txt:山本遊子 構成:編集部
ワタリウム美術館代表・キュレーターの和多利浩一さんをゲストに迎えて
「訊かせてよ。」第十一回!
私が「映像」の世界に入ったきっかけは何だったろう、と考えた。
もともと私の生まれ育った環境に「映像」はなかった。私の両親は出版業界の人間だった(父は編集著述業で1998年に逝去、母は現在76歳でいまだに現役の校閲者、兄は社会学者の山本唯人)。私の生まれ育った家は、人から見たらある意味豊かな環境だったのかもしれないが、家中にいつも本が、理屈が、言葉があふれていて、私はそれを常に窮屈に感じている子供だった。天才ではなかったし(漫画描いたり絵画教室に通っていたが)、映画に興味があるわけでもなかった(テレビを見るのは好きだった)。何か作品を生み出すことは特別な才能がある人がやること、と思っていた。
そんなある日、公園の真ん中に大きなアートのオブジェが置かれているのを見て、惹かれた。また別のある日、旅先で写真を撮ったら「センスがいい」と父に褒められた。中3から高1にかけてだったと思う。記憶の断片を寄せ集めて理由を作るとそんなことかなと思う。いつのまにか美術大学で写真を学びたいと考えるようになっていた。ただ、自分には何かを生み出す才能がないから最初は「芸術を考える」ような仕事、キュレーターになれたらいいのかなと思っていた。だけど美大予備校に入るといつのまにかデッサンを描きデザイン科と映像科を受け一浪し最終的に受かったのが多摩美術大学芸術学科映像コースというところだった(現在の多摩美大にはその学科はありません)。
そんな紆余曲折の末、晴れて美大生になった私は、親譲りのDNAの為せる技か、分厚いアート本に書かれた難解な理屈を読むのが好きだった。一人で美術館へ行きあれこれ思索することが好きだった。
当時、東京には今よりもっといろんな種類の美術館があって、中でも南青山にある「ワタリウム美術館」は、埼玉(ダサいたま!)出身の野暮な私にとって、圧倒的にお洒落でちょっと粋がって出向きたくなる、あこがれの美術館だった。ワタリウムに行って難解なアートを浴びることは私にとって不思議とストンと腑におちる幸福な行為だった。ワタリウムで開催された展覧会の分厚い図録は今でもすべて読みきれないまま私の本棚に鎮座している。
今回のゲストは、そんな私の歪な心を難なく受け入れてくれる場所を生み出した張本人!ワタリウム美術館の代表・和多利浩一さん。和多利さんは全くブレない一流のキュレーターでもある。できることなら、あの頃の自分に会って言ってあげたい。「大人になった貴女は出会いに恵まれてこんな映像が作れるよ、しかもごく自然にそんな時が訪れるよ、だからそんなに卑屈にならないで」って。幸福な時間と空間でした。ぜひご覧ください。
そして、少し唐突ではありますが、今回の「訊かせてよ。」は、私と和多利さんを結びつけてくれた、故人・大房潤一氏に贈ります。大房氏はいつも「映像」を携えて、私たちに長年寄り添ってくださった偉大なアーティストであり教育者でした。そして和多利さんにとって唯一無二の"同志"であり、私にとって唯一無二の"恩師"です。
追伸:大房先生へ
ご無沙汰してます。このあいだ三回忌でしたね。時が経つのがはやい!此岸は未曾有のパンデミック!コロナコロナで大騒ぎ。いまだにどこもてんやわんやで大変なことになってます。そちらからの、対岸の眺めはいかがですか?此岸はどんな風に見えているでしょう?いろいろうまくいかないことも多いけれど、私はもうしばらくこっちで、いろんなことを写して、映して、生きていこうと思います。
■ゲストプロフィール
和多利 浩一(わたりこういち)
ワタリウム美術館代表・キュレーター。1960年生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。83年美術メディア出版社イッシプレス設立。90年よりワタリウム美術館キュレーターを務め現在に至る。92年ドクメンタ9で日本人として初めて働く。95年第1回ヨハネスブルグ・ビエンナーレの日本代表コミッショナー。2001年地域ボランティア活動として「原宿・神宮前まちづくり協議会」を発足させ、その初代代表幹事を務めた。
「訊かせてよ。」ノーカット・ノーエディットVer.
もっと深く和多利さんのお話を聞きたい方はこちらのノーカットノーエディット版にアクセスしてみてください。オリンピックに向けて和多利さんが企んでいること、今映像はアートになりうるか、アートとお金のこと、ナムジュン・パイクのこと、SNSのこと、映画のこと、さまざまな事象について縦横無尽に惜しみなく語っていただきました。ぜひご覧くださいませ。