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前稿を引き継ぎ、レバレッジの意味体験の考察を進めていくが、「おお、なんてこった…」というのが率直なところだ。

理由は大きく2つあるが、本稿内容に関する1つ目のものについてまず話そう(2つ目は次回に)。

早速その1つ目だが、前稿で力点を置いていた「模倣」について、読みやすく正鵠を射た書籍がすでに2023年初めに邦訳されていたのだ。不覚にもアンテナが張れていなかったことをお詫びしたい。

ルーク・バージズ著「欲望の見つけ方」という書である。ちなみに、副題(お金・恋愛・キャリア)という部分がいかにも自己啓発っぽく、なんとも微妙なのだが…

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「欲望の見つけ方」 ルーク・バージズ著

論旨を大筋で辿ると、こういうことだ。

私たちの欲望は模倣によって成り立っている。それは「誰かによって発明されたロールモデルやスタイル、価値観」の模倣である。この模倣の構造に気づけ。模倣による欲望は浅い。可能なら、模倣から距離をとれ。そして自分なりの深い欲望に向かえ。

あんまりなまとめで怒られそうだが、ある意味とても明快だ。

考察の主軸に、ルネ・ジラールの模倣モデル(前稿ラストで触れた)が全面的に援用されており、その理解のためにも有益だろう(一方、前稿で引用したガブリエル・タルドについては1mmも言及していない)。ちなみに前回触れた、ピーター・ティールへのジラールの影響についても、かなりの頁を割いて言及している。

また、ここがいかにもアメリカ人らしいが、模倣から距離をとる例として、自分の起業家としての軌跡や、ミシュラン三ツ星シェフらのエピソードが数話に分かれて挿入されており、ストーリーにいい感じの「読み物感」や「リアリティ」が加わっている。さらに著者は、欲望の変容や今後について、にも踏み込んで言及している(若干食い足りない感があるかもしれないが)。

このように、本稿でいう所のレバレッジ=社会的立ち位置を巡る競争、についてジラールの考察から丁寧に迫っている一冊であり、興味のある向きにはお勧めしておきたい。

フィクションの変遷と人生動機のまとめ

さて、前回までのレバレッジを巡る考察―フィクションや模倣を絡めてきた―について、少し込み入ってきたので、ここまでの議論を表に整理してみた。ざっくりいえば「他者に勝てる感」がどんな条件や関係において変化するのか?ということを見定めるための足がかり、のような図だ。

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図1「フィクション→発明者→メディア→人生動機」の関係図 (筆者作成) 上から下への矢印は「模倣」の流れを示す
※画像をクリックして拡大

一応各項目をざっとおさらいしておこう。

<Fiction>

これは社会を条件づけるシステムのこと。大きく言うとテクノロジー条件・政治経済体制の条件・環境条件・社会や人間の習性などがある。私たちにはどうにもできない人生条件ということだ。

<発明する者/発明>

このフィクションに最適化した人生動機を用意するのが「発明する者」、さらにこの「発明(内容)」が模倣のためのモデル、社会で常識的な人生動機となる。この「発明」を模倣し、最適化を目指す競争がレバレッジの意味体験の源泉だ。

<メディア><社会的人生動機><個人的人生動機>

次いでこの「発明」を広めて模倣を促す「メディア」がある。これについては本稿で述べていく。

このメディアの影響をうけ、社会に醸成されるのが「社会的人生動機」だ。これは上述の「発明」の模倣であり、社会で常識的な人生動機、のことだ。

そして最後が「個人的人生動機」だ。これは「発明」の模倣だけでなく、それに反逆したり、距離をとりもする、私たちそれぞれの生き様だ。ちなみに先の「欲望の見つけ方」の著者が推奨するのもこの「距離をとる」路線で、「反模倣」がキーワードになっている。

上記の表をもとに改めて整理すれば、本稿が前提している見立てはシンプルで、現在が「Fiction2からFiction2 newへの過渡期」であるということだ。どちらも市民中心の産業資本主義社会、という建てつけでは同じシステムだが、ヒト中心の消費社会からデジタル管理によるスマート社会へ、というテクノロジーの移行がある。ゆえにマイナーチェンジ的に、後者にはnewと付けている。

