取材協力: 塩田 哲 / AnimeJungle

芸術の秋である。ここ、明るく”脳”天気で平和で大袈裟な街ロサンゼルスでは、映画のメッカに相応しく、映像に関する講演会やセミナーが頻繁に開催されている。9月17日夜、ロサンゼルス・ダウンタウンにある、日本のアニメ&特撮ショップ「アニメ・ジャングル」(Anime Jungle)において、伝説のアニメーター&アートディレクターの宮本貞雄 氏の講演会が開催された。会場にはアメリカ人のアニメファン、ハリウッドで活躍するVFXアーティストらが集まり、盛況であった。宮本氏がガッチャマンの原画を取り出し解説を始めると、アメリカ人ファンの口からは「Oh–!!」という溜息が漏れたのが印象的だった。参加者達は宮本氏の冗談を交えてのユニークで巧妙なトークに聞き入っていた。この日の講演は非常に興味深い内容であったので、是非読者のみなさんにもご紹介したいと思う。そこで今回は趣向を変えて、その模様をご紹介する事にしよう。

頭角を現した大阪時代

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僕が日本でアニメーションを作っていたのは53年前、鉄腕アトムが始まった頃です。その前は、大阪で7年程、テレビCMのアニメーションを作っていました。その頃は20代の後半でした。CMの仕事が指名で沢山来るようになり、日々それを消化していく中で、CMの仕事について自問自答した時期がありました。ここらで東京へ行って、もっと勉強をしてみたいと考えたのです。そこで、28歳の時に東京に出て来ました。

当時、東京にある大きなアニメーション会社は3つありました。虫プロ、東映動画、TCJです。この3箇所を回って、もしどこも雇ってくれなかったら、誰か良い先生をみつけて弟子入りしようと思っていました。地図を片手に、まず訪れたのが虫プロでした。すぐに入社する事が出来ました。最初は床拭きや掃除などをしながら仕事を覚えるつもりでしたが、「すぐに原画を書いて欲しい」と言われ、下働きをする事なくキー・アニメーターとして働く事になりました。最も、僕はアトムを描いた事がありませんでしたので、「鉄腕アトム全集」を買ってきて、アパートで夜な夜な描いて練習しました。

僕は大阪時代、1日に3つの異なる仕事を掛け持ちしていました。撮影や背景等の流れも常に考慮しつつ、作画に関わるほぼ全ての工程を1人で担当し、仕事の流れを学ぶ事が出来たのですが、虫プロでは一転して、1日中座ってアトムだけを描いていれば良い。”こんな楽な仕事をしてお給料を頂いて良いんだろうか?”と思いました(笑)仕事を始める時は、最初のうちは大変な思いをして、多少苦労しておいた方が、後々齢を重ねてから良い結果を生む事になる、という事を学んだのも、この頃でした。

手塚治虫の仕事ぶりを目の当たりに

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手塚治虫さんと初めてお会いした頃です。当時、虫プロはスタッフがどんどん増えて4つスタジオがありました。僕は第1スタジオにいたのですが、ここは手塚先生の仕事場と同じでした。我々は朝9時から夕方6時までという勤務時間で仕事をしていました。午後3時頃、手塚先生がやって来られて、スタジオの中に空いているデスクがあると、”すみません、ここを使っても良いですか?”と聞かれるのです。”ここは、貴方の会社じゃないですか。どうぞ好きな場所を使ってください”とお答えしましたが、手塚先生はそのような謙虚な方でした。

私は夕方6時に帰りますが、手塚先生はいつも遅くまで残っておられた。”先生が残っているのだから、自分も”と2時間ばかり残業してみましたが、先生はなかなかお帰りになられません。そこで僕は、「先生、お先に失礼します」と帰宅し、お風呂に入って、晩御飯を食べ、睡眠を取り、翌朝9時にスタジオへ行ってみると、手塚先生は同じ机でそのまま仕事をしておられました。

当時の手塚先生は、漫画連載、アニメーション制作、取材、そしてラジオ等、非常に多くの仕事量をこなしておられました。下のフロアでは、常に3人位の雑誌編集担当が控えているような状況でした。マネージャーはそんな先生を気遣って、仕事を減らそうと試みるのですが、1つ減らすと、先生が新しい仕事をご自分で取ってきてしまう。僕は、手塚先生の才能を見て「あんな風になりたい」と憧れましたが、そのハードなお仕事ぶりを見て「手塚先生にはなりたくない」と思った程です(笑)

