前回まで、ヨーロッパのアニメーションの拡大をお伝えした。今回は視点を変え、技術の研究開発と産業化の連携を考えてみたい。
ローザンヌのレマン湖 |
経済産業省は昨年の「技術戦略マップ」でコンテンツ分野を掲げた。今のところ、中小企業の多いコンテンツ分野に、大学や研究機関で開発される技術の産業化の恩恵は及びにくい。また高等教育機関で訓練された技術者がコンテンツ分野で活用しているかと言えば、アプリケーション開発やシステム管理の専門スタッフがいるアニメーションスタジオはわずかだ。
そこで、スイスの技術移転をみてみよう。スイスのコンテンツ産業は小さいが、ここで紹介したいのは研究開発成果の産業化への仕組みだ。その取り組みに、日本の課題解決策が見えてくるのではないだろうか。
コンテンツ分野の飛躍の鍵は、技術移転
第81回アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞した、加藤久仁生監督の『つみきのへや』が手描きアニメーションであったので、CGアニメーション離れのような論調が一部に見られた。しかし、アニメーションや映像にコンピュータを基とする技術/ソフトは不可欠になっている。それは制作から公開・保存まで、コンテンツの寿命全般に渡る。完成物の見え具合が、いわゆるCG調であるか、そうでないかは制作者のさじ加減、あるいは予算次第だ。”手描きアニメーション”作家であっても、紙と鉛筆でなく、ペンタブレットで下書きから始める若手が増えている。そして制作過程にネットワークやデータベースが寄り添い、技術の日進月歩で流通の多様化が進む。
日本は、映画、アニメ、テレビ、音楽、マンガなどのコンテンツを2015年までに20兆円産業にするという目標を掲げる。経済産業省は、新産業の創造に必要な技術目標や製品・サービス・コンテンツの需要を創造するための方策を示す「技術戦略マップ」を作成している。2008年版では「コンテンツ」を増強した(技術戦略マップ コンテンツ技術)。その中でコンテンツ分野の課題として、開発された先端および基盤技術の成果の普及や活用が十分になされていないとした。
コンテンツは労働集約的業態のため雇用創出が大いに望める。しかも、コンテンツのユニークさを考えれば、国際競争力の高い人材と技術の集積が期待できる。エバーグリーン・コンテンツを握れば、長期に及ぶ収益源となる。しかしコンテンツの経済規模は、未だに14兆円ほどで、増加はわずかだ。コンテンツ分野がもう一段飛躍するには、制作や流通に技術移転の恩恵をもっと及ぼさねばならないだろう。
中央ヨーロッパのシリコンバレー、スイス
スイスのコンテンツ市場は小さい。その理由は人口740万人の小国であり、4つに分かれる公用語が挙げられる。主要言語のドイツ語、フランス語、イタリア語に沿って文化圏が分かれる。ケーブルテレビが8割以上普及し、母語それぞれのコンテンツを国外から買い入れている。優れたアート系映画の系譜はあるが、商業的な成功を求める人たちは国外に流出する。アニメーションは微々たるものだ。
欧州合同素粒子原子核研究機構。地球誕生の謎を解き明かすとされるヒッグス粒子の測定実験をする衝突型円型 加速器LHC。加速器内部で、茶色部分が陽子ビームが飛ぶ実験装置 |
昨年、日本人4人がノーベル賞を受賞したのに沸いたが、スイスは27人の受賞者を出している。そのうちスイスと外国の両方の国籍を有する研究者とスイスに帰化した研究者が10人いる。スイスは、外国人研究者に居心地の良い所なのだ。ローザンヌ連邦工科大学は学生の4割が外国人、教員・研究スタッフに至っては半数を外国人が占める。国際連合欧州本部を筆頭に数々の国際機関を置く、国際都市ジュネーブは人口の4割近くが外国人で、世界最大の衝突型円型加速器LHCで地球誕生の謎を解き明かすとされるヒッグス粒子の測定実験をする欧州合同素粒子原子核研究機構(CERN)などの国際共同研究所がある。CERNは、WWW(World-Wide Web)誕生の地としても有名だ。
スイスの科学技術研究の質は高い。1998~2002年の統計で、人口1,000人当たりの論文発表件数は8.5で、日本の3.3、米国の6.1を上回る。あるいは学術論文の引用数が、世界の最高位にある。日米欧の三極特許の人口1,000人当たりの取得数は111件で、OECD国中のトップ。OECDのレポートは、科学、技術そしてイノベーションを高く評価し、次の利点を挙げている。
- 研究開発とイノベーションの力強さ:大規模な多国籍企業と中小企業の両方に、強固な研究基盤を有している。
- 公的研究機関:2つの連邦工科大学と州立大学の研究セクターと、そして応用科学大学が、高度なイノベーションで産業界に貢献している。
