Inter BEEは新しい絵の具のお披露目会。とでも言えばもっとクリエイター達が集まってくれるのだろうか?少なくとも僕はそう思って毎年見ている。ただ会場でクリエイターに出会う事は稀だし、出展者側もクリエイターの創作意欲をかき立てる演出をもっと心がけてほしいと思う。
例えばガラスケースに新型のレンズを並べているだけなら、最悪現物はなくてもそれで撮った映像が流れている方がいいし、いろんな機材もそれを使う姿や喜びをもっと見せてほしいと思う。簡単な事ではないと思うが、新しい技術とクリエイターの感性には大きな隔たりを感じてしまうのだ。大判センサーで動画を撮るという意味では、Nikon D90やCanon EOS 5D MarkIIは確実に映像クリエイターの前に新しい絵の具と画用紙を広げて見せてくれたし、SONY NEX-FS100Jに内包された数々のパラメーターはそれを個々のクリエイターの感性に更に寄り添う物にしてくれている。
放送機器展という名前である以上仕方ない事なのだろうが、放送業界の求める「合理的に、安全に、確実に、迅速に」という考え方はアートにはどれもあてはまらない。「この冒険にはドキドキするね。」そういうクリエイターズマインドをかきたてる物を見せてほしいし、よく見ればそういう物がごろごろ転がっているんだと言う事をクリエイター達にも分かってほしい。
「彩~aja~」の制作で気づいたあれこれ
僕の冒険作、「彩~aja~」の編集がほぼ終わり、完成が近づいた。ここではFS100という新しいカメラが与えてくれた絵の具を自分の感性にフィットさせようと様々な冒険を冒している。今回はその冒険の中身を少し深く解説してみようと思う。
物語はaja(エイジャ)と呼ばれた天才画家の彩が、ただナチュラルに、奔放に振る舞った自分のせいで周りが混乱してしまった事を悲観し、人の社会を捨て、森の中に逃げ込み、植物と水と光の絵しか描かなくなった所から始まる。やがてその森の中にアトリエを構える人気画家の蒼と出会うが、その冷めきった心を見た彩は本能的に蒼を暖めようとするが、それをきっかけに封印していた筈の自分の愛情、情念という物も吹き出してしまう。というシンプルだけど情熱に満ちた作品だ。
このストーリーを説明するだけであれば大した映像も必要ないだろうが、説明ではなく、空気感で伝えたいと思い、セリフを極限まで排除し、その分、役者の表情や画像のトーンにはこだわり抜こうと決めた。幸い笠原千尋
(オフィス・モノリス所属 公式ブログ「雨に濡れた花は太陽を仰ぐ」)
という天才女優との出会いもあり、彩の人物像は強く、美しく存在させる事ができるという確信の中、映像のトーンは大きな分かれ道にさしかかった。このビビッドな世界を増長するようなビビッドなトーンを作るか、真逆に色やコントラストを最小限に抑えた質素なトーンに彼女を置き、それを引き立たせるか、私は後者の冒険を選んだ。この冒険は半端な演技の為には使えない。彼女の表現する「彩」には映像のトーンでフォローする必要のない強さがすでに在ったからこそできる冒険だった。そしてもう一つの理由にはFS100の豊富なパラメーターがあった。まだ完全に理解しているとはいえなかったが、これだけあればきっと思い通りのトーンを作り出せると思ったし、そうする事でまたこのカメラを愛機と呼べるような理解が深まると思ったからだ。
前回も書いたように、レンズはオールド・アンジェニューを使った。これはあえて解像度の低いレンズを使って超高解像度のFS100のセンサーに柔らかい画を送る為だ。他にもこのレンズを使う事で色味、レンズ内の乱反射によって起こる光の遊び等、いろいろな効果が期待できる。これらは私がこの作品のトーンに求める「柔らかさ」を与えてくれる。
だがその前に、映像が与える「柔らかさ」とは、一体何によってもたらされるのだろう。ディテール、コントラスト、彩度、色味。今まで5D MarkIIでコントロールできるのはせいぜいこれらの+−程度だった。その前に私が求める柔らかさとはどんな物なんだろう。それを自分でも再確認する為に、私は場面が決まってその実像をしっかり見た後によく目を閉じてみる。本当はどう見えているか、そこに実像の再現性よりももっと確かな物があるはずだ。むしろ実像の美しさは時として迷いを与える。
「本当に」見えている物。それは作品のテーマ、役者や私の心の在り様。そういった心情的フィルターを通した画でなくてはならないと考えているからだ。私は記録する為にカメラを向けているのではない。そう自分に言い聞かせると、単なる柔らかさではなく「その柔らかさ」が見えてくる。その微妙な感覚を受け止めてくれるパラメーターがFS100にはある。美しい森の中にアースカラーの地味な衣装を着た小さな女の子が立っている。もしこの森の木々の緑が実像のように鮮やかで空が青かったらどうだろう。人はそちらに心を奪われる。まずは色が強すぎる。彩度を下げ、鈍くなった緑を「色の深さ」というパラメーターで明るくし、ホワイトバランスの調整で補色のマゼンダに少し振る事によって緑を優しくした。ディテールも優しくしたい。だがその効果はアンジェニューレンズの低い解像度がすでに叶えてくれている。
コントラストと彩度の関係
では逆にディテール信号を黒ではなく白にしてみてはどうか?輝き出した。コントラストと彩度の関係はすごく微妙だ。色を鮮やかに見せるのは黒の締まりだといっても過言ではない。黒を明るく持ち上げてみた、ならば彩度はもう少しあってもいい、その黒もガンマカーブで真っ黒を残したまま明るくするか、ブラックレベルごと底上げするか、ここでは後者を選んだ。コントラストと言っても明暗を同時に圧縮した訳ではなく暗部だけを持ち上げているため、輝きはそのまま残る。
こんな事をやっていく内に私の「彩」という作品のトーンが出来上がっていく。正直、実像とはまったく違うし、記録映像に慣れてしまっているカメラマンや編集マンからすれば首を傾げてしまう画作りなんだろうが、少なくとも私の心にはこう映っていたのだ。
ピクチャープロファイルを超えて
こうやって作ったピクチャープロファイルという物は、一つの作品の中であまりコロコロ変えない物だという定説がある。私も先に書いたプロファイルを全てのシーンの基本にはしているが、屋外、屋内、またドラマの流れの中でいくつものプロファイルを作っていった。そんな中で特に屋内での夜のシーンでは暗部の撮れるこの高性能センサーの実力を極限まで使わせてもらう事にし、照明もごくごく少量の淡い光の中で撮影した。時には小さな電球でできた電気スタンドの光のみで撮影したり、用意しておいたハロゲンライトを部屋の外に出し、カーテン越しの光にする等、とてもドラマの現場とは思えない暗さの中で撮影は進んだ。
大判センサーと明るいレンズは何も被写界深度を浅くする為だけの物ではない。照明の考え方をも変えられる可能性を秘めている。お陰でここでも望み通りの柔らかいコントラストを生む事ができ、何よりも現場を包む雰囲気がリアルに役者達にも作用したと思う。だが、このようなシチュエーションの中ではカメラのセッティング、照明の在り方の両方でまだまだ考えなくてはいけない課題が幾つも残されていると思う。特にそれを感じたのは真夜中の森の中での撮影だったが、これに関しては次回に続けよう。