Fiction2 newのための「発明」はまだ十分ではないけれど、Fiction2(消費的社会)の用いた「発明」にはすでに賞味期限切れ感、ガタが来ている。その例として、多くの(少し前の)広告の感じがすでに、もうしっくりこない。結果として、積極的に「模倣」したくなるモデルがどこにもなく、そんなわけで皆の中で人生動機=欲望がうまく発動していない。そんな中、デジタル化やAIの日常浸透は日進月歩で進む。現状ってそんな感じではないだろうか。

当然のこと、これは映像表現にも大きく影響する。従来の「発明」の文法で広告映像を流しても、なかなか刺さらない。一方でFiction2 new(スキル・コスパによる優位)を憧れの、カッコイイものとして描くような文法も、まだ出ていると言えない。

例えば「挑戦・破壊」の稿(Vol.18)で触れた「アノミーによる超越への希求」「まだ見ぬ何か輝く夢っぽい自由への賭け感」、のような積み残し課題が、ここでもテーマになっている印象がある。この点は後ほど検討する。

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©Sony Pictures Entertainment (Japan) inc.
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©1962 STUDIOCANAL / SOCIETE NOUVELLE DE CINEMATOGRAPHIE / DINO DE LAURENTIS CINEMATOGRAPHICA, S.P.A. (ROME). ALL RIGHTS RESERVED.
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©1984 CINESTHESIA PRODUCTIONS INC. New York All Rights Reserved

「まだ見ぬ何か輝く夢っぽい自由への賭け感」から連想した映画

上から、

なおFiction3はFiction2 newからさらにドラスティックに移行した未来、という設定であり、まだ誰も見通せていないステージである。だから本来は、地球環境や世界の政治経済体制、あるいは凄いテクノロジーのブレークスルー(特に不死/人工生殖)、これらの変化で「条件」がガラリと一新されることがその必要条件になる。

とはいえここを仮説してみることはとても重要なことだ。ということで、上の表のFiction3には、アバウトながら勝手な仮定を書いてみている。SFっぽすぎるとリアリティが薄いので抑制的に並べたが、こうしてみてみるとFiction3というより、Fiction2 newのアップデートバージョン程度にしかなっていないかもしれない。

上の表をもって、これまでの論旨を今後展望的にまとめるなら、以下のようになるだろう。もちろん、これはあくまでも、本稿の見立てということになる。

  1. 現在そして今後は、フィクションの過渡期と目される。
  2. ゆえにそこでは、フィクション=システムに最適化する者(=優越者)も交代する。
  3. 優越者の交代により、新たな「発明」が行われる。よって「模倣される内容」も変わる。
  4. 「社会的人生動機」とは「発明」の模倣、に他ならない。3が変わるので、当然ここも変わる。
  5. 変化する3と4、つまり「模倣される内容」はイメージではなく、数字的情報に変わる可能性が高い(指標やスコア)。
  6. 人々に「模倣」を促す存在であるメディアも、交代する可能性が高い。
  7. すでに現在も5と同期しながら、接触的で情報処理的なメディアがその中核にある。それはイメージの蓄積・反芻より、ワードや数値の即時処理に向いている。至近的である。

1~4についてはすでに前稿(Vol.26)で述べたため、5、6について以下補足していく。まず6のメディアの変化について、から見ていく。

メディアの変化

メディアとは「模倣すべきモデル」の流布により、皆の欲望・人生動機を広める存在だ。逆にいえば「模倣すべきモデル」が変われば、メディアも伝播の方法も変化していく。

上述の通り消費社会においては(上の表ではFiction2、その特に後期)マスメディアが「発明」を広め、人々に模倣を促してきた。そこではTV映像やグラフィックイメージが席巻した。

本連載Vol.25で挙げたレバレッジの例

本連載Vol.25で挙げたレバレッジの例

次にTVに代わってスマホの席巻が始まる。Fiction2で主力となったTVメディアが、ビジュアル&イメージでの空間出力をメインとしていたのに対して、Fiction2 newでのメディア―現状では依然スマホである―はより情報接触型であり、常時入出力可能な経路に依っている。

