映像表現と気分のあいだ

前回は、「類似性」をめぐって、模倣における「パロディ(流用と代入)」、そして「見立て」について掘ってみた。パロディは概ね「似せ変え」であり、(前回書き忘れたコトバだが)見立ては「読み替え」といえるものだ。

パロディには元ネタがある。それを真似つつ、あらぬ方向へ飛ばしていく。見立てには形や意味の類似性がある。それを発見して、結んでいく。

パロディによって、元ネタを「似せ変え」るとき、元ネタのジャンルにもよるが、面白さのレベルは平易で、子供にもわかりやすいだろう。一方で「読み替え」(見立て)の方になると、メタファーが高度になるにつれ、一気に大人向けにもなりそうだ。読み替えには「形状」以上に「意味」の占めるレベルが大きいからだ。

もう少し考えてみる。そもそも模倣・パロディというのは、人やモノなど、現実世界という大きな元ネタのごくごく一部分を(形状的に・意味的に)改変・異化することだ。そんな部分的な異化が、私たちの笑いを誘う。

だがその改変・異化が、現実世界全体に及ぶとどうなるのか。さらには、こうした異化される世界の狭さ・広さによって、私たちの笑いのタイプも変化するのだろうか。こうしたモヤモヤを抱えつつ本稿に向かい合ったとき、笑いのタイプについてまず考察した上で、そこに何らかの仮説が必要だと感じた。手始めに、笑いについての諸説を、以下に概観してみたい。

笑いについて

そもそも笑いとは何か。色々と目を通した中から、3つほどを簡単に紹介してみる。

「不調和説」「優越説」「安堵説」

20世紀を通じて取り沙汰されている規範的なものに「不調和説」「優越説」「安堵説」というものがあるという。

「不調和説」はコトバそのままで、常識上のバランスを欠くこと。なんか変…というヤツで、これが笑いの基本だとする説である。
「優越説」は、対象を見下して(バカにして)優越的に笑える、ということ。バカじゃん、アホくさ、というヤツで、これが笑いの基本だとする説。「安堵説」は、とにかく精神衛生上ホッとできる、ということに笑いの本質があるという説。これはフロイトの精神分析から出てきているらしい。

これらは、まあそういうこともあるかな、くらいの受け止めでよいだろう。皆さんや私含め、映像表現に関心があったり、実際に制作していたりする方々からすると、「so what?」感しか起きないのが正直なところだろう。

ベルクソンの「笑い」の定義

ベルクソンは「笑い」を対象とした思索を行った、稀有な哲学者である。ベルクソンの活躍した時代は19世紀後半~20世紀初頭で、当時の世界は産業システムが機械化される途上にあった。そうした中で、ベルクソンが笑いの基本原理としたのが「人間的な生と機械的な仕組みの対置」というものだった。

産業システムが機械化される中で、社会システム―すなわち生活世界―もだんだんと制度的硬直をもった、機械的な仕組みになっていく。形式や習慣、そして反復、そうしたものが「人間的な生」を抑圧している―そんな社会にあって、すっかり機械のようになった人間に、ふと「人間的なもの」が表出するとき、何かぎこちない、チグハグな感じが生まれる。そんな様子が笑いをもたらすのだ、という考察である。

チャップリンの「モダン・タイムズ」のような「今われわれが置かれている状況への笑い」なども近いだろうし、逆に、非人間的なものの中に人間との類似を見つけること(イヌネコ的なこともそう)なども、この考察の射程内には入るだろう。

このように、ここでは笑いの生じる意味文脈上のメカニズム考察が中心になっている。一方で、笑いをさまざまに分類しつつ、それぞれの笑いをもたらす面白さをタイプ分けする、というような考察はほぼなされない。

