txt:宏哉 構成:編集部
トマティーナ
放送業界を目指していている学生さんたちとお話をしていると、海外ロケは必ず興味を持ってもらえる鉄板ネタだ。その中で「今までに命の危険を感じたような取材はあるんですか?」と聞かれて、「そういえば、ひとつ…」と語り始めたのが今回からのお話だ。
世界には数多くの珍祭・奇祭がある。その中でも、日本人にも広く知られている奇祭の1つが「トマト祭」だろう。ここで言う「トマト祭」は、スペインはバレンシア地方で行われる「ラ・トマティーナ(La Tomatina)」の事だ。収穫されて熟したトマトを、祭の参加者が街中でお互いにぶつけ合うというもの。街の通りに溢れた人々がトマトで真っ赤になっている姿をテレビで観た人も多いだろう。
そんな奇祭を取材に行く機会があり、この有名な祭を肌で感じることができる――と楽しみにして臨んだのだ。地獄が待っているとも知らず…。
州都バレンシアの街並み
ラ・トマティーナを取材するのは、ロケネタのひとつで、それまでにもスペイン・バレンシア地方(Valencia)を中心にグルメやアクティビティー、ファッションなどの取材を行った。バレンシアには広大な稲作地帯が広がっており、当地を発祥とする米料理「パエリア」などが有名だ。
街中で行われていたパエリア大会やレストランのパエリアなどを紹介。現地で何度かパエリアを食べたが、本場のパエリアはめちゃくちゃ美味い!この美味さを忘れないために、日本に帰ってから今日まで一度も国内でパエリアを食べていない(笑)。
パエリアレストランで取材
バレンシアで行われるパエリア大会。本当に美味しそう
パエリアネタに厚みを持たせるために、穀倉地帯も取材。ドローンを飛ばすなどして「米どころバレンシア」を印象付ける撮影をした。
バレンシアは有名な稲作地帯でもある
水田の様子をドローンで空撮
街での取材が終わると、ラ・トマティーナが行われる街・ブニョール(Buñol)へ移動する。人口1万人程度の小さな町で、祭がなければ何の変哲もない田舎町だ。我々は祭の前日に街に入り、下見を行う。祭の事務局がプレス向けに受付を行い、担当者が祭のコースやルールを案内してくれる。
祭で使われるトマトは、トラックの荷台に積載されて街の広場へ入ってくる。そこから祭の参加者にトマトがばら撒かれる。そのトラックは祭が始まる前、町外れの道路に待機しており、とある合図を切っ掛けに祭がスタートする――という話だった。
祭に参加する地元のカップルにインタビュー
祭の中心舞台はプエブロ広場(Plaza del Pueblo)だ。広場と言っても、少し道幅が広いだけで前後のストリートとは繋がっている。プレス関係者は、その広場内で取材することも可能だし、事務局が広場に面した建物の2階バルコニーに撮影スペースを用意にしてくれるので、そこから撮影することも可能だ。
ディレクターは防水仕様にしたGoProを持って祭参加者と一緒にトマトまみれになり、私は2階のバルコニーから祭を俯瞰した映像を撮る、という役割分担で取材に臨むことにした。
祭のはじまり
さて、祭当日。街には、世界中から祭参加者が大挙してやってくる。この祭で、瞬間的に街の人口の4倍以上の人が集まるという。もちろん日本からの参加者もおり、こちらから声を掛けて取材させてもらった。毎年8月最後の水曜日に行われる祭で、まだまだ暑い季節だ。みな短パンにTシャツという服装が殆どで、のちのちの事を考えて洋服の下は水着…という人も多いようだった。また、ルールではないのだが安全のために目にゴーグルを装着している人もいた。
この小さな街に世界中から観光客が押し寄せてくる
日本からの参加者も
先述したが、祭は「とある合図を切っ掛け」に始まる。番組内でもクイズにしたのだが、ラ・トマティーナのルールで「パロ・ハボン(palo jabon)」の成功直後から祭開始となる。「パロ・ハボン」とは、石鹸が塗られた木の棒の先端に“生ハムの塊”がくくりつけらた物で、それに人々がよじ登って先端の生ハムを取る。
棒の長さは数メートルあり、大人の肩車一段では全然届かない。当然石鹸が塗られているので、棒は滑って容易には登れないのだ。そして、無事に生ハムをゲットしたら祭がスタートになる。
「パロ・ハボン」石鹸が塗られた棒の先端に生ハムがくくりつけられている