SNSその他による文字・数値化された情報が、瞬時に更新され伝播し、情報は手元ですぐ入出力処理できる。この10年来、これが定着した。そこでは時間のタメとか、反芻とかは不要になる。今後こうした手元での更新や処理は、さらに進化していくだろう。

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例えば、すでにデジタル処理に置換された「ハンコを押す」行為。朱肉を押すときの一瞬の間において、再度「押して大丈夫か?」と反芻・再考させるアーキテクチャだったといえる(©山田文具店

そこではイメージより速いテキスト、イメージより実証的な「数値」が、無意識のうちに信頼されていく。手元で高速スクロールできるSNSのタイムライン、あるいは映像・写真のイメージもまた「処理」の対象として、半ば数値的・文字的な扱いとなり「飛ばし見」の対象となる。こうしたメディア環境のもたらす「加速性」は、即断即決、スピード優先の社会意識を強化していく。

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文字/数字情報そのものがダイレクトに「模倣」を促す(旧Twitterより)

しかしこうした手元処理と被さってさらに重要なのは、デジタルメディアのレコメンド性である。現在の行動や関心のある情報から、類似したコンテクストが次々と提供されるアレだ。もっとも、10年前に予測されたほど私たちのスマホ画面はまだハック・ジャックされてはいない(ご存じの通り様々な規制もかかってきた)。しかしそれでもなお、未来の「安価な」AI相棒は、巧妙な誘導トークをかなりの頻度で挟み込んでくる可能性もある。

※ただし「イマイマの私の気分やコンテクスト」までを捕捉する技術については、依然スタックしたままのようにみえる。つまり気分や空気を読んで、精度のよい会話ができるAI相棒には、まだ時間がかかりそうだ。

メディアはただ情報を伝えるインターフェースではなく、自分だけにカスタマイズされた情報が入り、そしてこちらの情報が出ていく常時回路になった。だから「発明」は、15秒のイメージや60分のドラマに仕立てて流通させる必要すらない。毎日毎日、毎時毎時、すでに、知らず知らずのうちに私たちは「発明」のコンテクストに包摂され、浸されているはずだからだ。

位置情報やスマホ決済やメッセージのやりとり、これらはデータとして出ていき、それと引き換えに何かのカスタマイズされた情報(模倣を喚起するなにか)が入ってくる。いやむしろ、この入出力のデータ回路がワークしてさえいれば、模倣内容の如何を問わずFiction=システムはそのまま自己強化していくだろう、そんな気すらしてくる。

いずれにしろ、メディアは「何かを伝える」という以前に「私たちに常時密着している」(無意識化・透明化)という変化を遂げたと考えられる。

「模倣される内容」の変化

こうしてメディアのありかた、伝播方法が変わると、模倣のあり方も変わる。結論からいえば、模倣から「心理的空間性」がなくなっていく。このあたりから上の5の補足にも入っていく。

「心理的空間性」がないとはどういうことか。本連載Vol.09Vol.16でも指摘した通り、ここで問題になるのは「距離感」あるいは「遠さ」、そして「時間」だ。

イメージによる憧れの醸成がなされるとき、そこには対象への距離感、そして憧れが持続する時間がある。模倣したいものと、今の自分の間には「イメージ的な」距離があり、それにより沸き立つ「模倣したい」という思いが、心の中で反芻され持続する。F1ドライバーの写真(自分もこうなりたい)や外国の街並(いつか行きたい)の写真を部屋に貼って毎日眺めたりする、みたいなアレだ。こうした「心理的空間性」はもはや昭和っぽい。

埼玉県立近代美術館で開催された「日本の70年代 1968-1982」より 美術系大学生の部屋を模した作品
©アイエム インターネットミュージアム @InternetMuseum_officialより





常時密着のスマホですべてが「手のひら化」し、手元処理できる情報になってしまうと、憧れが持続する時間は保ちにくい。ひとまず「良いな、模倣したいな」と思う情報があったらとりあえず「チェック」して「保存処理」に回す―そして多くの場合、二度と参照されることはない。

次々と「これもいいな」と思う情報が流入してくると、対象への憧れより「チェック」すること自体が目的化する。何か「模倣したいものがあった」感だけが束の間残り、そしてまた忘れられていく。運よく「比較検討」されるとしても、少しでも条件のよい情報が入れば、模倣したい対象はすぐに移行する。

