今年の夏は日本では大変暑い夏日が続いたと聞かされていますが、コロラドでも異常と思える程の大変暑い日が続きました。9月に入って、夜には気温が少し下がって寝苦しいと言う事は無くなりましたが、それでもまだ日中の日差しは強く、我が家の2頭の犬のうち長い毛のジャーマンシェパードの方は外へ出て行きたがりません。

しかしながら、9月2日にはコロラドでは気温が急激に下がって快晴の日中だったのですが、それでも半袖のシャツでは薄ら寒い感じとなり、あわてて長袖のシャツを取り出して着ました。

北のカナダからの寒気団が南下したための一時的な現象だったので、その後再び暑さが戻って来ましたが、日差しが南に傾いてきて、もう今迄の刺す様な暑さはありません。この分では今年の冬は寒い冬となるのではないか?と人々が噂している最近のコロラドです。

9月6日(月)はアメリカでは国民の祝日であるLabor Dayで、土、日、月と3連休となっています。

各お店での「Back to School Sale」(新学期の為の準備特別セール)の売り出しが終わって、その後の「Labor Day Sale」を展開中ですが、11月2日の「Election Day」に向けて今年はこの日にコロラドでは州知事の選挙が行われますので、その選挙戦が激しくなって来ました。

太平洋戦争中のアメリカでの日系人抑留キャンプの記録展示

第2次世界大戦時の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争中にアメリカでは時のルーズベルト大統領による大統領令(Executive Order ) 9066号が1942年2月19日に発令されて、アメリカ本土内に当時在住していた日系アメリカ人約12万人の人々に対して1週間以内に指定された場所に集合した後全米で10カ所の土地に設けられた収容所へと輸送されて抑留される事となりました。

コロラド州にはその10カ所のうちの一つである俗称「Amache Camp」と呼ばれている収容所(Internment Camp)が、州の南東の端に在る広大な平地のGranadaの村から約1.7マイル(2.7km)西に、1942年8月27日に設営されてオープンし、日系アメリカ人の人達、最大人口時で7318名が太平洋戦争終結の少し前の1945年10月15日に同キャンプが閉鎖される迄の約3年間の期間抑留生活を過ごしています。

オローラ歴史博物館の全景
オローラ市が運営している「Aurora History Museum」はオローラ市庁舎の脇に造られた平屋建てのこの建物で、その南側に広がる市庁舎前の広場に造られた市のシンボルマークを象った噴水の方から眺めた全景です。周囲を樹木で囲まれていますが、建屋の上に少し顔を出しているビルがオローラ市警察の本署で、左側に遠景のドーム型の屋根が見えているのがArapaphoe郡の地方裁判所となっています。

オローラ市の発足以来及び以前の歴史的な記録を保存展示するために造られた建物ですが、中にはオローラ市の住民の生活や市としてのサービス活動などのPRを含めた展示なども行われています。

このAmache Campのいろいろな記録を保存している資料が7月27日から私の住んでいるオローラ市の私立歴史博物館(Aurora History Museum)で10月31日迄の約3ヶ月間一般公開展示されています。

この太平洋戦争中のアメリカでの日系アメリカ人の抑留については、先にアメリカ政府の犯した人権上の大きな過ちと言う事で連邦議会で討議の結果、大統領書簡でこの過ちを認め、その為に抑留された日系アメリカ人の人達に対して公式な謝罪と金銭的な保証とを時のアメリカ政府が行った事で、われわれ日本に住んでいる人達もこの出来事を知る事となりました。

一方、コロラド州においては、当時コロラド州知事を務めていたRalph Carr知事が「日系人と言えどもアメリカ人である。今回の政府の命令でコロラドのAmache Campへ収容された人達はコロラド州内に居る限り保護され自由な活動を保証する。」という当時の反日感情の溢れるアメリカの状況下としては異例とも思われる知事発令を行い、日系アメリカ人の人達の人権保護を公式に表明した事で知られています。


オローラ歴史博物館の入り口
「Aurora History Museum」の立ち木の左下に見えるのが入り口です。中には基本的に2つの広い部屋となっていて、現在その一つはオローラ市の市民生活の様子を紹介するPR展示、もう一つが今回の「Amache Campでの日系人の生活を紹介する展示」となっていました。

コジンマリとした博物館ですが、オローラ市やコロラド州の歴史を市民へ紹介し関心を持ってもらおうという熱意が内部の各展示に現れているのを感じました

こうした日米2国間での戦争と言う異常事態の間に在って突然の強制収容という環境に対応しなくてはならなくなった日系アメリカ人の人達は大変な体験をする事になったと思われます。