現場のプロやクリエーターによる定義

20世紀を通じて、さまざまなメディアで「笑いのプロ」が輩出された。落語、コメディアン、マイム、漫才師、といった語り手・パフォーマーとしてのプロに限らず、放送作家や脚本家といった「笑いの構造をプランニングする」プロも存在感を増していく。アカデミアと無関係に、こうした現場のプロたちによる「笑いを生むレシピ」も数多く蓄積されてきた。

たとえば、放送作家の西条みつとし氏は、笑いを9つに分類している。

「共感」「自虐」「裏切り」「安心」「期待」「無茶」「発想」「リアクション」「キャラクター」という9つがそれで、制作者としては腑に落ちやすく納得感がある。詳細はぜひ書を手に取ってみていただきたい(かなりすぐ読める)。特に「裏切り」というのは、お笑い指南のコンテンツなどでもよく指摘されており、優れて本質的なところと感じる。

というのも「変形→逸脱」=「裏切り」、だからだ。

前回で述べた通り、「諧謔・あそび」は「リフレーム・異化」タイプ内の「笑い担当」の意味体験で、その核心にあるのは「リフレーム・異化」と同じ方法=「変形」だった。この「変形」が担う意味的な役割は、私たちの常識や既成概念から逸脱すること。まさに「裏切り」であり、「こうくると思ったら、なんとこうくるのか!」というヤツだからだ。

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「笑い」アンリ・ベルクソン著
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「笑わせる技術」西条みつとし著

3レイヤーの仮説

さて、「裏切りが本質」としたところで、本稿での興味は全面的に以下の部分である。

すなわち、

「それがどういうタイプの裏切りなのか」
「裏切りのタイプによって、どういうタイプの笑いが生じるのか、どのくらいのバリエーションがそこには仮定できるか」

ということだ。

毎度のことながら、表現と気分の「あいだ」はどうなってるのか?がまず気になるのだ。

そしてわかるのが、残念ながら見たところ現状、こうした研究自体がほとんど存在しないということ。それどころか、分類の試みさえも、ほぼほぼなされていない、ということだ。

付け加えれば、笑いについての考察を読んでみると、その多くが、対人関係や社会的状況(愛想笑いなど)における笑いをふんだんに含んでいる。

これに対して、本稿で追っているのは主に映像を含むコンテンツ体験におけるものなので、概ね個人的・主観的なものが中心になる。よってより限定された考察となる。

さらに言うと、前回も述べたように「共感的な笑い」、すなわち「対象への愛情をベースに織り込んでいるような笑い(=赤ちゃん可愛いねとか、この猫カワイイとか、家族って幸せでいいねとか、そういう意味体験)」は今回の「諧謔・あそび」からは厳しく除外している。

そんなわけで、なかなか「コレ」という収穫を得られない中、それでも考察を進めるよりほかない。そこで今回は「諧謔・あそび」の方法を、笑いの段階(レイヤー)を分類しながら追っていきたい。先に結論を言えば(もちろん仮説ではあるが)笑いのタイプには大きく3つのレイヤーがあるように思うのだ。

冒頭に述べた、前回テーマの「パロディ」や「見立て」、これを中央に置くとすると、

片側に「子供でも分かる、バカバカしさ、くだらなさ=単純な笑い」があり、逆側には「大人向けの、なんだか尾を引くおかしみ=複雑な笑い」

があるのではないか…、かなり粒度の粗い分類ではあるが、ざっくりと一旦こうしてみた。

図・笑いのタイプ仮説(3つのレイヤー)・筆者による大まかな仮説

ひとまずこんな3レイヤーを踏まえるなら、前回触れた「パロディ」「見立て」以外の2つ、単純な笑いと複雑な笑いが今回扱う領域となる。

さらに、上記の単純な笑いを「放つ」笑い、複雑な笑いを「尾をひく」笑いと括ることとした。その上で、笑いをもたらす方法としての「誇張」「対比」「列挙」、さらには「シュール/ミスマッチ」「不条理」「アイロニー」「自虐」「本性暴露」、これらを取り上げていく。