ところで、チェックしたり、比較検討する際の決め手はどうなっているだろうか。イメージとしての模倣が弱まっていく中、代わって登場してきたのが、指標やスコアだ。情報を比較検討し、どれが最もスコアが高いか、選択・模倣すべきものなのかを数値的に示してくれる、使い勝手の良い物差し、手摺りである。先に提示した「スキル」や「コスパ」はこうした数値的文脈と相性がいい。

「模倣される内容」、これはイメージから、比較優位が数値的に示されるもの、すなわち指標の値やスコアそのものに移行していくと思える。イメージや心証、印象の優位も大事なのだが、それだけだと「それってあなたの感想ですよね」となる。数値的裏付けがないと、自己説得力も他者説得力も弱い。

あなたに最適な「模倣すべき」情報はこれ、というものを、数値スコアによって刻々と提示していく仕組みは重要になるだろう。これは(特に一部の国家では)SNSやプラットフォームではなくなるかもしれない。またデバイス面ではスマホ脱却できるかが未知数だが、指よりもっと身体フリーなもの(例えば音声)など、ここも変化のプロセスにあるだろう。

こうしたメディアやデバイスの進化もまた、Fiction=システムの重要な条件である。こうしてFictionは自己強化のため、模倣を浸透させていく。そんな中で「発明」=模倣の内容、すなわちレバレッジ感は今後どうなっていくのか、およそ「コスパの悪い」考察へさらに踏み込んでいこう。

レバレッジの今後

これからのレバレッジ感、人生動機がどうなるのか。メディアやテックの条件から考えれば、それはイメージではなく数値の競争、すなわち指標の値やスコアそのものを巡る競争へ移行していくだろう、と上に述べた。

仮にそうだとして、レバレッジ感ある「生き様」自体はどんな感じになるのだろう。こんなこと、概ねどこにも書かれていない。だから勝手に仮説するしかない。

順当に世の中がFiction2 newのシステム(デジタル・スマート・自動化AI化)へ移行していくとしよう。メディアも進化し、模倣内容が指標やスコア、あるいはコスパやスキルになるとする。

まず発明者が誰か、である。上の表ではきわめて安直に「企業→AI・アルゴリズム」と書いてしまっている(国家や超国家と考える向きもある)。これらが指標やスコアをモチーフとした「発明」をすることになる。「よりコスパよく効率的に生きる術を得た者」というロールモデルが浮かぶ。

次に、メディアがその「発明」を模倣するように語る。ここで冒頭の疑問、すなわちこのFiction2 new(スマートシステムでの資本主義)を憧れの、カッコイイものとして描くような文法があるのか、という疑問が湧いてくる。卑近にいえば、指標やスコア追求型の生き様は、素敵でちょい悪でカッコいいのか、モテる感じがあるのか、そういうイメージの社会共有に成功していくのだろうか?ということだ。

このあたりは以前から疑問があったのだが、考えていくうちに、そもそも前提の論点を立て直すべきだと思いいたった。ここは筆者的にも若干、首肯しがたい思いだが仕方ない。

つまり、指標やスコア追求型の生き様を、「憧れをもって」模倣したいとか、それが「魅力的なのかイケてるのか、カッコよいのか」というタイプの問いかけ自体が古いのだ。その感性自体が、従来のFiction2=消費社会特有の、いわばロマンチシズムに冒されたものなのだ、ということだ。

社会で主流の人生動機は「イメージや外見での優位」から「具体的な数字性、数値での優位」へと純化する。その意識が徹底されているのが2000年代以降の世代だろうし、今後の世代の多くにとって「ちょい悪でカッコいい」とかどうでもよく、本質ではない。

そもそも筆者の意味体験分類において、レバレッジの本質とは

「他者優位性を確保する」こと、このことだった。

自己満足的で競争的で「他人に勝った」感が必要、そんな意味体験である。

ちなみに前稿も述べたが念のため、これは人間の欲望のある一部分である。社会的な立ち位置に関する欲望だ。

その前提で前稿論旨を再度まとめればこうなる。

「他者に勝つ」核となるのが「模倣」をめぐる競争であり、それはFiction=システムに最適化する者=この世での成功者、のポジションを巡っての戦いだった。まず先行して企業がこの競争を始め、こうした企業がお互いの競争において次々に「発明」をして社会に流通させ、それが今度は社会全体の模倣欲を駆動し、ひいては私たち各自の人生動機を作っていった、というのが流れだ。

