txt:林永子 構成:編集部
邦楽MVの需要が一気に高まった90年代前半
日本のミュージック・ビデオ(以下:MV)シーンを超近視的に目撃してきた映像ライターのナガコこと、林永子がその歴史を振り返る連載第3回目は、いよいよ激動の90年代前半に突入。
80年代の洋楽専門テレビ局MTVムーブメントを受けて、MV人気も世界的に高まる中、90年前後の日本国内では2つの特徴的な音楽産業の動向により、邦楽のMV需要が増加する。1つは音楽専門チャンネルおよびチャート番組の台頭。もう1つは、ミリオンセラーが続出した音楽バブルである。
日本の音楽専門チャンネル
1981年の米「MTV」開局以降、日本でも洋邦のMVを紹介するテレビ番組が登場した事例については前回記した通りだ。今回は改めて日本の音楽専門チャンネルについてまとめてみたい。
元号が平成へと移行した1989年、日本初の音楽専門チャンネル「スペースシャワーTV」が開局。最初にO.A.されたザ・タイマーズ「デイ・ドリーム・ビリーバー」以降、最新のMVをいち早く視聴できる場として音楽ファンの注目を集めた。またミュージシャンをVJ・MCに起用した情報番組等のオリジナルコンテンツにも定評があった。
1992年には「MTV」日本版放送が開始。当初は洋楽のみだったが、のちに邦楽も取り扱い、本家のブランディングを踏襲するオンエアプロモーションのクリエイティビティも人気を博した。そのクリエイティブディレクションの中枢にいた寺井弘典氏(P.I.C.S.)は、MTVのロゴを使用した公募企画「MTV STATION IDコンテスト」を開催(1994年~)するなど、若手映像作家育成にも貢献した。
1998年には、ソニー・ミュージックエンタテインメントが設立した「Viewsic」(現「MUSIC ON! TV(エムオン!)」)も開局。翌1999年「MTV」は「Vibe」として独立。2001年には装いも新たに「MTVジャパン」の開局の機を迎えた。日本の音楽専門チャンネルは、主にこの三者三様のチャンネルを中心に、時に競い合いながら変革を遂げてきた。
MV需要を一気に加速させた「COUNT DOWN TV」
MVを見る場、受け皿が増える一方で、もっとも加速的にMVの需要を高めたメディアといえば、週替わりで変動していくチャート番組である。
楽曲紹介の際に映像を使用する構成にとって、絵音の合致しているMVほど適した素材はない。楽曲と関連性のない素材(ライブ映像、オフショット、テレビ番組の出演シーン等)を使用したところで、絵音の合致するMVと比較して必然性がなく、視聴者はどこかちぐはぐな印象を受ける。もとよりランキング発表は瞬く間の数秒だからこそ、印象的な視聴覚表現を介し、より多くの視聴者に強いインパクトを与えたい。その点、楽曲の魅力を視覚的にも際立たせる使命を負ったMVは最適にして逸材だ。
やはりテレビ番組に映像は必須だ。どうせ作るならMVがいい。チャートで使用する一部分ではなくフルサイズを制作すれば、音楽専門チャンネルでの放映やMV集の販売等の用途も見込める。かくして、チャート番組におけるMVの需要は増加の一途を辿り、新曲リリースとともにMVを制作する工程がレコード会社の定番となった。
特に、1993年より開始された「COUNT DOWN TV」(TBS系列)は、有料ケーブルテレビの限られたチャンネル内で放映されるチャート番組と比較して視聴者数が桁違いに多く、反響も一際大きかった。1位から40位までを発表する構成は、民放の30分のウィークリー番組としてはボリュームおよびスピードがあり、それまでMVの存在を特に気にかけていなかった一般層にも周知を促す機会となった。
CGを用いたブロードキャストデザイン
「COUNT DOWN TV」は演出面も斬新だった。それまでの音楽番組は司会者がゲストを呼び入れ、歌唱・演奏へと導く方法が通例だったが、同番組は司会者を起用せず、CGキャラクターが進行を担当。人間の圧や非合理的なやりとりを省略した結果、膨大な量の情報をカジュアルに提供する新たなスタイルを築き上げた。
「COUNT DOWN TV」が始まる前年の1992年は、いち早く3DCGを使用した子供向けバラエティ番組「ウゴウゴルーガ」(フジテレビ系列)の放映開始年でもある。登場人物のキャラクターデザインは映像作家の岩井俊雄氏。のちに電気グルーヴ等のMVや大手企業CMを手がける田中秀幸氏(フレイムグラフィックス)がAmigaでのCG制作を担当するなど、豪華クリエイター陣が集結していた。