- サービス部門の力強さ:金融部門のような、発達したサービス部門が経済・イノベーション制度で徐々に重要な役目を果たし、スイスの経済動向の重要な鍵を握る。
スイスの技術移転の仕組み
スイスの高等教育機関は全て公立だ。そして、公的資金は民間企業の研究開発には直接投資されない。そこで、公的な研究セクターから産業界への技術移転を支援する仕組みが発達した。スイスの1990年代は経済低迷期で、その間にフィンランド、スウェーデン、デンマーク、アイルランド、オーストリアや韓国、シンガポール、台湾、そして中国、インドがより速いペースで発展して、スイスの地位を脅かすようになった。さらに、研究開発費の三分の二を占める民間セクターがその活動を低コスト国へ移している。アメリカ等への頭脳流出も続く。
スイスの科学技術支援と技術移転を担う機関として、技術革新委員会(CTI)と、基礎研究や若手研究者に助成をおこなうスイス科学基金(SNSF)が有名だ。CTIはこの10年で目覚ましい成果を遂げた。たとえば延べ4,500件以上の応用研究を支援し、5,000以上の企業との共同プロジェクトを成立させた。そのうちの8割が中小企業で、300億フランの研究開発投資効果を生み出した。起業家支援を受けたプロジェクトの85%が事業を軌道に乗せ、4,000以上の新雇用を創出した。 このような仕組みは外国人であろうと享受できる。逆に言えば、グローバル化が優秀な人材をスイスに引き寄せる制度を発達させたのだ。
体系的な研究開発助成、若手研究者等への支援、技術移転・イノベーション
スイスでは、経済省と内務省が連邦政府の科学技術政策を担う。経済省は産業への寄与と職業教育、内務省は科学技術基盤の構築を担当する。
「Science to Market(科学から市場へ)」にはプロモーション・サイクルがあり、研究セクターと産業セクターの間に”死の谷(Valley of Death)”がある。スイスは、その谷を越える仕組みと、ボトムアップ型の制度を作った。そのサイクルの要となるのが、スイス科学基金(SNSF)と技術革新委員会(CTI)だ。
スイスの研究開発と技術移転のプロモーション・サイクル
■ スイス科学基金(SNSF)SNSFは、スイス連邦政府から権限が与えられたNPO組織で、基礎研究や国家的重要性の高い研究、国際共同研究を支え、才能ある若手研究者を育成している。毎年7,000名以上の研究者に助成金を与え、そのうちの5,000名以上は35歳以下の若手が占める。対象はほぼ全ての科学領域をカバーする。
SNSFの原資は、連邦政府予算が大半であるが、民間からの寄付もある。その分配は、スイス内で活動する、現役の科学者・研究者が評議員となる研究評議会で検討・決定される。研究評議会は、人文科学・社会科学、数学・自然科学・工学、生物学・医学、そして連邦政府が定める重点研究の4つのディビジョンに分かれる。最高意志決定機関である基金評議会・上部委員会は、科学者・研究者、連邦政府職員、州政府職員、経済・文化関係機関の代表者で構成される。
ベルンにあるスイス科学基金の本部 |
連邦予算は07年 5億4500万、08年 5億9200万、09年 6億210万、10年 6億570万、11年 7億470万スイスフラン(換算レート 1スイスフラン=90円)と増加傾向だ。独自の判断基準を持つ査定と運営は、ボトムアップ型、民主的、公平で、研究者の信頼を得ている。基礎研究プロジェクト、若手研究者への助成の重要性は高く評価されている。支援は長期的スパンで、コンペティティブな査定基準が取り入れられている。また、プロジェクト助成には、研究者の人件費などの間接費も認めている。助成プログラムは学問領域別に配分されることが多いが、学際的・多角的な研究プロジェクト、全国規模の問題を扱う研究プロジェクト、外国との共同プロジェクトも重視されつつある。
■ 技術革新委員会(CTI)
CTIは、連邦経済省の職業教育技術局の傘下にあり、「Science to Market(科学から市場へ)」を設立理念、活動目標とする。スイスの研究開発の能力は高く、技術革新の可能性も潜在的に高いとされるが、失われた10年の課題を解決するにはイノベーションが必要だった。60年以上の歴史を持つCTIは、最近の10年間で、研究セクターと産業セクターの間の”死の谷”を乗り越え、応用研究の成果を速やかに市場投入するための産学協同プロジェクトの推進に力を尽くし、実績を残した。CTIが、大学・研究機関の成果と起業家の市場ニーズに適ったアイデアや意志の橋渡しをおこない、技術移転や技術の市場投入までのプロセスを迅速、効率化する。
ベルン経済省。CTIの事務所は別にある |