このように見れば、現在は、(主に効率化を目指す)指標やスコアそのものが「発明」=人生動機なのであり、それと別に「人生動機を駆動するイメージ」があるわけではない、ということだ。

よって、必要なのは「物語やイメージ」による発明ではない。むしろ「指標(足切りライン)」の発明だ。これは世界中で進行している。国家や企業が前のめりで策定している、信用スコアなどはまさにど真ん中である。このスコアそのものが人生動機になりうるし、特に「足切り」感は「他者優位」の演出のために重要だ。

ここで大切なのは、指標に使用される「測定軸」(指標化にあたって用いられる要素・テーマ)だ。恐らくこれが「発明」=模倣すべき内容、の核となるからだ。

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中国の社会信用スコア「芝麻信用」のスコア 指標に使用される軸は「登録プロフィールの詳細度・信用度」「人脈の多さ」「返済能力」「信用履歴」「購買行動」の5つの要素。ユーザーの最大目標はこれら5要素において「高スコア」になることだ(ZDNetより)

一方で、個人的人生動機はといえば、常に社会的人生動機に同調的なわけではない。「発明」を完全無視、否定したものがレバレッジのカテゴリーにあることも、あらためて重要になる。冒頭に述べたとおり、「未知の、夢っぽい自由への賭け」だったり「反模倣」的な人生動機も当然根強くあり続けるだろう。

これらを考えあわせれば、レバレッジのこれからにはいくつかの方向が仮説できるだろう。前回検討したレバレッジのカテゴリー図をガイドに使いつつ、今後のレバレッジ仮説を出して本稿を締めたいと思う(当然これらは本稿による仮説である)。

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図1 レバレッジの意味体験カテゴリー(前稿掲載)
社会システムへの最適化方向=3.プレステージ・ステイタス 2.センスエリート
中立的=1.グッドルッキング 5.ハイ・パフォーム
反社会システム方向=4.エッジ・オルタナティブ 6.スピリット

DXクール(2.のセンスエリートを代替)

Fiction2 newの眼目はスマートで効率的な社会だ。そのためには無駄を削減し、煩瑣な思考や決定は自動化してしまい、心理的摩擦やストレスなく生きる、そんなあり方がフィクション=システムへの「最適化」だ。その方便としてわかりやすいのがDX(日本だけの略称ではあるが)というキーワードだ。

企業の業務DX化の次にくるはずの、生活のDX化や人生のDX化。それは生活空間や日常オペレーションのスマート化に始まり、次第に人間関係や生産性の管理、スキル取得などの達成計画(=各種指標化のクリア計画)など個人の活動全面に渡るDX化に繋がっていくだろう。

ちなみに、これらは地球環境のサステナビリティにも直結する。だから最適化するのはマストでもある。こうして生活はいくつかの軸で数値化され、メディアは常に確認してくる。あなたのスコアはいま、何点ですか?

大枠で、そんな流れが定着するとした場合、どれだけ最小時間で人生における安全圏を確立できるか、も重要になる。

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「一生自由に豊かに生きる! 100歳時代の勝間式人生戦略ハック100」 勝間和代著
効率化や人生ハックという文脈での指南書は変わらず人気を集める

自律的な態度としては、もちろん酒タバコはやらない、ストレスが最小になれば浪費濫費もしない。よい気分や幸せは、多くを学習したアルゴリズムによって管理提供されるし、それで十分でもある。いやむしろ気分・幸せ感の選択肢が今より豊かに提示提供される可能性も高い(VR世界や、音声対話できるAI相棒などの可能性も少しずつ広がりそうだ)。住居はスマートシティの集合住宅が基本なのだろう。

このDXクール、つまりDX化した度合いを競うレバレッジのあり方は、従来の「センスエリート」の場所(2)を占拠するだろう。きわめて自然な推移の中で、多くの人々がこうした生き様に惹かれていく。以前話題になったミニマリスト的な「持たない」系の価値観もここに収斂していく。メディア=データ回路による無意識な誘導、包摂も重要だ。

