txt:ふるいちやすし 構成:編集部
慣れない撮影現場のビックリ感にどう馴染むか?
海外の経験は特別少ない訳ではないが、意外にもアメリカという国はグアム島にすら行ったことがなく、初めての経験だ。それもロスやニューヨークといった初心者向けの所ではなく、いきなりワイオミング州という北中部の田舎に一ヶ月の滞在という別世界、別次元の撮影を行っている。PRONEWSでも度々海外の機材ショーやスタジオのレポートは行われているが、フィールドでの撮影者目線のものは多くはないと思うので今回はその視点で書いてみたいと思う。まぁ一度来たくらいで語れるものでもないが、慣れない撮影現場のビックリ感にどう馴染むかという意味では一つの参考になると思うのだ。
撮影地はワイオミング州の西の端、グランドティトンとイエローストーンの二つの国立公園だ。まずは空気の色が違う。正確には湿度の違いに依る色の透過性、日差しの強さの違いだとも思うが、Logで撮ってカラコレは後でというのではなく、撮影現場で画作りをする私にとってはまずここに戸惑った。
この季節のワイオミングは雨が殆ど降らない。山岳性の気候で時々夕立はあるがそれも大した量ではなく、半日降り続くなんてことは2週間経った今も一度もない。空気はカラカラだ。それでもそれなりに木々は生い茂り、少なくとも砂漠と呼べるようなところは無く、大きな川がとうとうと流れているのには違和感すら覚えてしまうが、そういう事は旅行者として素直に受け入れるしかないだろう。
ただ撮影者として大切な事は、その空気の色を敏感に感じ取り、それにどう向き合うかという事だ。この点に関しては余りに違う空気感に私も大きく戸惑い、どうしていいのか分からなくなってしまった事もあり、正直今も悩んでいる。空の青、雲の白、草木の緑、枯れているのではないかと思ってしまうセージの平原、意外に野原にも森にも花は極端に少ないものの、全ての色がストレートに入って来る感じ、さてこれをどう受け取ればいいものか。
普段は微妙な色の変化を表現する為にもカメラの彩度は抑え気味にして撮る私だが、こういう状況を少しは想定していて、レンズもいつものクラシックレンズではなく、カールツァイスの真新しいMilvusのセットを持ってきた。そのレンズを通してモニターに映し出された色はビビッドそのもの。アメリカを撮るという仕事の内容を考えればそのまま録画ボタンを押せばいい気もするし、むしろその特徴を強く表現する為には彩度を上げるという選択も間違ってはいないだろう。事実、最初の内はその道を選んだのだが、結果として撮られた映像は絵葉書のような凡庸な物ばかりだ。仕事の目的としてはそれでも良いのかもしれないが、それがどうにも心地悪い。
普段包まれている空気の差からうまれるモノ
少し話は外れるかもしれないが、音楽家の時から、例えば同じロックンロールの曲でもアメリカとイギリスの音作りの違いは感じていて、イギリスにいた時に、それは普段包まれている空気の差なのだと感じた。スコーンと抜けるクリアーなアメリカンロックに対して、イギリスのこもったような響きは明らかに湿度が関係している。普段聴いている全ての音がそうなのだからそれが自然だという事なのだろう。そして日本人の私にとっては、そのこもり方が“心地よい温もり”に感じられた。色にもまた、同じ事が言えるのだろう。
そしてまた一つ気付いた事がある。建物や人々が着ている服、車、商店の看板に至るまで、ここワイオミングでは意外にも色彩が地味だ。一言で言えばアースカラー。緑や茶色が圧倒的に多く、派手な色使いをしない。もちろん国立公園の規制のようなものもあるのかもしれないが、これだけストレートな発色の世界の中では、物に対してあえて強い着色をする必要がないのではないかと思ってしまう。人や文化の趣向は空気一つで片付けられるほど単純じゃないことは解っているが、この乾燥した空気が何らかの影響を与えている事は間違いない。
さて、そこでだ、湿り気の国、日本から来た私という撮影者はこれにどう向き合うべきなのだろう?アメリカ人と並んで立っていると彼の目に映っている色と私とはどう違うんだろうかと思う。最近、特に感じるのは例え日本のメーカーであっても、カメラはその最大のマーケットであるアメリカの趣向に合わせて作られている。私がどんなカメラでも、まずは彩度とディテールを抑えるのはその為だ。だから何もしないでそのまま撮ればリアルにアメリカになるはずだ。だがそれならアメリカ人に撮らせて送ってもらえば済むこと、私がここに呼ばれている意味がない。もう一度自分の目と心で向き合い、画作りをし直す必要があるかもしれない。
一日だけ、午前中深い霧に包まれた日があった。なんだかほっとした気持ちになり、湿原の中にいた。それでも日本の霧とは根本的な違いはあったが、少し自分の光を取り戻したような気になった。確かに苦戦してはいるが、こういうアウェー感の中にいるということは、案外自分を見つめ直し、本当の姿をあぶり出すのにいい機会かもしれない。幸い撮影期間にはまだ余裕がある。迷いを捨てて、自分の画を撮ろうと思う。