し、画角は360°ではなく視野角が限定されており、視差があるものとする(2025年2月現在)。
「Apple HEVC Stereo Video」とは
空間ビデオのフォーマットは、ステレオ動画であることから、左右の目用に分かれた2つの動画になっている。例えば、前方180°が映っている魚眼動画として記録され、時間同期が取れた左右の映像が収録される。

Appleは「Apple HEVC Stereo Video: Interoperability Profile」などで空間ビデオの仕様を発表しており、それに基づき他社も空間ビデオ対応のカメラや編集ソフトを開発している。
空間ビデオはApple Vision Proでの視聴を想定しており、Vision Proの片目あたりのディスプレイ解像度が3800×3000ピクセルであることから、空間ビデオの解像度もそれに適したものでないと、視聴時に画質の低さを感じてしまう。また、左右両眼の映像を1つのカメラで撮影する場合、センサーを2分割して使用するため、最低でも8K動画に対応したカメラが必要となる。
空間ビデオの圧縮フォーマットには「MV-HEVC(Multiview High Efficiency Video Coding)」が採用されている。高解像度のステレオ映像を取り扱うため、ファイル容量が大きくなりがちだが、MV-HEVCは左右の映像が非常に似ている点を利用して高圧縮率を達成している。動画内の基準フレーム(Iフレーム)とそこからの差分のみを記録することで、最終的なファイルサイズを削減する。

撮影・変換の仕方

空間ビデオを撮影するには、両眼用に2つの動画を撮影する必要があり、必然的にレンズが2つ必要になる。Apple製品では、iPhone 16(iOS 18以降)、iPhone 15 Pro / Pro Max(iOS 18.1以降)で撮影が可能であり、iPhoneを横向きにした際に水平に並んだ2つのレンズを使用する仕組みになっている。
また、キヤノンやBlackmagic Designからも空間ビデオ対応のカメラ・レンズが発表されており、以下の機材が利用可能である。
■Blackmagic Design
- Blackmagic URSA Cine Immersive
■キヤノン
- EOS R5 C / EOS R5 / EOS R5 Mark II / EOS R6 Mark II / EOS C400 / EOS C80 + RF5.2mm F2.8 L DUAL FISHEYE
- EOS R7 + RF-S3.9mm F3.5 STM DUAL FISHEYE
- EOS R7 + RF-S7.8mm F4 STM DUAL FISHEYE
空間ビデオをApple Vision Proで視聴するには、MV-HEVC形式に変換する必要がある。Blackmagic製品ではDaVinci Resolveを、キヤノン製品ではEOS VR Utilityなどを使用する。なお、キヤノンのEOS VR Utilityで空間ビデオのフォーマットに変換できるのは、2025年2月現在、EOS R7 + RF-S7.8mm F4 STM DUAL FISHEYEの組み合わせのみである。
視聴の仕方
空間ビデオは視聴時にも両眼対応の立体視ディスプレイが必要になる。Apple製品ではVision Proが対応している。
また、市場には裸眼立体視ディスプレイとして、以下のような製品もある。
- ソニー:Spatial Reality Display
- Acer:SpatialLabs
- zSpace:Inspireシリーズ



ただし、これらのデバイスでMV-HEVCフォーマットの動画を直接再生できるかは未確認である。現在、一部の開発者がSBS(Side by Side)フォーマットの従来型ステレオ動画をMV-HEVCに変換するプログラムを公開しており、それを利用すれば既存のプレーヤーで再生できる可能性がある。
記事執筆時点でApple Vision Proで空間ビデオの性能や画質を確認するには、Apple公式のコンテンツ(Boundless、Wild Life、Elevated、Submerged、2024 NBA All-Star Weekend, Red Bull: Big-Wave Surfing など)を視聴するのがよいだろう。 https://www.apple.com/jp/newsroom/2024/07/new-apple-immersive-video-series-and-films-premiere-on-vision-pro/
ハード・ソフトの進化と市場拡大
現在、空間ビデオの撮影・視聴環境は限定的だが、Apple Vision Proの高性能なハードウェアにより、高視野角・高解像度な映像を体験できる環境が整ってきている。没入感のある新たな映像体験を求める人には試す価値のあるフォーマットである。
また撮影・収集に利用可能なハードウェアやソフトウェアも増えてきており、制作者としても環境が整いつつある。空間ビデオを視聴できるのがApple Vision Proだけだとするとその普及台数が少ないため尻込みしてしまうかもしれないが、Meta等の他のVR HMDでも再生対応がされつつあるため、今後空間ビデオコンテンツの増加は期待できそうだ。
青木崇行|プロフィール
カディンチェ株式会社代表取締役。2009年慶應義塾大学より博士(政策・メディア)取得。ソニー株式会社を経て、カディンチェ株式会社を設立。カディンチェではXRやAIに関するソフトウェア開発に従事し、360度動画用CMS、VRメタバース、MRアプリケーション、ボリュメトリックキャプチャリングシステム開発やバーチャルプロダクションスタジオ運営に関わっている。
