Vol.125 商業映画とアートフィルムの違い。自身のターミナルを明確にして制作に挑む[東京Petit-Cine協会]

txt:ふるいちやすし 構成:編集部

劇場上映の価値を問う

私の作品、「千年の糸姫」はすでにAmazon Primeより世界配信されており、そのディストリビューターであるアメリカのShami Media Groupeから言われた言葉が「お前はなぜ劇場に拘る?世界には劇場のない町がどれだけあると思ってるんだ?アメリカにだって車を3時間走らせなきゃ映画館にたどり着けない町もある。そういう人に観てもらいたくないのか?」というものだ。確かに納得はいく。もう劇場に拘る時代ではないのかもしれない。

実際、有名人が出ていないプチ・シネを劇場でかけるとなると利益どころか大きな負担を強いられることは身をもって体験している。しかし、先日招待されたスペインの映画祭で、久しぶりに大きなスクリーンで、観客の反応を感じながら一緒に観ると、ああ、やっぱりいいもんだ!と感じる。これは作家のただの贅沢なのだろうか?その贅沢を味わうためだけに劇場上映を自力で行うのは正直しんどい。キャパ×回数×日数。それを埋めるための広告費と宣伝活動。どう見てもひどい贅沢だ。

特に私のようにそれらを作家・監督一人で賄わなければならないとなると、やっぱりキツイ。つまりは集客力が問題で、劇場のキャパはそのノルマと考えなくてはならない。そういう意味ではキャパの小さな劇場がもっともっとあればいいのにと思う。

今回は東京・高円寺、駅から3分という好立地にキャパ25人(+座布団席10人)というプチシネにはもってこいのマイクロシアターBucchus(バッカス)の館長、丸山大悟氏にお話を聞くことができた。そこには単に規模を縮小して商業的負担を減らすということではない大きな意義が感じられた。

そもそもオイド映画祭・東京という映画祭がありまして、初めは僕もクリエイターとして参加していたのですが、次第に運営にも関わるようになり、その拠点を作ろうということで始めたんです。

――この規模にしたのはどういう狙いがあったんですか?

当初、映画祭は70〜100といったミニシアターでやっていたのですが、いくつもの作品による合わせ技みたいな感じで集客できていたんです。ただ、一本の映画の力となると、製作者、監督、出演者が協力しても半分かなと思い、まずは0から1にするための劇場として存在させようと思いました。その現実感は僕もインディペンデントのクリエイターの一人として感じてました。

そう、ここは商業的発想ではなく、あくまでクリエイターとしての丸山氏の視点から生まれたのだ。実は彼には某大手スタジオでテレビ番組を制作するという生業がちゃんとある。もちろん赤字では困るであろうが、ここで食っていかなければならないということではないので、このクリエイター視点が許されるのだろう。

それもインディペンデント・クリエイターの一つの在り方だと思います。また、僕にとっては、この劇場で起こることが一つの表現でもあるんです。その一つのヒントになったのは東京キッドブラザーズの公演なんです。

狭い空間に演者や観客が渾然一体となっているあの感じ。また、アメリカでは小さな場所で映画を観た後に、その場でその作品についてとことんディスカッションをするようなイベント(※フォーラムシアターとも呼ばれている)が数多く行われている。テレビでは作品を見た人の数字は出てくるが、面白かったのかどうかも分からない。

大きな映画館のロビーで直接声を掛けて感想を聞こうとしても入れ替え制だからすぐに出なければならない。一方通行のトークショーとも違う、語り合うような場所を作りたかったんです。

たまたまロスアンゼルスに住んでいたことのあるお客さんがいらっしゃった時に“ああ、やっとこういう場所ができたんだな。アメリカではそういう事が実はハリウッドの基礎体力を作っているんだよ”と言ってくださったこともありました。映画祭をやっていても感じていたんですが、やっぱりお客さんは単に映画を観に来るのではなく、作った人の声を聞きに来ているし聞きたいこともある。そういう場所にしたかったので、“Bacchusは映画を消費する場所ではありません。映画を作り上げる場所です。”といつも言っているんです。

それだ!私が映画祭に参加してとても楽しいのは、上映後のロビーやパーティーでいろんな人と意見を言い合い、もちろん褒め言葉だけではなくても、その意見をそのまま作品に反映させたり、次の作品への指針としたり、それこそが丸山氏がおっしゃっている“映画を作り上げる”ということなのだろう。

僕は農業をやっているという意識があります。正直言っちゃうと、映画祭への応募作品を映像のプロとして観ると、通る作品なんてほとんどないですよ。ただ、それをダメだと言ってしまうと次へ進めないんですね。だから時には作った人に会って、“なんでこれ作ったの?”とか、“本当はどうしたかったの?”なんてことも話しながら、人となりも含めて育てていくという意識があるんです。土壌を0から育んでいくような環境が必要なんだと思います。

一番手っ取り早いのはお客さんに言ってもらうことですね。そうしないと日本のインディペンデント映画の質は上がりませんよ。インディペンデントであっても、いずれはクオリティ、集客も含めて、商業的レベルに達しなきゃいけない。その為の実験場がなくてはならないと思っているんです。僕自身も普段、映像工場みたいなところで働いてますから、やっぱり実験場は他に必要なんです。

以前、映画祭という晴れの場の舞台上で、ダメ出しをするとは何事だ!なんてことを書いた事もあったが、ここではもっとはっきりと、実験場として意見を受け止めることができる。上映する側も初めからその覚悟で臨むといいだろう。お客さんもそういう実験場を楽しんでほしい。そういう作り手と観客の間に生まれるダイナミクスは、テレビやネットではもちろん、大きな映画館では生まれ得ないものだ。映画祭であっても時間に限りがある。

うちは客席でそのままディスカッションが始まるといったことはさすがに稀ですが、出てからが長いんですよ。ロービーというか廊下というか、そこで1時間以上話が続く事もあります。それこそが僕が作ろうとしていたものなんです。

もちろんお客さんに楽しんでもらうために、上映作品のキュレーションは重要です。今後は、いろんなクリエイターの方にもお願いして、〇〇セレクションみたいな企画も行っていきたいと考えています。もちろんそれについても観た後にはディスカッションが起こるような、それもまた実験場のあるべき姿だと思います。

もう一つの特徴として、そんなディスカッションがネット中継できる設備があります。ある時はシナリオ解析講座のような事もやりますし、まだまだ可能性は広がりますよ。

映画は観てもらって初めて映画だ。だけど未熟な日本映画にはそれだけでは足りない。観てもらった上で、その後にまだまだ映画を作り上げる工程がある。そういう場所を作っていただいたことに感謝するだけではなく、みんなで盛り上げていこうではないか。

丸山氏は現在、オイド映画祭改め、バッカスフェスティバル(映画祭)を秋頃に開催すべく動き出しておられる。これは単に映画を集めて流すのではなく、この場所の在り方を示す映画祭になりそうだ。そのため、映画のみならず、演劇や講習会、つまり役者も含めて映画人を育むイベントになるようだ。詳しくは直接問い合わせていただきたいが、私も何らかの形でお力になれればと思っている。

WRITER PROFILE

ふるいちやすし

ふるいちやすし

映画作家(監督・脚本・撮影・音楽)。 日本映画監督教会国際委員。 一般社団法人フィルム・ジャパネスク主宰。 極小チームでの映画製作を提唱中。