重要なのは、こうやってスマート化された社会によく適応し、様々な社会スコア、信用スコアをクリアすることで、「デキるひと(=高スコア)」としてFiction=システムから評価される、という流れだ。

この「高スコア」が認知されれば、他の人々より高い利便ランク、各種の選択肢(=「自由」)を確約される。これによって報酬感や他者優位感が巧妙に確保されるというわけだ。

なにやらディストピア感や滑稽さも禁じ得ないが、それでもクールに効率化とスコア達成をなしとげていく人々が世界環境=Fictionに祝福されていく、こんな方向性はかなり確度が高いように思えるし、なにより慣れてしまったらそこにはディストピア感など皆無なのではないか。恐らく知らず知らずのうちに、こういう生き様を後押ししていく映像表現もあふれ、これが普通、かつ「幸せへの近道」になっていく、そう思えてならない。

なぜならFiction2 newがこうしたあり方を欲求しているからだ。

生態圏リッチ(3のプレステージ・ステイタスを代替)

こちらもFiction2 newに最適化する方向での他者優位、になる。

従来3のゾーン内容は「プレミアムな消費」だったが、ズバリ「所属する環境」自体がプレステージやステイタス、つまりレバレッジ感となる。ひとことで言えば「プレミアムな所属」だ。

これには、一部のスマートシティが「ゲーテッド・コミュニティ化(富裕層のための閉鎖都市)」していく流れも念頭に置いた。当然、先の「DXクール」の人達もここを目指すことになる。

「居住地」や「勤務先」による差別化、こうしたものはこれまでの社会にも色濃くあった。しかし、そこまで「カッコよさ」「イケてる感」と結び付けたり、そのアドバンテージを社会でまき散らすようなことはなかった。だがこうした「所属」、もっといえば「階層」が、今以上に絶対的な価値、差別化のツールになり、そういった社会認識がより絶対的になる、というイメージだ。英国のような階層社会にやや近づく感じだ。

システムに最適化したプレミアムな場所に居ないと、そもそもあらゆる機会や情報から「システム的に」遮断される。人生が住む環境設定でほぼ決まる、みたいなことである。「足切り」だ。

所属は地域や企業という要素もあるが、さらには「この都市」「この国」にいれば勝ち、というヒエラルキーがより鮮明になるかもしれない。人々はそこに属しているだけで、自然に情報や住環境や文化性すべてが「なんとなく」身についてしまい、システムに従っていれば努力は何も必要ない、という感じになるだろう。

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米国フロリダのゲーテッド・コミュニティ。郵便配達員も入れないという(©business insiderより)

これも多分にディストピアっぽいが、あにはからんや、基本的にはこれまでも世界はずっとこうした状況にあったのだろうし、グローバルサウスの勃興によってある程度の再編がされるだけ、とも捉えられる。さらにいえば生態圏のレベルも、静かにいくつもの階層へ分けられていく、とも考えられる。

ここでどうしても思い出すのは、カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」である。本中の世界では、子供に遺伝子手術?を施すことでエリート階層入りを切望する社会意識が描かれている。

※池田純一氏や福嶋亮大氏が鋭い考察をされているので興味ある向きは参考にされたい

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「クララとお日さま」 カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 早川書房

今までヌルリと平等感を演出してきたメディアが溶けてしまうと、皆が直接数値情報へアクセスし、より剥き出しの他者優位、あるいは劣位=嫉妬が全面化していくような心配はある。むしろ、そういう杞憂のほうが現状強いようにも見える。

しかし実際には事実上の階層化により、情報も階層ごとに統制されれば、実はどの階層においても、今以上に幸せである可能性も高い。逆に、他の階層が気にならないからだ。こうした方向へ進む国家や自治体は現実的に出てくるだろう。分断や不満がなければ統治コストを効率化できる。

こうなると矛盾したことになるが、嫉妬や模倣をバネにするレバレッジ感は、そもそも抑制される方向になるのかもしれない。「見せつける」「誇示する」という行為が消極化していくからだ。