「放つ」笑い―バカバカしさ、くだらなさ

これは上述の「子供でも分かる、バカバカしさ、くだらなさ=単純な笑い」の方である。対象(モノコトヒト文脈)は笑い飛ばされるためにあり、私たちは「外側にむかって」あっけらかんと笑いを放つ。こうしたタイプのため、「放つ」笑いと仮置きしている。

その時つい漏れる声は「アッハッハ」というのが似合う。「ガッハッハ」「ギャッハッハ」にもなる。感想のコトバは「クダラネー」とか「バカバカしい」とか「クッソワロタ」などになる。現象のコトバとしては「可笑しい」「爆笑」などになる。

※ちなみに「つい漏れる声」(間投詞)は、気分を相当忠実に表す。「感想のコトバ」は相当丸められて、気分の粒度的にもソザツになる。「現象のコトバ」はかなり外形的なものになってしまう。

したがって、以下の各方法にも、すべて基底にナンセンスさがつきまとう。ナンセンスゆえに、意味やストーリーはない(TVCMだと、機能訴求以上のものは基本的にない)。

というわけで、「放つ」笑いを軸に、以下に方法をみていく。

誇張

馬鹿らしい笑いをもたらす中心的方法として、誇張表現がある。度が過ぎたオーバーさはバカバカしさを醸し、笑いに着地できる確度も高い。ただし過去例が多いため、巧妙にやらないとベタ=既成の凡庸表現、になる可能性もまた高い。また、このカテゴリに近いものに「強調」(=笑いに繋がる場合、その多くは「妙な部分をことさら」強調する)がある。

対比

普通のものに対し、異常なものを出して対比させるのが王道である。しかし、単に見てくれやサイズ感など、ありふれた対比だと、もはや異化効果は出ない。そのため「やや異常なもの」と「とてつもなく異常なもの」を対比したり、対比するポイント自体を「異常なポイント」において対比する、などの工夫が必要になってくる。カテゴリは違うが近いものに「対置」もある。

列挙

つぎつぎに類例をあげつらい、たたみかけることで笑いにもっていく。列挙の合間のドサクサに紛れて妙な混入をしたり、最後に異物をもってくるなどの派生もある。古典的には「地震・雷・火事・親父」などもこれにあたる。また、たたみかけのリズムにつれて内容もだんだんヒートアップしていく「エスカレーション」の効果も有効になる。列挙とは違うが「反復(=笑いに繋げる場合「意味なくしつこい」など)」もこのカテゴリに近いところにある。

また、エスカレーションだけで乗り切る例もある。エスカレーションは、列挙(列叙)をリズム的に昇華したものとも捉えられそうだ。

このほかに「ドタバタ系」もある。いずれにしろ、「放つ」笑いは概ね「子供でも分かる、バカバカしさくだらなさ」がその意味体験の根幹となっていて、「放つ」という字義通り、外向きのエネルギー放出が伴うようなタイプの笑い—ある意味で健康的、ともいえる―に着地していく。

「尾をひく」笑い―世界の異化に伴う笑い

こちらは先述の「大人向けの、なんだか尾を引くおかしみ=複雑な笑い」の方である。対象の文脈や世界観に妙なものがあり、私たちは(どちらかといえば)「内側にむかって」笑いを嚙みしめ(?)る。気分的に何かの「引っ掛かり」がある笑いだ。そんなわけで、「尾をひく」笑いと仮置きしてみた。

身体的な解放を伴う「放つ」笑いに対し、きわどいギャグ、ブラックで危ないユーモア、さらには不条理さやシュールさが入り乱れ、多分に心理的な残響を伴うのがこちらの「尾をひく」笑い、というわけだ。だから、どちらかといえば大人向けである。

その時つい漏れる声は「ハア?(笑)」とか「エエ?(笑)」、あるいは「ククク」「ヒヒヒ」「イヒヒ」とか「ムフフ」「グヘヘ」とかが似合う。「ククク」「ムフフ」あたりには、母音的にも明るい感じはあまりない。「ガッハッハ」「ギャッハッハ」とはまるで違う気分だろう(何を言ってるかよくわからなくなってきたが)。

