Vol.125 商業映画とアートフィルムの違い。自身のターミナルを明確にして制作に挑む[東京Petit-Cine協会]

txt:ふるいちやすし 構成:編集部

映画業界にも働き方改革が必要

この夏から経済産業省による「将来の映画人材創出に向けて映画制作現場実態調査」なるものが行われている。 言うまでもなく映画制作現場における長時間労働、ハラスメント、そして低賃金などを把握し、改善しようという目的で始められたもので、国際的にもその流れは強まり、昨年、カンヌ映画祭でパルムドールを獲得した「パラサイト」の韓国人監督ポン・ジュノ監督が、その作品は標準労働契約を守って作ったと胸を張って言った事から話題にもなった。

この標準労働契約というのはアメリカの映画業界と労働組合との間で取り交わされた規定を元に作られた物だそうだが、確かにアメリカ映画業界で働く人々は労働時間や報酬面だけではなく、ホテルや食事に至るまで手厚く守られているという噂を聞いた事がある。これは大変素晴らしい事だと思うし、それを理由にアメリカへ渡る若者も多いと聞く。

だが、その基準が日本やその他の国で通じるものなのだろうか?ちょっと前にハリウッド映画の監督や脚本家、キャスト、その他のスタッフに至るまで、作品に関わった人の全てのギャラをエンドロール風に作ったYouTube動画が話題になった事があったが、まずはそれを見て頂きたい。

架空の作品なので信憑性は定かではないが、全くのデタラメだと も思えない。円ではないよ、ドルだよ!監督400万ドル(4億円超)、ADでも約12万ドル(1300万円超)。もちろん、これは2億ドルの興行収益を得た映画をモデルにしたものだそうだが、果たしてここから私達に当てはまる基準が作れるものなのだろうか?

例えばアニメ映画のように、世界で売れる物なら考えてもいいが、悔しいけどアメリカの映画は世界の映画、日本の映画は国内の映画という現実は拭えない。もちろん、今のネット社会で日本映画も世界マーケットで売れるようになって、このような収益をもたらすものになれば、日本の映画制作環境も改善するかもしれないが、現時点では想像もつかない開きがあると言わざるを得ない。

とはいえ、確かに日本の一部の商業映画でのスタッフ達の環境は酷すぎる。報酬面でもそうだが、労働時間たるや地獄のようなものだ。平気で“29:00”(翌日の午前5:00)なんて言葉が使われたり、撮影スケジュールが書かれた香盤表にサラッと書き込まれている事すらある。これは殆どのスタッフや出演者の報酬やスケジュールが日当で計算されているため、翌日になるとマズイという信じられない理由によるものだ。

また報酬面でも、運良くその作品が当たって、大きな収益を上げたとしても、それは出資した者や会社にだけに分配され、特別な契約がない限り、監督や脚本家にさえ分配される事はなく、その他のスタッフには全く関係のない話になる。これを問題視した日本映画監督協会が、なんとか監督に作品の著作権を持たせようと努力を続けているが、悲しいかなそれさえも順調には進んでいない。そんな現状からスタッフ達の労働条件が楽になり、報酬が潤沢に支払われるようになるまで、一体どんな道程になるのか想像も付かない。

果たしてこの経済産業省による調査がその第一歩となるのか、もちろん、心から期待はしているが、なんとも不透明だとしか言いようがない。せめてみんなが頑張って良い作品を作って、それが大きな収益を産んだ時くらいは、そのスタッフ達にボーナスを与えようと気持ちを配給会社には持ってもらいたいと願っている。そんな事さえ無いものだから、元気な若者でも逃げ出し、ましてやちょっと歳がいって、家族でも持とうものなら、技術や熱意はあっても現実的に映画作りを続けられないといった状況に追い込まれる人も少なくないのだ。これは本当に悲しい事だと思う。

さて、この実態調査、ある日私が所属している日本映画監督協会からアンケート用紙が送られて来た。積極的に答えようと記入を始めたのだが、報酬や勤務時間など、つまり一般企業や労働基準法目線の質問が続き、とんでもなく違和感を感じて途中から投げ出してしまった。

前述したように、商業映画の世界では営利企業が主導で行なっている以上、やはり労働基準は守られなくてはいけないと思っているし、私もその手の仕事に就く場合はそれなりの報酬を請求し、またそれをはるかに下回るような仕事は受けないようにもしている。

しかし自主制作とかプチシネのレベルで考えると、そもそもそれは労働なのだろうか?という疑問が残る。そしてアート制作活動に労働基準法を当てはめる事自体ナンセンスなのではないかと思い始めた。絵描きが24時間、絵を描き続けたとしても、誰にも責められないだろうし、それで身体を壊したとしても労災に認定される事はあるはずがない。確かに絵描きのように自己責任で一人がやっている事とチームで行う映画作りとは条件の違いもあるだろうが、それぞれの人がその作品に参加したいという意思は必ずしもお金と時間だけでは測れないものだ。

もちろん、そこにはしっかりとした同意は必要で、それを無視した作業の強要は、そもそもハラスメントだし人の道に外れる。だが例えば自分の演技を向上させ、それをしっかり見てもらえるような役どころを得られるならタダ同然のギャラでも出たいと考える俳優もいる。その後の自己のプロモーションに役立つと考えればそれは価値のある事なのだろう。逆にその人にはあまりメリットのないチョイ役をお願いする時にはちゃんとギャラを払うという逆転現象もある。極端な例では思い出作りの為にお金を払ってでも参加したいという人もいる。

このような人それぞれの思いが集まって作られる自主制作の映画に、杓子定規な労働基準を当てはめられるのか?そもそも営利目的ではない作品作りを労働と解釈するのは無理があるんじゃないかと思う。そこはやっぱり商業映画とは線引きをして考えなくてはならない筈だ。そういう“思い”で繋がっている自主制作の現場に最低賃金や労働時間の制約を持ち込まれると、単純に映画は作りにくくなる。

そうならない事を心から願うばかりだが、商業映画に関しては大きく改善される事を望み、自主制作に於いても、より細やかにハッキリとそれぞれの意思と条件を事前に確認する必要があると思う。いいきっかけにはなった。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。