今回のオローラ市歴史博物館での展示会場ではその一角に当時のAmache Campに設けられたバラック建ての仮設住居の1戸分(1部屋)の実物大の部屋が模して造られて、当時の生活状況を知る上で大変有効な展示となっています。

また、展示場の各壁面にはいろいろな解説パネルや日常生活の状況を示す数多くの写真、そして当時人々が使っていた生活用品の数々、さらに当時このAmache Campに収容されていた人々へのインタビューによる当時の回顧談をビデオに収めてモニターTVを通して流しており、非常に多くの当時の資料が大変うまくアレンジされて展示されており、非常に強い感銘を受けました。

記録によりますと、このAmache Campに収容された総勢7318名の人々のうち、その収容期間中に亡くなられた人の数は107名で、新生児として産まれた人の数は415名、住居の総戸数は569戸、そして全米の日系アメリカ人収容の実施を行う為に特別編成された政府機関「War Relocation Authority」のもとでこのAmache Campに勤務していた職員数は953名に及んでいます。

Amache Camp内には学校や病院施設も設けられ、収容された人々の中から先生となって子供達への教育が行われ、特に全体の約半数の人々は農業の経験者であったことから、周囲の広大な土地を耕して本格的な農場が構成され、その収穫農産物は人々の日常を潤す食料となりました。

また、収容者の中にはシルクスクリーン印刷の技術を持った人がおり、収容所では本格的なシルクスクリーン印刷が行われて、その作品なども会場に展示されていました。その他いろいろな日本の手芸、料理、生け花、茶道などのクラスも開催されており、人々が努めて日常生活を有意義に過ごそうと努力されていた事が伺われます。

今回の展示を見学して、強制収容と言う厳しい環境下にあって日系人の人々がいろいろな面でポジテイブ思考で日常生活を過ごしていたと言う事を知り、私にとっては一種の救いとなりました。

太平洋戦争中は日本でも大変な環境にあったのですが、その体験者も日常的に徐々に少なくなってくる年代になって来ています。戦争中の日本人の体験した事柄は多くに記録や展示で日本の人々には知る機会が有りますが、こうした日本とアメリカの2国間に挟まれた日系アメリカ人の人々の体験を通して記録された事実を日本の人々にも展示して見学する機会が出来ると大変良いのではないかと思いました。

[参考検索]

以前のこのコロラド紀行の「Vol.18」で、このAmache Campに抑留されていたことのある経験者でそのキャンプ跡へ毎年訪れている人が居る事を報告しました。今回のレポートと併せて再度ご覧頂けると良いと思います。

[コロラド紀行]Vol.18 コロラドでのIndepenndence Day(独立記念日)

オローラ歴史博物館の開催展示内容の横断幕

現在この「Aurora History Museum」で展示が行われている催し物内容を紹介している横断幕による看板が出ていました。

「Amache:Colorado’s Japanese Internment Camp」July 27 ~ October 31, 2010と言う表示と「Moving Portraits Illustrating Native America」August 17 ~ October 31となっています。

今回のAmache Campの展示とは別にアメリカインデイアンのいろいろな生活の様子を示す絵画や写真の展示が行われていました。


Amache Campの展示会場の入り口の展示

「Amache Colorado’s Internment Camp」のサインがこの各展示の始まり部分です。この日系人抑留の事態がどうして起きたのか?と言う背景の解説から展示の導入部となっています。


Executive Order NO.9066の文章ボード

アメリカ国内の日系人の抑留行動のきっかけとなった、時のアメリカ大統領であったフランクリンルーズベルトより1942年2月19日に発せられた大統領令9066号の文章を表示しています。


全米に10カ所設けられた収容所の解説ボード

ボードの上の部分には、10カ所の収容所のリストが載っていて、

Camp Location Amache Colorado
Camp Population 7318
Date Camps Opened August 27, 1942

ボードの下部にはアメリカの地図に示された各収容所の位置を表示しており、併せて全米各地での大統領令により日系人の人々が集合させられた場所も示されています。

当時日系人の人達は特にカリフォルニア州に多くの人々が広く住んでいた事が分かります。また、収容所はアメリカの最も東に設けられたのが中部のアーカンソー州の2カ所の収容所で、それ以外は全てコロラドのAmache Campより西に在ったと言う事が分かります。


Camp Amache での日系人の人達が住んでいた部屋の再現モデル

展示会場の内部にはAmache収容所での実際の住居の内部を実物大で再現した部屋が設営されて、日系人の人達が3年間過ごした住居の様子が示されています。質素なベッドと冬の寒さに対応するだるまストーブが配置されていますが、燃料は石炭が供給されたのでしょうか?