アポなし・突撃ロケで話題を呼んだ「進め!電波少年」(日本テレビ系列)も同年に放映開始。スタジオにセットを組まず、出演者の顔や上半身をCG合成し、デフォルメするユニークな手法が用いられた。さらには、日本版の「MTV」の放送開始年も同年であり、CG合成を背景にVJ陣が情報をナビゲートするスタイルが印象的だった。
映像技術の変遷に伴い、同時期にCGを用いたブロードキャストデザインが複数台頭した状況に、時代の特徴を伺える。
90年前後の音楽シーン
MV需要が高まった原因は、受け皿の増加とともに、ミュージシャンおよびリリースの数が爆発的に増えたからとの見方もある。
1980年代の音楽シーンといえば、歌謡曲全盛期。徐々にアーティストと呼ばれる個性的なシンガーソングライターが台頭し、群雄割拠の「第2次バンドブーム」も到来。アイドルや演歌歌手が名を連ねる芸能界色の強いトップ10チャートに、アーティストやバンド等がランクインする機会が増えていく。
ちなみに平成元年である1989年のシングル総売り上げ1位はプリンセス プリンセスの「Diamond」。同年は、アマチュアバンドがメジャーデビューをかけて対決する音楽番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(TBS系列)の放映開始年でもあった。このバンドブームの影響により、1991年には500組を超えるバンドがメジャーデビューを果たしたと聞く。
また、既存の音楽業界とは異なる角度から新規参入した「avex trax」の設立も1989年。前身の輸入レコード卸販売会社が、自社レーベルとして立ち上げた「avex trax」は、バブル景気のディスコブームに伴い、1990年より「SUPER EUROBEAT」シリーズを筆頭とした海外のユーロビートやダンスミュージックのコンピレーションアルバムを続々とリリースした。
それらのCDは深夜のテレビCMを通じて盛んに宣伝された。CMの演出は、のちに安室奈美恵やglobe、浜崎あゆみらのMVを手がける武藤眞志氏。その際、「avex trax」と読み上げる音声と、ロゴを動かすモーションデザインを同期させた「サウンドロゴ」を使用。視聴者にレーベル名を強く印象付けた。制作を担当したのは、当時ポストプロダクションのMcRAYでエディターをつとめ、のちにモーショングラフィックスを駆使した名MVを多数手がける小島淳二氏(teevee graphics)だ。
音楽バブル到来
1990年以降は史上最大規模の音楽バブルが到来、ミリオンヒットがチャートを席巻する。ランキング1位の売上だけが特別に100万枚を超えたというレベルではない。1992年から2000年にかけては、年間売上ベスト15位前後までがすべてミリオン越えを果たし、世の中的にはすでに弾けたバブルを音楽産業のみが遅れて享受するような状況にあった。以下、90年代前半のヒットソングを紹介する。
1990年の総売上1位にして初のミリオンセラーは、アニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌「おどるポンポコリン」。以降アニメ、ドラマのテーマソングが軒並みヒットを飛ばす。1991年には小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」とCHAGE&ASKA「SAY YES」が、1992年には米米CLUB「君がいるだけで」がダブルミリオンを達成。いずれも大人気トレンディドラマの主題歌だった。
1993年は音楽プロダクション「ビーイング」所属のミュージシャン(WANDS、ZARD、B’z、大黒摩季等)がチャートを占拠した。続く1994年の1位はMr.Children「innocent world」。2位の広瀬香美「ロマンスの神様」はアルペンのCMソングとして人気に火がつき、CMタイアップの影響力の大きさを改めて世に知らしめた。
また、1994年以降は小室哲哉氏プロデュースによるavex traxの楽曲が大ヒット。ダブルミリオンを達成した楽曲4作(篠原涼子 with t.komuro「恋しさと せつなさと 心強さと」94年、H Jungle With t「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント」95年、globe「DEPARTURES」96年、安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」97年)以下、20タイトルものミリオンヒットを記録した。
