思わず「おお!」という声が漏れる。ヘッドマウントディスプレイを手に取り覗き込むと、空間に浮かび上がった巨大な図鑑から、トップジョッキー・川田将雅騎手の精巧な3DCGが眼前に現れるのである。
これは、JRA競馬博物館(東京都府中市)で2025年10月4日より開始された新体験型展示「ジョッキー図鑑」での一場面である。本展示はキヤノンのMR(複合現実)システム「MREAL」を活用したものであり、普段は遠くからしか見ることのできないトップジョッキーの騎乗フォームやこだわりの装具、独特の鞭さばきを、あたかも本人がその場にいるかのごとき臨場感をもって、あらゆる角度から間近に観察することが可能である。それは、まさしく実際に眼の前にあるかと錯覚するほどのものである。
競馬の魅力を新たな視点から伝えるこの画期的な展示は、2025年12月28日まで開催される。開催後の10月6日には川田騎手本人も来館し、自身をテーマとしたコンテンツとの対面を果たした。また、本展示は、キヤノン株式会社の総合デザインセンターが企画・演出を、キヤノンITソリューションズ株式会社が展示環境の構築・運営サポートを担当し、展示企画から運営支援まで一貫してキヤノングループが手掛けたものである。この事実もまた重要であり、この点に関しても、「キヤノンはこのようなこともできるのか」と驚きを覚えた部分であった。今回、川田将雅騎手本人とキヤノンの制作陣とともに、その様子を取材した。
トップジョッキーの技術をMRで体感、JRA競馬博物館の新展示「ジョッキー図鑑」
来館者はヘッドマウントディスプレイ「MREAL X1」を手にとって覗くだけで、現実の風景に3DCGを重ね合わせた複合現実空間を体験する。ディスプレイを通して見ると、眼の前の空間に大きな図鑑が現れ、その中から人気ジョッキーである川田将雅騎手の精巧な3DCGが立体的に登場する。このシステムは簡単なセットアップですぐに複合現実の世界へ入ることができるのが特徴だ。
展示内容は、川田騎手の3DCGが、騎手こだわりの装具や独特の鞭さばきについて解説するというものだ。さらに、実際のレースさながらの騎乗フォームのデモンストレーションを、体験者が自身の立ち位置を自由に移動しながら、様々な角度から至近距離で観察することが可能である。これにより、普段は見ることが難しいトップジョッキーの細かな動きや技術を、高い臨場感をもって知ることができる。
この展示で中核をなす「MREAL」は、主に自動車などの設計・製造現場といった産業分野で活用されてきたシステムである。設計段階の製品を原寸大の3DCGで現実空間に表示し、作業性や安全性を事前に検証するために求められる、裸眼での感覚と差異のない寸法精度や、安定した動作性能といった技術が、今回のエンターテインメントコンテンツにも応用されている。
使用されているヘッドマウントディスプレイ「MREAL X1」は、PCと有線で接続されている。これは、本体の軽量化やバッテリー交換の不要化に加え、PCが持つ高いGPU処理能力を最大限に活用するためである。
川田騎手を再現したボリュメトリックビデオのデータは非常に容量が大きく、スタンドアロン型の機器では再生が困難だが、この構成によって高精細な3DCGを安定して表示することが可能となっている。3DCGのリアルさは、実写に近い立体映像を生成するボリュメトリック技術と、それを違和感なく現実空間に重ね合わせる「MREAL」の親和性の高さによるものだ。体験者はあらゆる角度から3DCGを回り込んで見ることができるため、映像コンテンツでありながら、背後や細部にいたるまで作り込まれているのが特徴と言える。
また、運営面にも工夫が見られる。デバイスは頭部に固定するのではなく両手で持つ形式を採用した。これにより、来場者一人ひとりの装着や調整にかかる時間を短縮し、多くの人が体験できるようにしている。接触面が少ないため衛生管理がしやすいという利点もある。
2025年10月4日の展示開始以来、連日多くの来場者があり、時には1時間以上の待ち行列ができるほどの盛況を見せているという。1日に体験できる人数は最大で約150人ほどである。
川田騎手がMR「ジョッキー図鑑」を初体験「想像以上にリアル」
開催後の10月6日には、川田将雅騎手本人が同館を訪れ、完成した展示を初めて体験した。体験を終えた川田騎手は、「撮影時に想像していたものがリアルに再現されており、新しい体験をしてもらえるのは間違いない。とても面白いものに仕上がっていると満足している」と、コンテンツの完成度について述べた。
自身の3DCGによる騎乗フォームをあらゆる角度から客観的に見たことについては、「鏡や映像とは違い、自分はこういうふうに見えているのか、こういうふうに乗っているのかと改めて感じ、私自身にとっても新しい良い経験だった」と語った。また、他のジョッキー、特に若手騎手から「技術向上のために見てみたい」という声が複数寄せられていることも明かし、同業者にとっても発見のある内容であることを示唆した。
来場者に向けては、「これを間近で見て理解してから実際のレースを見ると、また違う見え方や思いが出てくるはず。アスリートであるジョッキーというものを、より知ってもらえる良い機会なので、ぜひ体験してもらいたい」と語った。
狙いは「ジョッキーの魅力」という新たな視点。キヤノン制作陣とJRA担当者が語る開発秘話
この展示は、キヤノンが持つ3D技術と競馬の親和性に着目したJRAからの提案がきっかけとなり実現した。企画を担当したキヤノンの制作陣を代表し、キヤノン イメージング事業本部 主幹の中村隆幸氏は、「すでに多くのファンを持つ競馬というジャンルに対し、『ジョッキーの魅力』という新たな視点を提供することを重視した」と語った。
レースを遠くから観戦するだけでは伝わらないトップジョッキーの高度な技術を、間近で体感できる点に価値があると考え、博物館という場所に合わせ、来場者が本をめくるように能動的に学べる「図鑑」というコンセプトが考案された。木馬を用いたレースシーンでは、躍動感を演出するため、スピード感を表すエフェクトや舞い散る芝といった3DCG演出を加える工夫が凝らされている。
一方、主催者であるJRA(日本中央競馬会)映像・ウェブプロデュース室の鶴岡史隆氏は、このプロジェクトが約2年前に始まったことを明かした。歴史ある競馬と最新のMR技術を掛け合わせる点に新鮮さと面白みを感じ、導入を決定したという。企画の大きな狙いは、馬券を購入する楽しみ方だけではない、騎乗技術を磨き、日々鍛錬を積む「アスリートとしてのジョッキー」に焦点を当てることにある。
川田騎手を起用した理由については、ファンサービスへの熱心さに加え、自身の技術や考えを的確に言語化する能力に長けており、コンテンツの趣旨を伝える上で適任だったと説明する。
JRAでは近年、ジョッキーカメラやトラッキングシステムなど、新しい映像技術を用いてレースの楽しみ方を多角的に提供する試みを進めており、今回の「ジョッキー図鑑」もその流れを汲むものである。今回の反響次第では、今後のシリーズ展開も検討される可能性がある。
JRAの情熱、キヤノンの技術、川田騎手の魂。三位一体で実現した「感じる」競馬体験
本展示は、JRAの革新への情熱、それを可能にしたキヤノンの総合力、そしてトップアスリートである川田将雅騎手の協力という、それぞれの想いがMRという舞台で交差し、これまでにない臨場感を生み出している。それは単に「見る」のではなく、「感じる」体験と言えよう。競馬の歴史に新たな地平を切り拓いたこのデジタル図鑑。その次なる展開を、今はただ心待ちにしたい。