感想のコトバは「何だよこれ(笑)」とか「いやいやいやいやww」とか「そうくるかw」「ないない(笑)」とか「こわ(笑)」などになる(=ちなみにこれらは、実際のSNSのコトバから拾ってきたもの)。

そして、現象のコトバとしては「苦笑」「嘲笑」「呆れ笑い」「皮肉な笑い」「毒のある笑い」などになる。やはり大人向けだろう。小1の子がこんな笑いしかしなかったら地獄である。

最初に挙げたのは「シュール/ミスマッチ」という方法だが、とはいえ、ここで述べる方法すべての基底に、シュールさはつきまとう。

以下、「尾をひく」笑いを軸として、いくつかの方法について見ていくことにする。

シュール/ミスマッチ

ここには「感覚的な常識、予定調和に反しているもの」を括っている。

おさらいがてらになるが、シュールは「シュールレアリスム(20世紀の芸術運動)」から来ている。これは意識による現実世界を超えた、無意識や夢による超現実世界=スーパーリアルの世界を表現する態度や意思、というのがそもそもの意味だ。ダリの溶ける時計のようなアレである。

そこには往々にして不思議さ・謎があり、異界感―妙な世界が前面化する場合が多い。ありていに言うと、なんかフツーの感覚じゃない表現や発想、世界観ということになる。観ている側としては当惑し、面食らい、ある意味諦めて苦笑するしかない、とりあえず笑うしかない、などとなることが多い。そもそも笑いに着地できるか、かなり賭けでもあるから、作る側の難易度も高いだろう。

唐突な異物性―判断不能だが笑うしかないキャラクターやセット、メイク―などもこのカテゴリに関係している。

不条理

上の「シュール」と「不条理」については混然と語られることが多い。今回さまざまな論文を参照しつつ、多くの例にあたっていく中で、結局こういうことだろう、ということがなんとなくわかってきた。

「シュール/ミスマッチ」は先述の通り、「感覚的な常識、予定調和に反しているもの」として括った。これをさらに詰めると、「そもそも、すでに感覚的に妙な世界観が用意されている状態に、丸腰で投げ込まれること」だ。つまり夢の世界に、普段の意識でいきなり入るような、説明不能な意味体験だ。

観る側は予告も前置きもなく、いきなりそこに投げ込まれるが、そこには、常識=条理の世界はハナからみじんもない。だからまんまの、純度100のシュールである。

「不条理」は違う。「ああ、こういう状況・シーン・日常あるよね」とまず思わせておいて、次の瞬間理解不能にさせる、あるいは徐々に、どんどんシュールになっていく、これが「不条理」だ。ここでは一見通常の世界だったものが、ずんずん妙な文脈で覆われていくのだ。逆に言えば、常識の世界がベースにある、すぐ横にある、ということが了解されているのだ。

いきなり変な夢に突き落とされるのが「シュール」、現実がどんどん変な夢になっていくのが「不条理」。どちらにも、シュールのエッセンスはある。要はいきなり純度100なのかどうか、という展開の問題だ。

ところで、アニメで言えば「天才バカボン」はまさに「不条理」そのものである。久しぶりにここのところ何作か見てみたが、これは間違いなく大人向けだ。条理世界がベースにある中で、不条理な意思決定(?)や行いが連打され炸裂している。漫画でいうと吉田戦車の「伝染るんです。」や相原コージの一連の作品も、ここにあたるだろう。

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天才バカボン
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「伝染るんです。」吉田戦車
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「コージ苑 第一版」相原コージ