その「パロ・ハボン」には私1人で撮影に入った。ディレクターはGoProを持って、現地のカップルを捕まえて祭の内容についてインタビューし、その後は祭へ参加。現地コーディーネーターさんは通訳兼任で、ディレクターの取材について行ってる。もう1人、ロケマネージャーさんがいるのだが、彼女はプレスの撮影場所になる建物内でスタンバイ。
2階のバルコニーに上がるには建物の裏口を事務局担当者に開けてもらう手筈になっており、その連絡役がロケマネさんなのだ。という役割分担なので「パロ・ハボン」の撮影場所には私だけになった。
プレス用2階席から見た広場
「パロ・ハボン」が始まる前から、広場は人だかりだ。多くの人がこの祭を楽しみにして、始まるのを今か今かと待っている。私はというと、かなり良いポジションにカメラを構えられた。当然、立錐の余地がないほど混雑している。三脚は立てられないので、2階のプレス撮影場所に置いてきてある。なお、カメラはJVC GY-HC660だ。
さていよいよ「パロ・ハボン」が始まる。棒の周りに我先にと挑戦者が集まり、よじ登ろうとするが身体1つも上がらないうちに滑り落ちてくる。徐々にライバル同士だった者が協力関係になり、肩車をしたり人間ハシゴを作ったりして、頂点の生ハムに近づいていく。…が、それでも手は届かない。そんな時間が10分…20分と続き、ふと気が付いた…。
あれ?この「パロ・ハボン」はいつまで撮れば良いのだ?クイズにも使われるから、やっぱり生ハム取れて「はい、ここからトマト祭!」ってところまで撮っていた方が良いよね…。いや、でもそうすると、この群衆だからプレス撮影場所まで行くのに時間が掛かるし、早めにここでの撮影は切り上げて、移動するべきか…。と自問し、判断を仰ごうとディレクターに電話した。が、何度掛けても繋がらない。あとで聞いた話だが、水没…いやトマト没を恐れて、スマホはプレス用の荷物置き場に置いていたそうだ。
ディレクターと電話が繋がらないので、あとは自己判断だ。事前にこの点を確認しておかなかったのはミスだが、生ハムが取られて、一気に祭気分にスイッチが入って、広場が盛り上がると想定したので、この状況をどう処理すべきか…。と、今後の動きに逡巡していると、突然広場周辺の建物から水が降ってくる…。建物の住人らが、自宅の窓や屋上からバケツやホースで水を群衆に向かって撒いて、祭気分を煽っているのだ。
いやいや、カメラのレインジャケットとか、今ここに持ってきてないし!トマト祭が始まれば、トマトが飛び交うので、2階席といえどもレインジャケットを装着しておかないと、トマトでカメラがグチャグチャになる。祭終了後は、街の掃除のために放水があちこちでされるとは聞いていたので、レインジャケットは2階バルコニーにスタンバイさせてあるのだ。くっそ、水は想定外だ…。
元々いた場所は水が直撃しそうだったので、少し場所を移動して撮影を続行。前の大きな男性が邪魔で撮りづらいが、なんとか撮影できそうなポジションへ滑り込んだ。「パロ・ハボン」の進捗具合を、棒の先端の様子を気にしながら、一生懸命撮り続けていると、ちょっと腰回りに違和感を感じる。
腰にはウエストポーチをしており、鞄が自分の身体の前に来るようにしている。混雑することは分かっていたので、いつも背負っている取材リュックはロケマネさんに預けてきており、バッテリーなど必要最小限の物をウエストポーチに入れている。…違和感を覚えて自分の腰回りに目線を落とすと、妊婦姿の女性が私のウエストポーチのジッパーを開いて、中身を物色しようとしていた。
慌てて左手でその女の手を払いのける。すると「ダメだったか。」ぐらいの軽い表情をして、私の目の前に居て撮影の邪魔だった男に声を掛けて、すごすごと去ってった…。つまり、2人組のスリ犯だったのだ。カップルなのかどうかも分からないし、本当に妊婦だったのかも分からない。人を油断させるために、そうした格好だったのかもしれない。
これほどに人が密集するイベントだ。スリ犯からすれば、それこそ祭なのだろう。もちろんスル方が絶対的に悪いのだが、スラれるほうも隙があるのだから、四の五の言っても仕方が無い。気を取り直して撮影続行だ。
とは言うものの、相変わらず生ハムが取れる気配がない。取れない事も稀にある…と事務局からは聞いており、その場合は10時には自動的に祭が始まるということだった。ただいま9時50分。そろそろ潮時だな…と、ふと広場の入り口付近に目をやる。ごった返す参加者と容赦なく降り注ぐ水。その先に私は信じられない物を目にしたのだ。