1995年は、DREAMS COME TRUE、Mr.Children、スピッツ等が年間トップ10にランクイン。以降、90年代後半に活躍するバンドも含めて第3次バンドブームと称された。その詳細については、次回90年代後半のコラムで詳述する。
MVの動向と制作費
この音楽バブルがMVに与えた影響は大きい。なにしろMVは音楽産業の副産物である。予算は主にレコード会社の宣伝費より捻出され、その額面はミュージシャンおよびレーベルの利潤によって変動する。特にミリオンヒットを記録したミュージシャンのMV制作予算は潤沢で、海外ロケ、最新編集技術の導入といった、今となっては豪華な演出を介し、海外のMVのクオリティに迫る作品の数々が誕生した。
チャートに現れない楽曲の制作費においても、“MVといえば低予算”と認識されている現在をだいぶ上回る額面が用意されていた。それもひとえに音楽バブルの恩恵であり、音楽産業にとって必要不可欠な存在となったMVへの期待値の現れだったと考えられる。
チャート番組や音楽専門チャンネル以外にも、TVスポット(MVを15秒、30秒サイズに編集したCM)やテレビ番組のエンディング(エンディングテーマに起用された楽曲のMVを放映)等、露出が増えていくにつれ、MVの広告としての価値は高まる。レコード会社やミュージシャンはMVにおけるイメージ作り、ブランディングを重要視し、映像クリエイターとともに“映像ならではの音楽パフォーマンス”を模索していった。
現時点より振り返ってみると、90年代前半は日本のMVにとって“始まりの年”である。それ以前の黎明期にもMVは存在したが、ミュージシャンと映像作家が組んで実験的な映像表現を試みたり、ライブ映像に脚色を施した作品をビデオパッケージに収録してみたり、海外のMVを初期衝動的に真似たりと、それらを総合的に受け止める場がない状況で突発的に発生していたと推測する。
1989年以降は受け皿が整い、MVを制作する目的も使用用途も明確になった。その時期が音楽バブルと重なり、潤沢な予算が用意された。つまり現在邦楽MVとして認識しているコンテンツの歴史は、平成とともに始まり、恵まれたスタートダッシュを切ったといえるのではないか。しかし当初は誰も“MVの正解がわからない”状況だったので、音楽側も映像側も試行錯誤を繰り返しながら制作に挑んだ。それが可能だったのも、それなりに予算があったからである。
チームワークの映像制作
もっとも当時の映像制作は、予算の多寡にかかわらず、多額の実費がかかった。撮影はフィルムを中心に。撮影機材は高額かつ業務用で、プロフェッショナルなカメラマンでなければ操作できない。編集・完パケ作業はポストプロダクションで行い、専門知識を持つエディターが実務を担う。誰もが身近な機材で映像制作可能な今とは大きく環境、条件が異なる。
関わる人数も多かった。制作部、撮影部、照明部以下、各セクションのエキスパートやスタッフが集う現場は大所帯で、人ひとりがiPhoneで撮影した動画をデスクトップ編集するミニマムな制作スタイルとは対極にあるチームワークが常態だった。無論、今でもチームを要する撮影はあるが、それ相当の人件費がかかるため、必要不可欠な少人数で現場に向かう等の工夫を要する。
もちろん当時といえども無尽蔵にフィルムを回し、何週間もポスプロでのんびりできるほどの余裕があったわけではない。なによりMVは依頼が来てから納品までのスピードが異常に早いので、制作スタッフは二徹、三徹の夜なべの構えで現場に挑むこととなる。当時の映像界は体育会系の男社会で、縦の命令系統が色濃く残っていた。キビキビ働かなければ怒鳴られる。無茶して当たり前。今思えばブラックな現場だが、その過酷で過剰な熱に飲み込まれた映像クリエイターおよびスタッフの手によって、名MVの数々は作られた。
次回は90年代後半!
時代背景や状況説明を記しているうちに、文字数がいっぱいになってしまった。というわけで、90年代前半の代表作や活躍した映像クリエイターについては、次回90年代後半の号にて付記する。日本のMVがもっとも隆盛した時代。熱狂的に活性したシーンについて、自分の記憶も交えながら記していく。