「アイロニー」「自虐」

アイロニーと自虐は、同根である。アイロニーには当然ながら対象(や世界)に対する批判やアンチテーゼがある。そして自虐にもまた、その深奥に、自分の価値を過小評価する世界に対するアンチテーゼ、が込められている。どちらにも、その根底には、世界を現状維持などさせない、という姿勢がある。特に自虐の破壊力は強く、かなりな圧で現実世界を変形したりする(特に映像の場合)。しかも、どこか怖い。

「本性暴露」

これは、「常識世界では本来抑制すべき、隠すべきものが見えてしまう」その裂け目を感じる意味体験カテゴリになる。暴力、エロやグロ、性的なもの、など私たちの本性に関わるもの、あるいは社会のタブー、といったものが笑いの対象となる。裂け目ゆえ、のぞき見の感覚をもたらすものも少なくない。コンテンツ表現上、当然ながら規制がかかりがちな部分になるし、下品な方向にも振れやすい。本質的にはヤバいものなので、笑いに着地させるハードルも高く、クリエーターが最も試されるタイプの意味体験カテゴリ、といえるのかもしれない。

対象と笑う側はどんな関係なのか?

「諧謔・あそび」の方法について、主だったものを見てきた。この他にも「言い淀み」や意味不明な「カタなし」のようなものもある。ダジャレ系などは、そのものズバリを引用しなかったが、大枠としては前回扱った類似性の領域に入る。

先述の通り、前提の軸として、笑いのタイプに3つのレイヤーを仮説した。すなわち今回扱った以下2つ、

「子供でも分かる、バカバカしさくだらなさ=単純な笑い」
「大人向けの、なんだか尾を引くおかしみ=複雑な笑い」

を両端にし、その中間に前回テーマの

「パロディ」や「見立て」

を置いてみた。

ここで、その理由としている笑いの種類の違いについて、書き口が非常にクダラなくなってしまうのだが、一応記してみる。

  • 単純な笑い、には「クダラネー」とか「バカバカしい」という感じがフィットする
  • パロディや見立てになると、そこには「似せ変え」「読み替え」へのリスペクトも一応あるので「オモシレー」になりやすいのではないか
  • 複雑な笑いになると今度は、「なんだよこれw」「いやいやいやいやww」「そうくるかw」といった感じがまずくるのではないか

こうした、笑いに伴う感じの違いがちゃんとあるはずで、しかも誰だってこれを感じ分けている。なのに私たちは、「この映像(コンテンツ)どうだった?」と聞かれると「面白かった!」などと、ソザツなコトバに薄め、まとめてしまっている…。ソザツなコトバ遣いはイカんすよ。気をつけないといけない。

さて、ここからが本題なのだが、上のような3つのレイヤーについて、笑い方=感じも確かにに違うし、まあそうともいえるかな、と思っていただいたところで、じゃあその違いはどこに起因しているのか?というのが気になってくる。表現と気分の「あいだ」の話だ。

そのポイントは、対象と笑う側の関係、シンプルにいえばその上下関係にありそうだ。

冒頭にこう述べた。

そもそも模倣・パロディというのは、人やモノなど、現実世界という大きな元ネタのごくごく一部分を(形状的に・意味的に)改変・異化することだ。そんな部分的な異化が、私たちの笑いを誘う。

だがその改変・異化が、現実世界全体に及ぶとどうなるのか。さらには、こうした異化される世界の狭さ・広さによって、私たちの笑いのタイプも変化するのだろうか。

つまり、異化の範囲が世界の一部分であれば、私たちは安心して笑えるが、それが世界全体に及んだら私たち自身がその異化された世界に飲み込まれてしまう。本来それは怖いことで、笑ってなどいられない。カフカの「変身」の虫ではないが、私たちの方が変えられてしまいそうだ。

前回の冒頭では、死と隣り合わせの極限状況を笑い飛ばすヴィクトール・フランクルの態度に言及し、あわせてプーチン大統領のMADを引用した。世界の改変・異化を巡っての両者の立ち位置は、色々な意味で対照的かもしれない。ひとつには、世界を物理的に改変するのか、それとも世界を見るまなざしを改変するのか、あるいは、そこに笑いがあるのかないのか、などなど。

