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「美」とは定義できるものだろうか?

「今年は美にこだわる」と、前回言ったが、では「美」とは?そんなモノ定義できる人なんかいないと思っている。色彩学、黄金比、アルファ波…。色々な角度から定義を試みる人もいるが、その考え方や姿勢がすでに美とはかけ離れた世界の話に聞こえる。また、多くの人が美しいと感じるモノ、という多数決的な考えはマーケティング主体で作られる作品にとっては重要な考え方かもしれないし、あなたがもし、商業映画を手掛ける監督やプロデューサーであれば最優先に持たなければならない美意識だ。

だが、アーティストから湧いて出てくる作品にとっては何の意味も持たない。むしろそれを裏切る驚きさえも美しいと感じることが多々あるだろう。つまるところ、美意識は個人個人それぞれのものであり、細胞レベルで震える感覚だとしか言えない。もちろん、人間ならば誰もが持っている細胞もある。

日本人ならば、北海道生まれならば、平成生まれならば…。あらゆるカテゴライズの中で共通した美意識はあるのかもしれない。ただ、例え同じ場所で同じ親に育てられた双子の兄弟であっても、全く違う細胞もあるはずだ。そういうレベルで心が震えるモノを作らなくてはいけない。そのためにはまず、自分に向き合う。それもカメラやパソコンに触れる前に、作品のテーマに自分の持っている全感性を向け、心の響きを感じる。そんな自己満足的なモノを見せて喜ぶ人がいるのだろうか?と不安になることもあるだろう。

ところがこれが、国籍や世代を超えて共鳴することが確実にある。ただし、その美にパワーがあればの話だ。そのパワーは自分の美意識を一点の曇りなく信じきることから生まれる。

映画は、ひと塊の表現となって初めて特別なパワーを持つモノ

先日、世界的に評価を得た日本映画を観た。だが、私が美しいと感じるカットはひとつも無かった。こんな物が代表的日本映画として世界に認められてしまうのか、と悲しい気持ちになった。もちろん、私の感性がひん曲がっているのかもしれない。そう感じた時にその作品から「世界に通じる美意識を学ぼう」なんて絶対思わない。

ただ文句を言っても始まらない。「じゃあ、お前の美はなんだ?」と自分に問いかける。そして作る。それしかないんだと思う。そう考えた時、その作品の作家もまた、自分の美意識にとことん向き合って作った作品だと気付いた。大嫌いな作品だ。二度と見たくない。だがその作家は心から尊敬できる。そういう姿勢を私も貫きたいと思った。

私は常々「映画は文学であり、美術であり、役者の声やSEも含めて音楽でなくてはならない」と言っている。それはそれぞれ個別に評価するものではなく、それらがひと塊の表現となって初めて特別なパワーを持つモノだと思っている。

だからこそ、その全てに自分の美意識を注がなくてはならない。人によっては"映画は脚本が命だ"とか"結局キャスト次第だ"とか言うが、違うよ!全部なんだよ!!

映画はチームで作るもの

そして映画はチームで作るものだ。つい最近、私を慕ってくれる一人の俳優を育て上げることにした。それを決める時、久し振りに私の全感性を人に向けた。ん?久し振り?と思ってドキッとしてしまった。

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思えばここ数年に起こった多くの出来事が人と人の間に多くの距離や分断を作っている。知らず知らずの内に私もそれに気遣い、暮らしている。もちろんそれは健康や道徳、平和のためには必要なことなのだと思う。だが同時にそれによって生まれた溝は、アートにとって大きな危機だと再認識した。

ヒトは見つめ合い、語り合い、触れ合うことで何かを"産んでゆく"生き物だ。ある種のビジネスや環境ではそうではないのかもしれないが、少なくとも映画のようなアートの世界ではそれは変わらない。

まだしばらくはこの溝はあり続けるかもしれないし、もう二度と消えることはないかもしれない。リモートやSNSでも言葉は届くかもしれないが、音や表情は届いているのだろうか?

Zoomの会議では確かに顔は見えているが、感性は本当に交換できているのだろうか?私の狭いスタジオでその俳優と向き合った時、息苦しいくらいの感性を感じて、やはり"久し振り"だと感じた。理解だけならオンラインでもできるが、本当の共鳴は面と向かわないと生まれない。そのことを忘れかけていた。

最低限、声を交わそう、出来ればビデオ通話で表情を交わそう、できることならアクリル板越しでもいいから同じ空間で会って語り合おう。それもまた、美にこだわるという事なのだ。

「気持ちだぞ、気持ち」という言葉

最後に、今どうしても皆さんに見て頂きたい写真がある。北海道・根室在住の映像作家、アラキマサヒトさんが、ロシアが戦争を始めた直後に亡き父親が過去に撮っていた写真を公開した。

根室と言えば北方領土問題の最前線とも言える場所だが、その写真には根室を訪れたロシア人達の素晴らしい笑顔が残されている。

港で働く人や中古車を買っていく人など、カメラを向けているお父様を通じて、市民同士の交流がはっきりと写し出されている。そのお父様は息子であるアラキマサヒトさんに「気持ちだぞ、気持ち」という言葉を残したという。

その気持ちと写真のお陰でロシア人達の素晴らしい笑顔は今、私たちに向いている。西も東もない。私達は市民だ。為政者達がどういう争いをしようとも、最後は気持ち、市民同士の気持ちを忘れてはいけない。そういう事を教えられた気がした。

この時期にこの写真を公開したアラキマサヒトさんにも勇気が必要だったかもしれない。心から敬服する。しばらくは消えないだろうこの距離、分断、溝。私達は政治家でもなく軍人でもない。今文化人が取るべき姿勢は、発するべき表現は何なのだろう?

幸運にして平和な国に暮らしている市民として、やるべき事は何なのだろう?アートの力なんてたかが知れている。飛んでくるミサイルを止められやしないし、壊れた家を建て直す事もできない。ただ、誰かの心に何かを宿すことくらいはできるはずだ。

むしろ政治家にはできない交流を、市民レベルの文化や商売ではできたりする。喧嘩をしている机の下で手を握るようなことではあるが、時にはその結びつきが最後の砦になることもあると信じている。

それが文化人としての使命だとも感じているのでSNSなどで政治的発言はしないようにしているし、その視点を忘れないように心がけている。

そのためにこの距離や分断に挑み、踏み越えて行きたいと思うし、脳天気と言われようが無責任と言われようが、そういう姿勢で何か作品を作りたいとも思っている。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。