1月の長崎は、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の余韻もあって、グラバー園、亀山社中跡、清風亭跡、土佐商会跡などの坂本龍馬にまつわる史跡に多くの観光客が賑わいを見せていた。幕末維新の中で、映像業界に身を置くものにとって非常に気になる、そして映像の歴史に重要な遺産をもたらした人物がいることをご存知だろうか?

その人の名は、上野彦馬(1838〜1904)である。

日本初の写真館とアーティスト

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彼こそが日本で最初のプロカメラマンであり、あの有名な坂本龍馬たちの写真を撮った上野撮影局(写真館)の創設者であり、まさに日本写真界の開祖なのだ。長崎の蘭学者で硝煙や更紗などの開発で有名な上野俊之丞の子として生まれた上野彦馬は、オランダの医師、ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(現在の化学)を学ぶ中で、写真術に関する記述に興味を覚え研究を開始したという。

上野家はそもそも、先祖代々肖像画を描く画家の家系でもあったため写真に興味を持ったのは当然の成り行きと考えられる。しかし当時の日本では写真の感光材に必要な薬品など手に入らず、それに加えて『魂を抜かれる』などの西洋文化である写真に対する世間の無知な中傷や、薬剤抽出の際の強烈なアンモニア臭などで奉行所に訴えられるなど大変な苦労を強いられたという。

そんな苦難を乗り越え、湿板写真による写真術に成功した彦馬は、1862年に日本初の写真館『上野撮影局(上野写場)』を市内に開設。ここであの有名な『坂本龍馬』の写真も撮影された。その後、明治7年の金星観測でわが国最初の天体写真を撮影に成功、また明治10年には、西南戦争で日本初の戦跡を撮るなど、今をときめく”戦場カメラマン”の先駆けでもあったのだ。ちなみに写真撮影に使われた化学薬品の精製ノウハウは、明治時代に全国の化学の教科書として使われた『舎密局必携』という書籍となっている。

一枚の写真が語る事実

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作家、司馬遼太郎の代表作「竜馬がゆく」。坂本龍馬を描いたこの作品こそが、現代日本人の頭の中にある坂本龍馬像を大きく決定づける作品であったことは言うまでもないが、司馬遼太郎氏がおそらくあの龍馬の写真や、残された彦馬の残した多くの写真からインスパイアされたものは非常に大きかったと推測され、現在の坂本龍馬の全国的な知名度の基盤となったのも、あの写真から単を発したと言っても過言ではないだろう。

昨年、筆者と対談して頂いた『龍馬伝』のチーフ演出(総監督)である大友啓史氏も、幕末には多くの写真が残されていて、ここから読み取れるものが沢山あり、それが『龍馬伝』のリアルな演出に非常に役に立った、と語っていた。当時の一枚の写真が語る史実は、時として大きな歴史の足跡であったことを肌身で感じるとともに、一枚の写真の重要性を改めて感じる。

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現在、市中を流れる中島川畔に上野撮影局跡が残されている。そこはちょうど直線距離にして300mほど、龍馬たちの亀山社中を山の中腹に見上げる位置にある。維新の中核と初の写真館、これが場所的にも非常に近い位置関係にあったのは何かの偶然だったのか…様々な”化学反応”が起きる要因がそこにもあったのだろう。来年2012年は、ちょうど上野撮影局 開設150周年にあたる。

余談だが…(司馬風に!)彦馬は写真の台紙の裏側に”アーチスト”という文字を印刷したという。まさに彼の写真家としてのプライドを物語る史実だ。

WRITER PROFILE

石川幸宏

石川幸宏

映画制作、映像技術系ジャーナリストとして活動、DV Japan、HOTSHOT編集長を歴任。2021年より日本映画撮影監督協会 賛助会員。