パロディによって嫌味や皮肉を湛えながらも、どこか根のやさしさを感じさせるプーチンのMADを見ていると、「意外と仲良くやれるかも」などと思えてしまう向きがある(実際のところは知らない)。

お気づきの通り、このMADはパロディ以前にアイロニーで覆われており、よって「現実改変的」なのだ。

そうなると、メディアに浸された現実の常識とは別のものが姿を現し、世界が別様に見えてくる。笑いを通じてのリフレーム・異化の達成であり、それが笑いを伴えば「諧謔・あそび」の意味体験としても任務全う、ということになる。

そしてやはり、そこでの主役は今回取り上げた複雑な笑い=「大人向けの、なんだか尾を引くおかしみ」なのだろう。すなわち「シュール・ミスマッチ」「不条理・ナンセンス」「アイロニー」「自虐」「本性暴露」といった方法だ。これらは世の中へのまなざしを全体的に変形し、別の世界観を見せ、下手をすると私たちをとんでもない方向へ迷い込ませるポテンシャルをもっている。

というわけで、対象と笑う側の関係、という言い方に直せば、以下のような整理ができるように思える。

  1. 笑いの対象が世界観…複雑な笑い、主にシュールの方向性のつき詰め。現実世界と全く接点のない、いきなりすべてを覆う異様な世界(スーパーリアル)が対象
    これは笑う側より実は大きい存在を笑うことになる。笑う側は、ある種の理解不能さをもって、戸惑いながら笑う
  2. 笑いの対象が身の丈の現実世界…あくまで現実世界をベースに、その「裂け目」から立ち現れてくる不条理やアイロニー、隠されていたタブーなどが対象(パロディの多くもここに関わる)
    これは笑う側と概ね同等の世界を笑うことになる。笑う側は、ベースの現実世界を理解しているので、その裂け目にどの程度のリアリティや蓋然性をもって受け取るか、がポイントになる。それによってさまざまな笑いがあるが、やや「ヤバいものを見た」方向の笑いにはなる。呆れ笑い、バツの悪い笑い、毒を含んだ笑い、皮肉な笑い、嘲笑冷笑、などある
  3. 笑いの対象が現実世界のほんの「部分」にすぎない…シンプルなパロディや見立てが対象
    これは笑う側の方が優位にある。見下して笑える、単純な笑いだ
    表現と笑いの関係・筆者による暫定のまとめ
図・方法=表現と笑いの関係・筆者による暫定のまとめ
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変形の源とは?

「諧謔・あそび」の笑いに潜む本質は、変形を志向する何かの力だ。「正気」が常識的な条理の世界であるなら、それを変形するのはシュールで不条理で、異常で不気味なもの、に他ならない。

コトバを選ばずに言えば、その源にあるものは「狂気」といっていい。さらに言ってしまうと、それは私たちがみな持っているもので、同時に普段の常識の生活によって長らく抑え込まれているものだ。

だから何度か注記してきた通り、平和に安全に、現状維持的に、正気の世界のあたたかい共感によってもたらされる「笑い」は、「諧謔・あそび」 の笑いとは根本的に意味体験が違う。笑い声も全く違っている。そもそも、「諧謔・あそび」に「微笑み」は存在しない。ビートたけしやラーメンズらの笑いは「諧謔・あそび」の中にこそあった。

最近、変顔というものがポピュラーになっている。しかしアレも、それをやる本人動機とか周囲の受け入れ方の現状など関係なく、その変顔写真を2~3分もじっと見ていれば、やはり狂っているとしか思えない。そのうち恐怖すら感じてくる。

あれは、抑圧された狂気の無意識での解放なのだろう。ほどよく狂気に満ちているなら、誰も変顔などしない。つまり逆説的に、今の私たちには、きっと狂気が足りない。

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WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/