そうなると、映像表現的にこの「生態圏リッチ」ってどんな風に描写できるのか、キーワードを変えていろいろ見てみたが、デジタルツインっぽい画像やデータと数値が飛び交う街のイメージイラストばかり出てくる。なるほど、やはりイメージではなくスコア、数値が大事なのだろう。

スコアや数値を除いてしまえば、見た目は特にカッコイイわけではないが、それなりに豊かで幸せ、のような光景が広がっているのかもしれない。生態圏リッチな状態さえ確立してしまえば、その中では実は農業をやったり無駄な遊びなどを楽しんだりして、結構効率化とは無縁の楽しみを享受している可能性もあるだろう。

スーパー個人化(4のエッジ・オルタナティブを代替)

これはFiction2 newをハックするバージョンで、生活や人生のデジタル化を極めつつも、それをFiction=システムではなく「個人の欲求」へ紐づける究極形のようなものを立ててみた。

ゆえに若干「挑戦・破壊」的なニュアンス(Vol.18)が入ってくるだろう。アルゴリズムを自分用に最適化し自分自身で扱えるようなイメージだ。それはシステムの誘う「スマート」とか「生活・人生DX」の方向には全く最適化せずとも構わない。むしろやんわり規定される指標(正確には指標を割り出す「軸」要素の設定)に納得しない前提での、自分なりの美意識や生き様の独自性、というものが競争原理になる。

自分のためのメディア=アルゴリズムが世界の情報を編集しつつ、自分の生活・人生の物語を自動生成して提示し、ことによると自分に最適な遺伝子や子孫の残し方や育て方さえアシストする。

当然、Fictionに最適化したスマートな街とは折り合いが悪いので、自分たちのために勝手に居住区をつくるかもしれない。反逆的でアウトローというよりは、自由に勝手に生きる、という感じかもしれないが、Fictionへの最適化を拒む時点で構造的にはアウトローである。いつの時代にもこうした精神性は受け継がれていくはずなので、一応アンチヒーロー的なレバレッジ像として置いておくことにする。

重要なのは、スマート性の基軸である指標やアルゴリズムを自分化してしまう、という部分なのだが、そんなことが可能なのかどうか、ここに尽きている。

これまでの新しいレバレッジ像を下図に一旦まとめてみた。

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図2 これからのレバレッジ感の見立て

最後に、6の生き様に関係するものを以下にまとめてみた。

Fiction2 newに最適化しない、すなわち「発明」に従わないタイプの個人的な人生動機も多そうな印象だ。これらは大きくは独自性、というものが競争原理となるので上記4のシステムハック的側面もその前提になりそうだ。

恐らく個々は少数派になるような気もするが、ここから次のFiction3、つまり「効率やその指標数値ではない次の何か」を示す模倣、競争的価値が何らか暗示されてくる、そんな可能性もある。

そんなわけで、各タイプには「人生動機が駆動する」ような競争的価値、つまりレバレッジ性が何か、ということをそれぞれ付記してみた。全体的に見れば鍵は「時間」「気分」自体のレバレッジ化、ということになりそうだ。トキとかエモ、ということに近いのだろうと思われる。

従来消費型(モノ・コト)

Fiction2 newではなく、その前の消費社会=Fiction2に最適化した、消費型のレバレッジそのまま、というもの。パリピでセレブなブランド志向を変えず、消費の贅沢さによって他者優位を感じていくスタイルだ。

海外旅行、グルメ、高級外車、高級ファッション、別荘や高級マンション、パーティ(セレブな集まり)…従来マスメディア的な、消費促進型のマーケティングのもと、主にハイエンド商材提供のプレーヤーが頑張るFiction2の構図がここでは踏襲される。巨視的には前稿(Vol.26)で述べた、近代的文脈の「模倣」を継承する流れである。徐々にアナクロ(時代錯誤)度を増し、かつ環境派からは指弾されていきつつも、しばらくは根強く残っていくかもしれない。

ここで競われているのは社会的な「自己装飾感」となる。

極上コミュニティ型(ヒト・環境)

損得・効率を越えた関係性によってできる、個別のコミュニティの質・レベルを争う。ある意味、帰属回帰的な共同体感(Fiction1)によっているようにも見えるが、その実、憧憬感からのレバレッジ性も持ちそうである。その意味では3の生態圏リッチのバリエーションにもなりえるし、4のコミュニティバージョンにもなりえる。