虫プロは手塚先生の原作に沿って作っていくというスタイルがあり、アトムも手塚先生と同じスタイルで描いていきます。虫プロのスタッフは、手塚先生の作品が好きで入った人が多い。でも僕はCMのアニメ畑から入りましたから、異なるバックグラウンドを持っていました。そこで、スタッフの皆さんに”もっとアカデミックなアートの勉強をした方が良いですよ”と啓蒙した事がありました。そういう意味で、タツノコ・プロダクションはリアルなスタイルを得意としていたので、その後に移籍する事にしました。

日米のアニメーションのスタイルの違い

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ここで、アニメーションの「スタイル」の違いについて、お話をしましょう。僕はアニメーターの仕事は、その作品を表現する為に、アトムならアトム、ガッチャマンならガッチャマンを「演じる」事だと思っています。着ぐるみの中に入るような気持ちで「役に成り切って演じる」のが仕事です。アニメーターは動かしてナンボ、漫画家はストーリーを描いてナンボだと思っています。

僕は、ディズニー出身のアニメーターと一緒に仕事をした時、日本とアメリカのアニメーションのスタイルの違いを学びました。日本の場合は、例えばキャラクターが右から左へ動くシーンがあると、「右から左へと動かす」のがアニメーションです。しかし、アメリカでは、「”なぜ”右から左へと動くのかを表現する」のがアニメーションです。

女の子が怒られて動いているのか、喜んでいるシーンなのか、ションボリしているシーンなのか、フィーリングを表すのがアニメーションなのです。僕はこれまで、それぞれスタイルが違うスタジオで仕事をしてきました。各スタイルにどうやって合わせてきたかをお話します。サンリオで一緒に仕事をしたアメリカ人の老アニメーターがいました。その人は、男性ですが、紙の上で7歳の少女の「演技」が出来てしまう。男の人が7歳女の子の演技を描くためには、かなりの勉強が必要になります。アメリカで仕事をしているアニメーターはきっと驚くと思いますが、日本では、1人のアニメーターが全部のキャラクターを描きます。

アメリカでは、1人のアニメーターが1人のキャラクターを描きます。なので、アメリカのスタイルの方が役に入り込み易い。虫プロでは、シカも犬もネコもみんな同じ動きでした。そこで、僕が担当する場合は、生態などを図鑑で調べて、どんな動きをするか研究して描きました。すると、みんなビックリしていました。それと同じように、キャラクターではなく、別スタジオの為にお給料を頂いて仕事をする時も、「自分がその仕事をもらった時、そのスタジオの仕事にどれだけ”成り切れるか”?」という事が大切です。

体が資本、良い仕事は健康から

虫プロ時代、若いスタッフには”なるべく早く家に帰るように”言っていました。僕は、アシスタントに言った事があります。”家に早く帰りなさい。残業してもラーメン1杯位しかお金にならないが、帰って本を読んだり、勉強した方がずっと君の為になる”と。僕は若い頃から、配分の割り振りを考えて仕事をしていました。これには、自分の実体験が活きているのかもしれません。

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57年に病床で書き溜めた肖像画

僕は10歳の時、絵でメシを食うという事を決めました。60年も前の話です。毎日3~4時間は絵を描いていました。最も嬉しかったのは、学校を病気で休む時でした。なぜなら、1日中絵を描いて過ごせますから(笑)そして、業界に入る前の20歳の時に体を壊して、1年間ベットの上にいた事がありました。その時も、「これでまた絵が沢山描ける」と思いながら(笑)、当時有名だったハリウッド俳優の肖像を描きました。こちらにその現物があります。1957年に描いたものです。

これは、ディズニーを受けた時にも、他の作品と一緒に持って行きました。もし、みなさんが同じように体を壊して入院するような事があったら、それは「次へのステップになる」と考えてください。自分に夢を持っていたら、それは必ず糧になります。

ディズニーに勤務していた頃

では、ディズニー時代のお話をしましょう。ディズニーのコンシュマー・プロダクツという会社で、主に「スタイル・ガイド」のデザインを担当していました。これは、ディズニー作品のマーチャンダイズを商品化する際のデザイン・ガイドラインとなるべくもので、これでパッケージ毎にどう売っていくか商品のデザインをコントロールしていきます。僕がディズニーに参加したのは「ライオン・キング」からです。ライオン・キングのスタイル・ガイドの表紙は僕が描いたものです。このスタイル・ガイドには、もしサバンナのデザインを商品化する場合は、このカラーパレットを使用する等の細かい指定が記されています。

