Vol.125 商業映画とアートフィルムの違い。自身のターミナルを明確にして制作に挑む[東京Petit-Cine協会]

txt:ふるいちやすし 構成:編集部

スクリーン上映で感じたこと

「千年の糸姫」の横浜と伊勢崎での上映が終わった。映画の価値を興行収益とか動員数でしか計れない人からは負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろうが、本当に素晴らしい手応えを感じさせてもらった二週間だった。観終わって出てくるお客様の言葉がとにかく熱かった。中には涙を流しながら語りかけて下さる方もいた。上映中も身を乗り出して祈るように観て下さっている方や、そこかしこから嗚咽に近い声も聴こえてきた。本当にこの映画を作って良かったと思える瞬間だった。実は私自身も久し振りに大きなスクリーンで観たのだが、やっぱり映画館で観るといいなぁ。

伊勢崎での上映はシネコンだったこともあり、たまたま三つ隣でやっていた今超話題のあの作品が上映されており、連日多くの人が来られていた。だが観終わって出てくるお客様の表情を観ていると、その熱さは全く感じられず、かと言って溢れる笑顔もない。気になって私も観てみることにしたのだが、全く粗悪な映像と演技。最後にどんでん返しがあると聞いていたので我慢して観ていたのだが、遂に我慢しきれずに途中で席を立ってしまった。これがインディーズ映画の金字塔だ!なんて思われたら困ってしまう。某映画学校の課題製作作品らしいが、一体何を教えているのだろう?悔しさなどではなく、心から悲しくなってしまった。はい、遠吠えですよ。そんなこんなで私は次の作品への意欲が沸々と湧き上がり、同時にこの「千年の糸姫」という作品をどんな規模であろうと死ぬまで上映し続けようと心に決めた。それほど強い手応えを感じた経験だった。とにかくわざわざお越しいただいたお客様に心から感謝をしています。ありがとうございました!

“翻訳”に対する意識改革が必要だ

9月に映画祭でインドネシア・バリ島に行った時に知り合った現地に住む日本人女性も「千年の糸姫」を観て下さり、大いに感動して、なんと日本映画を見せる小さな映画館を作る事を決めたとおっしゃる。これは手伝わない訳にはいかないと思い、機材の選定や基本的知識など、出来ることから始めている。

上映はBlu-rayになるのだが、まず驚いたのがリージョンフリーのディスクではなく、リージョンフリーのプレーヤーが堂々と売られているということ。もちろん合法的にだ。こうなると最早リージョンコードって何?って事になってしまう。ストリーミングなどでは全く必要とされてない現状に合わせてディスクの国際化という意味では非常に歓迎されるべき事だとは思うが、それならそもそも廃止してもいいのではないか?何れにしてもリージョンフリーのプレーヤーが合法的に存在する以上もう困る事はない。日本とインドネシアのそれぞれのリージョンのプレーヤーを買うという事も考えたが、多少値段は高いとはいえ、二倍はしないのでそれを買うのが得策だという結論に至った。

ところがここで新たな問題にぶち当たる。日本映画のソフトに英語字幕が付いてる物がほとんど無いのだ。私達の作品ように海外の映画祭に出品する事を前提に作られている物は当然英語字幕版は作られる。そういうインディーズやマイナー映画には英語字幕があって、メジャーな作品や名作にはそれが無いというのは何とも皮肉な事だ。それではアメリカで買ってはどうかと思い、調べてみると、アニメ作品を除いては、そもそも日本映画のソフトが殆ど無い。有名なクライテリオンコレクションの中にはいくつかの名作日本映画も含まれているが、当然どれも昔の作品ばかりだ。何という鎖国感!というか、日本映画を外国人が観るという事を全く想定していない。

そう言えば先日、Amazonの新しいサービス、DOD(ディスク・オンデマンド)の説明会に行った時も同じような事を感じた。これはAmazonがマスター盤を預かり、注文があった分だけプレスして売るという素晴らしいシステムだ。初期費用や在庫のリスクが激減し、マイナーやインディーズ作品にとっても、より出版販売しやすくなるし、Blu-rayでの出版もコピーガードも可能だというので大歓迎なのだが、ユーザーがNTSC/PALが選べるのか?リージョンコードはどうなる?という質問をしたところ、すぐには明確な答えが返ってこない。もちろんそんな事は簡単にクリアーできる事だし製作側が考えるべき事なのかもしれない。

因みにアメリカ発で配信、DVD化されている私の「千年の糸姫(英名:1000 year princess)」にはディスクの機能としてではなく、映像の中に初めから英語字幕が焼き付けてある。欲を言えばスペイン語、フランス語くらいは字幕を選べればもっといいのだろうが、それが出来ないからといって外国で発売しないというのはあまりにもったいない話だ。もちろん各国で吹き替え版を作るというのがベストなのかもしれないし、そうでなければ受け入れてくれない国もあるだろう。だがそれは費用やクオリティーの問題で簡単な事ではないだろう。恐らくそれが大変過ぎて、日本映画は鎖国状態にあるのだと思うが、IT/eコマースの時代に全てを諦める必要がどこにある?せめて英語字幕版だけでも世界に向けて売り出すべきだと強く思う。

インドネシアの日本映画館構想は暗礁に乗り上げてしまっている。しばらくは「千年の糸姫」ばかり上映される事になるかもしれない(笑)。日本映画がこういう意識である以上、映画字幕製作という事が“余計な一手間”だと思われるのは仕方のない事だろう。そのせいか、酷い字幕が付いている作品を度々見かける。私は自分の作品での字幕製作には随分こだわっている方ではあるが、そのこだわりを通すのにも大変だ。

勿論ネイティブスピーカーを雇い、作ってもらう訳だが、普通に頼むと一文字いくら、という計算であとは丸投げ。しばらくするとファイルが送られてきて、誰がやってくれたのかも分からないことすらある。それをただ貼り付けていくだけでは納得できない私は、翻訳者と必ず全シーンを見ながら話し合う。まず根本的に文法が違うので、とある台詞を言っている役者の表情と字幕の言葉がズレてしまう事がある。100%とはいかないが、それを極力シンクロさせる為に英語を変えてもらう。

また、英語と日本語の違いは言葉と文法のだけではない。英語は殆どが物や事や様子までもに名前を付けるのに対して、日本語にはそれを音で伝えようとするケースがとても多い。「なんだかフワッと」という台詞に頭を抱えてしまった翻訳者に「breezy(そよ風のように)」という言葉を提案した時は翻訳者は大喜びをした。そもそも日本の文化についても話し合わなければならない。鬼と悪魔の違いはmonsterとdevilでいいのか?とか、神道と他の宗教との違いとか、神社の神主は決して牧師のような話し方はしないとか。

映画は話の筋だけ解ればいいというものではない。こういう文化的側面も出来るだけ伝えたいのだ。こういう話し合いが出来る翻訳者は当然日本語も少しは解ってくれてないといけないし、そういう人はなかなかいない。私がやっと見つけた人もこういう話し合いをしながら仕事をするのは初めてだと言っていた。翻訳業界でも恐らくそういう環境と意識が整っていないのだろう。ただ、こういう字幕に対する丁寧な意識が、海外の映画祭での評価にも少なからず影響するのは間違いない。IT時代とはいえ、ただ販路を拡げるだけではなく、作り手や業界の意識改革が必要なのは言うまでもないことだ。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。