巨大なロボットが都市を劇場に
今回は少し映像についてのメディアアートを脇に置きロボットアートについてご紹介したい。
今、横浜の街で開港から150周年を記念した「博覧会」が開催されている。
横浜という大都市が全力を傾けて行う博覧会となると、様々な大企業が様々な最新技術をもとに楽しませてくれる大スペクタクルを想像するかもしれないが、そうではない。まったく別のスペクタクルがこの博覧会の大きな「目玉」となっている。
巨大な「クモ」のロボットがそのスペクタクルの目玉となっているのだ。この「クモ」のロボットを製作し操るのは、フランスのナント市に拠点を置く、「ラ・マシン」というカンパニー。カナダのケベックに本拠を置く「シルク・ド・ソレイユ」のように、様々な舞台においてスペクタクルを展開する総合芸術としての色彩を持つものが存在している。
「ロワイヤル・ド・リュクス」は、都市を舞台に人や動物を模った巨大な人形が、都市の観衆に筋書きを明かす事無く演じるスペクタクルドラマがその「芸風」である。巨大な少女が歩き回り、実物以上の大きさの象が調教される。そんな壮大な世界が現実のものとなって、人々の日常の中にある街を数日にわたって席巻する。
その「ラ・マシーン」が横浜にやって来た
街を練り歩くマシーン |
埠頭に届けられた謎の巨大部品が外国人たちの手で組み立てられ、高さ12メートルにもなる巨大な「クモ」となって覚醒した。謎の外国人たちは、そのクモに乗り込み、調教を始めるも、火を吹き、霧を吹く、「暴れ蜘蛛」と化し、なだめるのがやっとの様子。
そして横浜の都心臨海部を練り歩いた。別々に街を歩く2匹のクモ。150年前に生まれた旧市街地を何十人もの人間に調教され、楽団に先導され、調教されたのか火は吹かず、時折霧を吹き出しながら、ゆっくり歩き回る。
日本で初めてともいうべき西洋的な広々としたストリートである「日本大通」のクラシカルな建物が並ぶ一体で2匹は邂逅を迎え、まるで交尾をするかの動作を。その後、夕暮れの中、2匹は海へと戻ってゆくのであった。
ところが「Y150」のベイサイドエリアの会場の中で、そのクモはまるで囚われたかのように微動だにしない。かつて横浜の街で調教されたかのように火を噴くこともなく、おとなしく振舞うのみである。そんな囚われのマシーンにアウラを感じることが出来るだろうか?
ロボットがロボットをいじめ抜くことで表象する1999年から先の悪夢
サヴァイヴァル・リサーチ・ラボラトリーズ |
SRL代表のマーク・ポリーン 画像は当時のドキュメントより抜粋 |
テクノロジーに立脚し、そこから生まれる新たなアイディアとビジョンを競い合うメディアアートがある一方で、創造から生まれた機械の存在を通じて、今ある私たちがその輝かしい、ともすれば悪夢のような可能性に思いをはせるスペクタクルの舞台としてのメディアアートも存在する。そんな舞台まわしのためのメディアアートには、技術的な先駆性との関係ではない、人間にとってのイマジネーションとしての先駆性との関係を問うてくれる。
そんなイマジネーションとの関係から悪夢を与えてくれる、ロボットによるメディアアートも存在する。1999年、世紀末の東京を飾る、悪夢のようなロボットたちによるマシーン・サーカスが渋谷の公園で開催された。 サンフランシスコを拠点に1978年より活動を続ける、サヴァイヴァル・リサーチ・ラボラトリーズ(SRL)によるもの。ガレージで生み出された様々なロボットが火炎あり、発射ありの問答無用の相互破壊のバトルを繰り広げる、悪夢のようなショーである。
まさに何時、燃え移るか、破片が飛ぶかわかったものでなく、安全管理を仕切れるのかということもあり、なかなか正規のショーとしてのスペクタクルが成立することが難しかったのであるが、世界の中でも革新的なプログラムを送り出し続けるメディアアートギャラリーであるNTT-ICCのリニューアルを前にまさに「世紀末マシーン・サーカス」のタイトルのもと、1999年12月23日の夜に国立代々木競技場の空き地を会場に敢行された。
ロボットたちが、焼かれ、打たれ、破壊の限り尽くされた1時間は、まるでディズニーランドのような明るいテンポの電子音楽の中で、ロボットへの憧憬を打ち砕く、ロボットがロボットをいぢめ尽くす暴力が支配する、悪夢のような空間であった。
ほとんど広報がされない中で、安全のための定員を超えた観衆に包まれ、まさにイラクやアフガニスタンなどで繰り広げられたマシーンが人を襲う、すぐ先(=現在)の未来のテクノロジーによる何時、私たちも襲われるかもしれない、いたたまれないテクノロジーからの暴力を剥き出しで見せつけてくれた。
これらのマシーンは偽物ポンコツロボットなのか?
今回取り上げたスペクタクルなロボットアートの作品たち。ラ・マシンのマシンやSRLのマシーンは鉄と木材の巨大ながらくた達である。各地で様々な二足歩行ロボットが生まれ、ロボットテクノロジーの粋を競い合う今、これらのローテクなロボットたちをロボットアートとして評価することに違和感が覚える人がいるかもしれない。
しかしどうだろうか?ラ・マシンのロボットたちは、足や手、触覚などが、まさに新たなリアリティのようなディテールと艶めかしい動きの演出を人形師ともいうべき数多の操作者がまるでモビルスーツの戦士のような近未来的ないでたちで操縦する、美と驚きを突き付けるための機能に特化したロボットではないのではないのだろうか。
SRLのロボットたちは、片や破壊のための攻撃に特化した機能として、そして片や破壊されるための弱者としての機能として特化された存在なのである。
テクノロジーの評価だけでメディアアートを見ることはある一つの視野でしか評価できない。アートがアートである所以、それは様々な価値を味わい、意識を研ぎ澄ますことではないのだろうか。 これらのロボットたちが織りなすスペクタクルは、まさに「ただテクノロジーに乗っかっているだけでうちら大丈夫なの?」と、意識を揺り起こさせてくれる存在なのだ。