ディズニーで僕が一緒に仕事をしたアニメーターは、子供の頃から自分の意見を言えるように教育されているので、極端なケースですが、昨日入った新人さんでも大胆な意見を言います。こうして意見を聞き、それを参考に得意不得意を判断してアニメーションのショットを割り振っていきます。僕の場合、何も発言しないので、余ったムズカシイ仕事が来てしまいます(笑)でも、これは結果的にすごく良かったと思っていますし、大変良い経験になりました。

ディズニーに入った時、ポートフォリオを見せますが、僕のポートフォリオにはディズニー・スタイルの作品は入っていませんでした。(注:ディズニーは、ディズニーのスタイルに似た作風のアーティストを採用する事で有名)それでも雇って頂けた事に応える為には、自分の仕事で返すしかない。その為には、良い機会になると考えたのです。自分のアイデアが、気がついたら映画の中で採用されている事もありました。「ポカホンタス」の中で鳥の影が出てくるシーンなんかは、そうですね。

オリジナル作品、そして優れたアーティストになる秘訣は?

僕は自分でも90年に楽工房というスタジオを作り、マスコット・キャラクターを多数制作し、その1つにオリジナル作品「RAGZ」があります。人のぬくもりや物を大切にするコンセプトです。これは35年前に考えた企画なのですが、まだ世に出ていないのです。これが世に出ていたら、きっと僕は大金持ちになった事でしょう。もし、協賛して下さる方がおらましたら、是非教えてください。僕の死後でも結構ですよ。日本から遊びに来た友人に僕が考えた作品を見せると「これだけのものを描く時間がいつあるのか」と聞かれる。僕としては、自分で好きな時に、好きなものを描き溜めただけなんです。僕は、まだ一流ではないと思っています。本当に一流の人は、僕よりももっと頑張っていますよ。

日本で働いていた頃、沢山の人が「アニメーターになりたい」とやって来ました。その時に僕が言ったのは「普通の人と同じ物の見方しか出来ない人は、他の仕事を選びなさい」という事でした。

例えば、コーラの瓶1つを見るにしても、

  1. 「普通の人と同じように」コーラの瓶が見える視点
  2. 「アーティストとして」コーラの瓶を見る視点

この2つを兼ね備えていなければいけません。そして、最も大切なのは「夢を持ち続ける事」。これが、優れたアーティストになる為の秘訣かもしれません。

(9/17金夜 ロサンゼルス・ダウンタウンの「アニメ・ジャングル」にて談)

宮本貞雄
プロフィール

1957年コマーシャル制作会社一光社に入社し、アニメーターとして頭角を現す。1964年に虫プロダクションへ入社、「鉄腕アトム」「リボンの騎士」等の原画や作画監督、1973年竜の子プロダクションへ移籍後は『樫の木モック』、『科学忍者隊ガッチャマン』の作画監督を務める。1975年にサンリオ映画部がハリウッドにスタジオを設立したのを契機に渡米、長篇アニメーション『メタモルフォーセス』デザイン・アニメーション監督を務めた。その後帰国し、1978年に竜の子プロダクションに入社。『科学忍者隊ガッチャマンII』、『科学忍者隊ガッチャマンF』等に技術部長として携わった。1991年再び渡米、BARE-ANIMATION(ベア・アニメーション)に入社。長篇アニメーション『Tom and Jerry』、Mattelコマーシャルのキーアニメーターとして活躍後、1993年、Disney Consumer Products(ディズニー・コンシュマー・プロダクツ)入社。クリエイティブ・リソース・キャラクター・アートマネージャー、シニア・スタッフ・アーチストとして、『ライオン・キング』、『ポカホンタス』、『ノートルダムの鐘』、『ヘラクレス』、『ムーラン』、『ターザン』、『リロ・アンド・スティッチ』、『トレジャー・プラネット』などのアートを担当した。2002年6月、Disney Consumer Productsを退社。アメリカに住み、オリジナルキャラクター、企画制作などを行い、現在に至る。

WRITER PROFILE

鍋潤太郎

鍋潤太郎

ロサンゼルス在住の映像ジャーナリスト。著書に「ハリウッドVFX業界就職の手引き」、「海外で働く日本人クリエイター」等がある。