三年前のこと。小さな生き物がおなかの中にいるということがわかった。喜びとともに、押し寄せてきたのは不安だった。これから妊娠・出産で一年近く仕事を休んだとしたら、フリーランスで映像ディレクターという不安定な職業の私に「仕事」はあるのだろうか…。という先のみえない不安on不安。

妊婦生活はのんびりとかまえられるほど甘くなく、ツワリ真っ最中時期にハードな撮影が待ち受けていた。10分の短編を一週間で6本撮影(計1時間!)というかなり無茶な撮影で、そもそもの体力さえ不安なのに、撮影期間が「ツワリ全盛期」って…。一応ツワリの存在は聞いたことはあっても未体験。その頃の自分の体調がどんな状態かは未知の世界だ。不測の事態に備えて、いま仕事を断るべきなのか、いや断るには遅すぎるのか。もうシナリオも作って、役者も決まって、スタッフィングまで終わっている…。そうしているうちに大阪まで日帰りで役者に会いに打合せなんて予定も入ってきた。

妊婦 in 撮影現場

私は心を決めた。星の数ほどいる監督の中であえて私を選んでくれたわけだし、まあビビっていても仕方がない。一生懸命やればあとは神様がなんとかしてくれるでしょ~と。なんだかんだ準備にあけくれて、ツワリを感じる余裕もないまま撮影は、スタートした。

物語の舞台となるシェアハウスロケ現場

物語はシェアハウス生活をしている6人のアラサー女性がそれぞれ主役のオムニバスで、化粧品会社のウェブサイトで公開されるショートムービーだ。今をときめく女性お笑い芸人が主役を演じ、彼女たちの分刻みのスケジュールにあわせて、こちらの撮影スケジュールもかなりタイト。

監督業は朝から晩まで休む暇なく立ち仕事!頭脳労働と肉体労働のダブルパンチで妊婦には非常に厳しい。メインの撮影場所は、西荻窪にある和洋折衷の一軒家。ここを中心に都内を10カ所ほど巡りつつ、朝から晩までカメラマン二人体制で撮影を敢行。“お金のない現場”は最近のトレンドになりつつあるが、お昼ご飯がまさかのコンビニ弁当だったり、ロケ地にはスタッフが休む場所がまったくなかったり、広告代理店のおじさまはヘビースモーカーで事前の打合せはかならず喫茶店の“喫煙席”だったり、妊婦にはまったくトホホな労働環境なのが映像業界の現状だ。

しかし、女性お笑い芸人のみなさまは超多忙にも関わらず、慣れない女優業も健気にこなし、私のムチャぶりにも一生懸命答えてくれる。「(早朝からの)この撮影後は、夜にお笑いライブ、深夜から番組収録です!」と綱渡りのようなハードワークを笑顔でこなしている。その姿をみているだけで「ワシもまだまだ負けておれん!」と妊婦の背筋も伸びるってもの。結局ツワリは周りから聞いていたものよりかなり軽かったこともあり、なんとか一週間の撮影を乗りきった。

出産と仕事

kokoro_01_DSC_103.jpg

それから数ヶ月。おなかの中の生き物も順調に育ち、撮影したムービーも記者会見、ローンチとすべて仕事が終わったかのように思っていたが、気づけば制作会社からの入金が数ヶ月遅れていた。家に帰るまでが遠足とはよく聞くが、フリーランスにとっては入金があるまでが仕事だ。制作会社に連絡すると「来月必ず払う」とのこと。のんきに構えていたら、ある日薄っぺらい手紙が一通届いた。中には「あなたと仕事をしていた制作会社が潰れたので債権者集会にきてください」と事務的な文章が…。えーーーーーー。

思い返してみるとおかしなことは一つや二つではなかった。こんな時にお金に対する嗅覚がある人はもっと素早く立ち回るのだと思う。しかし私はすでに妊婦も最終段階に入っていて、社会とは縁遠いお気楽生活を送っていた。子供が生まれてくるというフワフワとした幸福を目の前に、あんなにハードに働いた仕事の対価がゼロであるという現実がやってきたのだ。

風の強い初夏の昼、小さな生き物は無事この世にでてきた。出産から3時間ほどたって携帯電話をみると、二件の留守電が入っていた。一件は例の仕事のお金の件で広告代理店から。もう一件は新規の仕事の問い合わせで、どちらも急ぎで電話が欲しいとのことだった。出産直後の私はもちろん仕事の電話をするような気分ではまったくない。

とにかく全身から力が抜けていて、すべての俗っぽいものから遠く離れ清らかな湖の奥底にいるような、完全に「聖なる」精神状態だった。しかしフリーランスの悲しい性で「電話をください」という言葉を無視できなかった。今でもその時の自分がさっぱり理解できないけれど、すべての力を振り絞って無理矢理仕事モードをONにし、私は電話をかけた。そして現実感満載の世知辛い話をしてぐったりと電話を切った。ああ、習性って…。

こうして私は母になったその日に仕事に戻った。母になったら仕事などもうできないのではないかとあれだけ心配していたのに、出産を終えて三時間後、何事もなかったかのように二本の電話を返した。結局は自分次第なんだな〜と思うと、空っぽになったお腹の底からクスクスと笑いがこみあげてきた。

WRITER PROFILE

オースミ ユーカ

オースミ ユーカ

CMやEテレ「お伝と伝じろう」「で~きた」の演出など。母業と演出業のバランスなどをPRONEWSコラムに書いています。