スイスは、公的資金を企業の研究開発に直接投資しない。そのため、中小企業やスタートアップにとって、公的研究機関をパートナーとすれば、産学協同のフレームワークで公的助成を出すCTIの制度が必要になる。大学内の研究開発、特に基礎研究は、SNSFが助成する。それらが実業化を希望すればCTIの出番となる。CTIの重点分野は生命科学、実用科学、マイクロ/ナノテクノロジー、エンジニアリング科学で、優先するのは起業指向が高いスタートアップ/スピンオフ/革新者からの発案で、高付加価値で高成長が見込まれるものだ。
中小企業のイノベーション
スイスでは、従業員250名未満の中小企業が労働人口の約7割を雇用する。中小企業のイノベーションはスイスの生命線だ。CTIは、技術移転や海外進出、ハイリスクなプロジェクトへの助成で、中小企業やスタートアップを支える。
CTIの任務は、起業の促進、迅速な事業化、優良雇用の創出、内外の競争力増強だ。応募する起業家の事業計画と、パートナーの大学・研究者の研究に先進性や実現可能性があるかを適切かつ公平に評価する。また、市場と研究開発双方の需要を把握し、時機を得たアドバイスをする。首都ベルンにあるCTIには、生命科学、実用科学、マイクロ/ナノテクノロジー、エンジニアリング科学という4つの重点分野に分かれ、事業者・起業家に対応する、常勤の専門担当官がいる。さらに、50人程度の外部の査定専門家を抱える。また、スイス全土を5つの地域に分け、外部のコンサルタント企業等と契約して、産業界と大学等に日常的なヒヤリングをおこない、それぞれのニーズや情報をCTIに集約する。
大学の取り組み:ローザンヌ連邦工科大学のケース
ローザンヌ連邦工科大学のキャンパス。奥に見える山並みは、フラン ス側のアルプス |
スイスの研究開発助成、若手研究者等への支援、技術移転・イノベーションは、上記のSNSFとCTIを要に体系化されている。加えて、大学の取り組みが重要だ。スイスに2つある連邦工科大学の一つ、ローザンヌ連邦工科大学(EPFL、http://www.epfl.ch/)のケースを紹介しよう。 EPFLは産業界との結びつきを重視している。Cast/association APLEと呼ばれる、技術移転の制度を1986年にスタートさせた。93年には学内開発技術の知的所有権の方針をまとめ、特許取得の徹底に務めてきた。技術移転を担うSRI(産学協同サービス)という専門部署がある。このような技術移転専門の部門があるのは、スイスの大学でも珍しい。技術移転の仕組みは、全スイスへ広がろうとしている。
SRIには技術、法律、特許、企業財務、起業などの実務経験を持つ常勤スタッフ7名がいて、技術移転に関するワンストップ・オフィスだ。学内の研究所に配された100名程のコーディネーターが研究開発動向をウオッチし、研究者のニーズをSRIへフィードバックする。産業界とパイプを持たない研究者にパートナーリサーチを手助けしたり、SNSF、CTI、その他の助成プログラム情報を提供し、資金調達を円滑に進める。研究者には「技術開発が終わりでなく、特許を取得し、実業化するのがゴールだ」と説いている。
研究者あるいは学生らの成果は、大学側と協議の上EPFLの特許とすることも多い。学内の知的所有権を有効に活用するために産業界とつなぐのもSRIの重要な役割だ。「誰もサポートしない段階で、新しいアイデア、小規模なプロジェクトを支援するのが、学内制度の強み」とする。また、ネスレやロジテックのような大企業と戦略的パートナーシップを結び、EPFLへ民間資金を中長期的に誘導する。
さらにスイスには全国を5つに分けて、公的セクター(大学・研究機関)の技術を中小企業等へ移転する産学共同促進プログラムがある。05年に発足した、フランス語圏の「alliance」は、EPFL、ローザンヌ大学、ジュネーブ大学にオフィスを置き、域内の大学・研究機関の6,000名の研究者と企業がアソシエーションを組む。
CTIだけでは大学の個別状況を把握しきれない。また、企業と研究者の方向性(思惑)が異なると、破綻するプロジェクトもある。現場に即したプル/プッシュの支援ができるSRI、研究者と企業を結ぶallianceアライアンス、さらに大学と連携するサイエンスパークで、CTIの助成金配分やスタートアップ支援を補完するのが、スイスの技術移転の仕組みだ。
今回紹介したスイスではコンテンツ分野が弱いため、他の分野が対象だが、「Science to Market(科学から市場へ)」はいずれの分野にも通じる。「スイスは小国だからできる」と思考停止する前に、研究成果という資源も人的資源も散在する日本の現状を振り返るきっかにしてほしい。全国と地域、民と官、研究セクターと産業の関係を整理し、ボトムアップ型の新しい仕組み作りを始めてはどうだろうか。中小企業の多いコンテンツ分野だから、小国スイスのイノベーションが参考になることも多いだろう。
伊藤裕美(オフィスH)