Vol.125 商業映画とアートフィルムの違い。自身のターミナルを明確にして制作に挑む[東京Petit-Cine協会]

txt:ふるいちやすし 構成:編集部

長編映画プロジェクトが始動

沖縄の実在の人物をモデルにして脚本を書いた長編映画を作ろうとしている。実はもう台本まで出来上がっているのだが、沖縄や九州でのロケなど、大規模なプロジェクトになりそうなので、しっかりお金が集まるまでは安易に作り始める訳にはいかない。ヘタに見切り発車をして途中で止まってしまおうものなら、スポンサーや出演者に多大な迷惑をかける事になるからだ。

スポンサーが出してくれたお金が寄付という形なら、誠心誠意謝れば許してもらえるかもしれないが、出資という名目であれば、それは返さなくてはならないし、最悪の場合、詐欺として訴えられる可能性もある。

また、出演者にしても、交渉の中でギャラだけではなく公開の規模などの話をしてしまっていると、それを果たせなかった場合には、詐欺とまでは言われなくとも、大きな信用を無くすことになるだろう。出演料を決めるときに公開によるメリットを差し引いて考える事が多いからだ。つまり公開規模が大きいほど話題性が増し、役者にとってはメリットとなるのでその分出演料を抑えてもらえるというケースもあるのだ。

皮肉な話、元々予算の少ない自主映画では公開規模も小さくなるので出演者に対するメリットが減り、その分、出演料が高くなる事もある。その他、様々な事情を踏まえて、一つ大きな決断をしなくてはならない。一般劇場公開の為に、大きな予算をかけて、知名度のある役者を使い、宣伝費もかけるか、今までのようにプチシネ方式で無名の役者と小規模チームで作っていくか。どう考えても前者の方がいいに決まってると考えがちだが、そうとも言えない。

ザックリ見積もっても最低5000万円くらいのお金がそう簡単に集まる訳が無い。例え集まったとしても、知名度の高い役者を使うというのは色々と面倒な事が多いし、コミュニケーションを取りづらくなるという意味では、必ずしもいい作品に繋がるとは思えない。そして知名度と演技力は必ずしも比例しないという事もある。

作品性を重んじるなら、プチシネ方式で、じっくり時間をかけ、コミュニケーションを濃密にして、丁寧に作る方が性に合ってるし、半分以下の制作費でできる。その代わり、劇場公開への道のりはかなり厳しいものになる。現実的に考えればイベント上映とVOD配信が中心になるだろう。そうなるとそもそも出資者は集まらない。せっかく作ったものが、多くの人に見てもらえないという苦しさを味わってきた私は、当初は前者を目指していたが、運悪く、あてにしていた沖縄の映画助成金も反自民の知事になった途端廃止になるし(これに関してはいくつかの不正受給もあったからと噂されている)、案の定スポンサーはなかなか集まらない。一応企画書には大きな予算と有名どころのキャスティングイメージを載せているが、それを考え直す時が来ているのかも知れない。

幸い、この物語のモデルとなった人物が中心となっている沖縄の支援者達も、大規模な興行は特に望んでいないと言ってくれており、上映先は自分たちで探すとまで言ってくれている。そんな人々の機運の高まりも大切にしたいので、大きく規模を縮小し、プチシネ方式でこの作品を作っていこうと考えている。

デモリールの制作

そこでまず考えたのがデモリールを作る事。ただし、デモリールとは言え、キャストは固めておかないと、前後のつながりがなくなってしまうし、せっかく撮ったものが本番で使えなくなってしまう事もある。ただ、この物語に限って言えば、主人公の少年時代というパートがあり、その中で作品の根幹とも言えるテーマの投げかけがある。まずはそこまでを撮り、更なるスポンサー集めに利用していこうと考えた。そうすればキャストの繋がりもほとんど無く、子供達を中心にした撮影ができるのだ。

そんな折に沖縄の支援者達から、沖縄の政財界の人々が集まる新年会への招待を受けたので、デモリール部分のロケハンや子役のオーディションも兼ねて沖縄へいく事にした。その新年会は大変盛大なもので、県知事も挨拶に立つようなしっかりしたものだった。その場で支援者がいろんな有力者に紹介してくれて、もちろんその場ではほとんどが名刺交換程度の挨拶で終わるが、チャンスがあれば映画の内容も熱く語って見せた。中には改めて会って話を聞いてくれる約束をしてくれる人もいた。

その日だけではなく、沖縄には独特の「模合い(もあい)」と呼ばれる仲間内で資金を集める寄り合いがあり、それにもいくつか参加させてもらった。そんな中で、どうにかデモリールは撮れそうな環境が見えてきた。人的にも教育委員会の協力も得られるようになり、子供達も集まりそうな気がする。

この主人公の少年時代は1950年代半ばという設定なのだが、近頃の子供達は沖縄弁がほとんど喋れない。最近、沖縄文化を再興させようという気運が高まっている事もあり、子供達に伝統芸能や沖縄弁を教えている教室もあると聞き、その先生とも会わせてもらい、協力を約束してもらった。

そういう動きをしている間にもロケハンを進めていく。1950年代の沖縄の原風景というのは、沖縄本島にはほとんど残っておらず、離島などに一部残っている程度だ。子供達を連れていくにも、そんなに遠くの移動はできない。幸い、那覇の隣の南城市から高速船で15分の場所に久高島という島がある。そこは古くから神様の島という事で、開発の手が及んでおらず、そこかしこに原風景が残っている。もちろんそこへも行ってきて、必要なアングルを見つけてきた。

さらに前述の沖縄弁の先生が、その島の長を知っていて、紹介してくれ、車で案内までしてくれ、もちろん撮影許可ももらえた。一週間ほどの滞在ではあったが、なんとも中身の濃い活動ができたと満足をしているし、この流れは止めたくない。いや、止めてはいけないと思う。何より、多くの沖縄の方々と話ができ、この物語に対する考えや感想を直に感じられたお陰で、他所者である私が、沖縄のスピリットを描くような作品を撮るという自信も徐々に生まれてきた。

ふと、気付くと、苦肉の策で動いた事で、なんか理想的な映画作りができそう気がしてきた。まだお金が集まった訳ではないし、この映画が完成に漕ぎ着ける保証もないが、これもまたプチシネの現実として、この連載で進捗をできるだけ報告していこうと思う。もちろん、東京でもどこでも、協力者がいるのなら、企画書抱えて(実は脚本ももうほとんど出来上がっている)飛んでいきますのでご一報を!よろしくお願いします。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。