夜間の照明は裸電球一灯のみで、窓は一重ガラスの大きめなものとなっていますが、開閉が出来ないようになっていた様です。冬の寒さよりも夏の暑さの方が凌ぐのに大変だったのではないかと思われます。

個人の所有物としてはキャンプへの移動に付いて個人が持ち運べるもの迄の持参が許されていましたので、ごく限られた物だけを持ち込まれた事になります。

トイレや風呂/シャワーなどは別の建物にあって共同使用となっていました。これらの部屋の建物は一棟が120フィート(36.6m)X20フィート(6.1m)の広さのバラック建ての家をその内部が6戸に区切られており、

  • 16フィート(4.9m)X 20フィート(6.1m)が2戸
  • 24フィート(7.3m)X 20フィート(6.1m)が2戸
  • 20フィート(6.1m)X 20フィート(6.1m)が2戸

という構成となっていて同居人数に応じて決める様になっていました。


部屋の入り口側から覗いた光景

右側のドアーや窓の外は家の外となっています。家の周囲には日系人の人達が工夫して小さな花壇などが造られた事が展示されている写真で分かります。この造りからするとコロラドとしてはかなり夏は暑く、冬は寒い環境だった事が想像されます。


部屋のベッドの側を見た光景

それぞれの日系人の人達が家から持って来たものを部屋に飾って住居らしくして生活をしていた事が偲ばれます。ベッドは移動型の金属パイプを組み合わせたごく簡易型の物だった様です。


Amache Campの日系人の人達の写真

全てモノクロ写真ですが、キャンプに抑留されていた日系人の人達の写真が壁に沢山展示されていました。いずれも若い人達が撮影されていて皆さん元気にされていた様な光景が救いです。


部屋の窓越しに外から中を覗いた光景

裸電球の照明にだるまストーブといった光景が見られます。


部屋の中から入り口のドアー側を望む光景

入り口のドアーの脇の壁にはこのAmache Campの展示を見学に来た人達の感想をメモ用紙に書いてボードに留めて帰ってもらう様になっていました。既に多くの見学者の印象がメモとして寄せられていました。左の端に和箒が立てかけてありますが、この様な形の箒はこちらでもお店で入手出来ます。


日系人抑留キャンプがコロラドに開設された時のコロラド州知事Ralph Carr氏の胸像

デンバーのダウンタウンには「サクラスクエアー」と呼ばれる場所が在ってその一部が日本庭園式のアレンジとなっていますが、その一角にこの胸像が建てられています。

太平洋戦争の初期に日系アメリカ人を抑留する事となって、コロラドにもAmache Campが設営されたときに「日系人と言えどもアメリカ人だ。」と言う事で、その安全の保証やコロラド州内であれば自由に行動して良い,と言った通達を出して、現在になって改めて「人権の大切さ」の見本として高い評価をされています。

この胸像はコロラドに住む日系人の人達がその時の彼の対応に感謝して建てたもので、後世の今に彼のその時の偉業が讃えられています。


あとがき

今から134年前の1876年8月1日にコロラドはアメリカ合衆国の州として連邦議会とアメリカ大統領の承認を受けてその州としての活動が始まりました。

当時コロラド地区は「Colorado the West」と言う事で、アメリカの西部開拓の最先端の土地柄だったので、その殆どの土地は連邦政府の所有地でしたが、現在でもその名残が残されていて、コロラド州の全体の30%以上の土地はいまだにアメリカ連邦政府の所有管理の土地となっています。

また、太平洋戦争中には日本の広島や長崎に投下された原子爆弾の開発製造計画のいわゆる「マンハッタン計画」の為のウラニュームの採掘がコロラドのロッキー山脈の西斜面の数カ所の鉱山で行われ、併せて、その精製所もコロラド州内に数カ所設けられて、原子爆弾の製造に供給されました。

その後、これらのウラニューム鉱山は原子力発電所の燃料供給に寄与していたのですが、アメリカでの「3マイルアイランド」の原子力発電所の大事故以来アメリカでの原子力発電事業が凍結されてこれらの鉱山は閉山となって現在に至っています。

そして、最近ではこれらの鉱山からの大量な廃棄鉱滓が放置されていて、それらに高レベルの放射能を含んでいる事から、特に河川への流失が大問題となっており、アメリカ政府からの資金援助を受けてこれらの廃棄鉱滓の処置を行わなくてはならないというコロラド州としての環境汚染の一大テーマとなっています。

WRITER PROFILE

萩原正喜

萩原正喜

米国コロラド州から、米国のデジタル放送事情からコロラドの日常まで多岐に渡るコラムをお届けします。