txt:ふるいちやすし 構成:編集部
ワークショップでここだけは意識してほしい
前回まで、様々な角度からワークショップについて書いてきたが、区切りとして、私自身がワークショップを行う時に、どうしても伝えたい事をいくつか書いておこうと思う。
細かい技術をあれこれ言う前に最も大切だと考えているのは発想・動機から生まれる「意識」だ。映像のノウハウや演技の実践を学ぼうと意気込んでやって来る方々にここから話し始めると、大概拍子抜けといった表情に変わってしまうものだが、色々な事を学ぶにしても実践するにしても、「何の為に」という部分が明確であるべきだと考えている。ただ盲目的に作業を積み重ねたような作品は酷い物だ。
だが残念なことに学校教育の殆どがやり方を教えるところから始まり、後はそれの実践を積み重ねる方法を用いて、芸術教育でさえもそんなやり方で行われている。確かに発想とか動機というものは個人のプライベートなもので、作品ごとに違うものだ。“体系的に教える”ことはとても難しい。しかしあやふやなものだからこそ、作品にはそこから生まれる意識が技術を求める回路がはじめから必要なことは、明確にしておく必要があるのだ。
この対極にある考え方が「目的」に対する作品作りだ。例えば、日本のメジャーな映画賞が「劇場公開作品」と認めるのは、ある程度の規模の劇場で2週間以上の一般上映と言われている。つまりレイトショーではなく一日三回、席が100程度の小さな劇場であっても、100×3×14=4200人。集客率が平均50%だとしても(これを割り込むと打ち切りになる劇場も多い)2100人。この人数が一館で必要になる。全国で10館程度のロードショーだとしても最低21000人以上動員しなければならない。“そのための作品”となると、テレビで知名度のある役者を使い、原作は小説か漫画ですでにファンを獲得しているもので…ということになり、自ずと作り方は根本から変わってくる。何もそれがいけない事だとは言わない。エンターテインメントにとってはなくてはならないものだろう。
ただ、私がここで言っているプチ・シネという考え方とは別のものだという事だ。せっかくそういった制約のない映画で、有名人も出ていなければ脚本もオリジナルなのに、根元に特徴のある発想や強い動機がなければ、それこそ何の意味もない。映画学校という所は、エンターテインメント業界への就職を目指しているからか、どうしてもノウハウと技術しか教えない。同じ「映画」であっても、そこが根本的に違うものだということを伝えなくてはならないのだ。
DoではなくBe!技術の前に意識を叩き込む
役者に対するワークショップでも演技技術を教える前に徹底的に意識を叩き込むようにしている。発声練習をする前に、なぜそれが必要なのか、引いては映画作りにおいて役者のするべき仕事は何なのかということから始める。多数の役者志望の人が覚えたセリフを言い、監督の指示通りに動けば演技になると考えている。
自分以外の誰かに成る、その生き様を体現するということが台本に全て書かれているわけではない。むしろ台本はヒントでしかない。そこに書かれていない部分を解き明かし、自分の中に宿していくためには何が必要かを役者は知っていなくてはならない。監督の頭の中には登場人物全員のキャラクターが、シーンには現れない生い立ちやバックグラウンドも含めて全て入っているはずなので、まずは監督と、場合によっては相手役とも話し合うべきだ。
ただ、いくら監督と言えども、所詮一人の人間だ。全ての老若男女の役を完全には体現できない。あるレベルからは役者、つまり本物の老若男女が自分の身体の中で生きたものにしていかなければならない。私はこの時間を作る為に、撮影前に充分稽古や話し合いをするが、それ以前に役者たちにやっておいてほしいことがあるのだ。自分が今後、何人の人生を生きることになるのかをイメージすると、知っておかなきゃいけないことがたくさんあるはずだ。オーディション、そして役が決まる前から、日々をどう過ごし、本や映画をどう見るか、そしてより多くのことを実際に体験する。そういった意識が必要なのだ。
これを私のワークショップでは様々な方法で役者たちに気づかせ、行動に移させる。“Do(やる)”の芝居ではなく“Be(成る)”の芝居を教える。何かをやって表現するのではなく、すでにそう成っているからそういう表現に成るということだ。例えば現場に入ってから、あるセリフを「もっと力強く、大きな声で!」なんて指示をするのではなく、自然にそういうトーンでそういう大きさの声に“成る”ような人格形成をしなければならないし、その時になって初めてボイストレーニングの必要性とモチベーションを持つ人もいるだろう。それは撮影が始まってからでは手遅れなのだ。
だからこそワークショップで徹底的に役者の意識を植え付けておく。商業映画の監督の中には、それが面倒なので、または状況が許さないので、役者を人形のように扱い、ただ指示を出したり、役者に丸投げする人もいると聞いているが、それではまともな芝居は作れない。だからこういうワークショップは役者だけではなく、制作者も一堂に会して行いたいと思っている。役者たちがどうやって気づき、何を求め、あるいは何に悩み、それをどうやって助け、導くのかを目撃してほしいのだ。また同時に、そうして出てきた本物の演技をどう捉え、写すかというイマジネーションと対応力を撮影する側にも培ってほしい。
残念ながら日本の映画は演技という面でのレベルは高いとは言えない。メジャーな映画であっても、その出演者のネームバリューが無効になってしまう海外では、俳優が賞を取ることはほとんどない。だがこれは役者だけのせいではないのだ。出演者も制作者も一緒に映画を作る仲間として、根本的なレベルアップを図らなければならない。それができるのは撮影現場でも映画学校でもない。だとすれば、何らかの形でワークショップをやらなくてはならないのだ。
もちろん今回紹介したのは私個人のやり方だ。だが、私の映画に出演してくれた俳優が海外で次々賞を獲得してくれているという事実は私自身の誇りでもある。やり方は人それぞれであるだろうが、いずれにしてもそれぞれ自由な考え方で根本的なレベルアップを図ってもらいたいものだ。
「千年の糸姫」では、出演の二宮芽生と山口快士がロンドン・フィルムメーカー国際映画祭で共に最優秀主演俳優賞にノミネートされ、アジア国際映画祭(台湾)では二宮芽生が最優秀新人女優賞を獲得。また、「彩〜aja」ではモナコ国際映画祭で主演の笠原千尋が最優秀新人俳優賞を獲得している。