いわゆる「極上のナカマがいる」「自分たちだけの秘密基地に生きている」という満足、その仲間とのプライスレス系体験、がレバレッジ=模倣を促す核要素となる。さらに言えば、その中での主催者感、リーダー感というのもあるだろう。地域再生とも相性がよい。食料や水に困らないという点でのレバレッジ性も今後上がる可能性がある。

ここで競われるのは「仲間のクオリティ」「仲間と過ごす時間のクオリティ」あるいは「食や環境のよさ」あたりになる。

自由追求型(自由)

個人志向で、よい「時間」のコレクションをしつつ、場所場所を回遊していくようなノマドスタイルを想定してみた。上記の「スーパー個人化」にもつながる。

ここで競われるのは「自由さ」である。他者や社会、共同体の価値に縛られることを嫌い、自由を至上とする。システムの決める指標は重視せず、むしろ自由さにおける指標を自分たちで勝手に開発するようなイメージ。DXクール崩れの一部も包括するだろう。やや「挑戦破壊的」でもある。

90年代のグローバリズム初期にあった、エグザイル・ギャング的な生き様にもやや重なる。

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(©るるぶ「気になる人急増中!?新しい車のライフスタイル「VAN×LIFE(バン×ライフ)」とは?」より)
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(©tabi labo「常識から自由になれる! プラスの循環を生むライフスタイルの作り方って?」より

投企・希少性重視型(偶発・希少性)

「投企」とは、不確定なことへ自分を投げ出す、という意味だ。言うなれば「賭け」である。自分の生き様として、投企性や賭けをその中核に置く。当然、Fiction2 newが要請する、再現可能性や効率性(いわゆる「仕組み化」)とは逆である。今ここでしか起こりえない非再現的なこと、を重視する態度はアナログ感重視と繋がりあう。上図でいうと5ともやや重なる。そもそもデジタル世界を重視しない。

ここでの競われるのは「ミラクル感」や「特別な一回性」「アナログさによるクオリティ」である。すると「アナログで手作りの丁寧な生活」や「自然共生」(いちいち再現性が効かない)のようなものもここに入ってくるのでエリアは広い。神秘や宗教的な文脈もここに入ってしまうことになる。

問題は、そこからレバレッジ性=他者優位感をどのように抽出・浸透させるかだが、希少性が鍵になるだろう。記憶の中だけになったような手仕事さ・豊かさ(コスパで駆逐されたもの)、アナログな人間性があることの豊かさ、などは希少さにつながる(上のコミュニティ感もこれにつながっている)。

「生き様のレバレッジ」の成立条件

前稿でも触れた通りだが、「個人の欲望」は前提として、時代ごとのフィクションの条件に縛られている。

その意味で、上に挙げた全てのタイプに言えるのは、これらがFictionによる恩恵(2や3のような方向)か、さもなくばFictionのハック(4のスーパー個人化の方向)どちらかを前提にせざるをえないだろう、ということだ。

4の「スーパー個人化」で挙げた、Fiction2 newにおける指標のハック、すなわち「規定のスコアの内容軸を別物化して、別指標に書き換える」ことができるかどうかが重要になるはずだ。

別の指標。重要になるのは、恐らくFiction2 newが指標化しきれていない領域、すなわち「時間の質」や「気分の質」「アナログな人間性が感じられる=味わい度」などが有力だろう。※こうした領域には(いやらしい言い方をすれば)大きなマーケットチャンスがあるように感じる。

そしてこのことは、タルドも言っていた従来の模倣の方向性、つまり「上層から下層へ(優越者=成功者から庶民へ、首都から地方へ)の方向」を逆転させる可能性に繋がる。下から上へ、つまり「個人的人生動機からFictionを侵犯していく方向へ」と模倣の方向が変われば、別の形でのFiction3が立ち上がる可能性もあるのではないか。

今後、模倣の内容はモノやスタイル主導の「発明」から、気分や感じ「そのもの」へとシフトしていくのではないか。このことを、これまでの論旨をまとめる形で次回述べていきたい。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/