コロナがやっと収まったように思いきや、ここのところ世界が揺れ動いている。元首相が撃たれたり、政治と宗教の問題が前面化したり、戦争が新たな局面に入ったり、朝起きると連日ミサイルの話題だったり(2022年10月執筆時点)。そして世界的なインフレと円高。ニュースが騒げば騒ぐほど皆の不安は高まるけれど、マジメに考えれば考えるほど、自分たちは無力で特に何もできないことがわかり、憂鬱にもなる。
そんな時こそ「現実と距離を置く気分」も大切になる。クリエイティブの出番といってもいい。
筆者のここのところのお気に入りはYouTube上のセンス溢れるMAD動画だ。中には下手なニュース解説より正鵠を得ている?と思えるほど、秀逸な時事モノもある。その昔、為政者の横には笑いを供する道化師がいたものだが、現代ではネットによって、私たち一般人の側にこうした道化コンテンツを届けることができる。こうしたコンテンツを通じて、マジメで不安な現実との距離感がゲットでき、ゲラゲラ笑い飛ばすことで、私たちにはメンタルな余裕も生まれる。
(妄想アフレコ) Mr.GTA5 MODさんのYouTubeチャンネルより引用
古今東西、人間たちは現実が危機やピンチになれば必ず、その状況をねじ曲げたり笑い飛ばす「遊びの力」を発揮させてきたのだろう。上述のとおり、笑い飛ばすことは「状況から距離をとる」ことだ。そうすることで、イマイマの心折れかねない気分を切り替えることだってできる。
状況から距離をとる、というのは「状況に飲まれている自分」から距離をとることにもつながる。心理学者のヴィクトール・フランクルはこれを「自己距離化」と呼んでいる。ナチス支配下での極限状況を生きた彼は、その状況であえて自分と距離を取る=自分をメタ認知するための良い手法として、ユーモア=笑い飛ばすことを重視した。
「諧謔・あそび」の範疇
さて、笑い飛ばすためには方法が要る。
突飛なものとの類似。ふざけた物まね。ミスマッチなモノやヒトへの置換(代入)。やりすぎや誇張。バカバカしい反復や列挙。あり得ない比較や対比。常識から外れたナンセンスさ。そのほかにも様々な技、方法があり、それにより状況やメンタルが異化され笑いが生まれる。
これらの技や方法(の混ぜ合わせ)によって醸される「笑える」気分のタイプ、それが今回扱う意味体験「諧謔・あそび」である。そしてその機能の特徴は「逸脱」にある。「諧謔・あそび」というと、主にコトバの領域でアリストテレスの昔から多くの研究や類別がなされてきている、レトリック=修辞学が連想されるかもしれない。
古代では主に弁論における、聴衆への説得力を上げる方法として研究され、さらには幅広く詩や文学などの表現一般、さらに日常での気の利いた表現としても用いられてきたものだ。当然ながら、修辞学(=技法の学問としてのレトリック)が含む射程は、笑いのみならず様々な意味体験へ波及する。代表的なものには省略、反復、脚韻、喩え(隠喩・換喩・提喩)や誇張、列挙、対比、反語などがある。
本稿ではレトリックによる効果の中でも、限定的に「笑いを伴う読後感を惹起する」ものを「諧謔・あそび」の意味体験タイプと捉えていくことにする。遊び心と方法論によって「ナンセンスな・滑稽な」逸脱した有様が醸されるようなものだ。「ただの言葉(映像)遊びじゃん」「バカバカしい(笑)」「くだらねー(笑)」といった類いの意味体験、これらはそこから生まれる多種多様な笑い、を着地先とする。この「笑いが誘発される意味体験」であることが重要、というのが本稿のスタンスだ。
「諧謔・あそび」の意味体験で生まれる私たちの笑いには当然、様々なタイプがある。クスクス笑い。爆笑。ニヤケ笑い。嘲笑。呆れ笑い。ニヒルな笑い。その他まだまだあるだろう。つまり「諧謔・あそび」と言っても、その中には数多くの細かい意味体験の差異があり、それに対応した様々な笑いがあって、さらに「これまでと微妙に違う笑い」が今後も生み出されていく。そう考えると、私たちにはこうした細かい意味体験をすべて笑い分けできる能力があるのだな、と思い知らされる。
前回の「挑戦・破壊」においては、その特徴として「現実を変えようとする意志」が際立つと述べた。「諧謔・あそび」も「リフレーム・異化」に属するタイプなので「挑戦・破壊」と近いタイプだが、こちらには大仰に現実を変えようという意志はギラつかない。「割とマジ」で「仮想敵への悪意がある」ものも多い「挑戦・破壊」に対し、「諧謔・あそび」は基本的に不真面目でユルい。だから観る側が暗黙裡に「上から目線で」笑い飛ばすことができる。
「諧謔・あそび」の気分をもたらす方法論については、すでにVol.11「リフレーム・異化」で触れた内容と重なるところが多い。下図表現からもわかる通り、基本的には「リフレーム・異化」に属する「笑いとばし担当」のタイプ、と捉えていただいて問題ない。
右側の「リフレーム・異化」タイプ内に属する「諧謔・あそび」タイプの位置
同時に「諧謔・あそび」は、親愛的なタイプ「かわいい・ほのぼの・癒される」(上図左下の赤枠部)ような意味体験タイプとも違う。
親愛的なタイプの意味体験は、今後触れる「嗜嬉=しき」というタイプになる。そこでの笑いは共感的な温かみが基調にあり、多くは他者愛に満ちたものになる。いわゆるニコニコ・ニッコリ・ほのぼの系である。対して先に挙げたような「諧謔・あそび」タイプでの笑いは基本的に異化的であるため、親愛的・包摂的とは言い難い(時には入り混じるが、一旦ここは分けておくことにする)。
「諧謔・あそび」は類例含め、方法的にも多く、コンテンツ量も膨大なゾーンである。今回は方法論の初回として「類似」(その中でも特に「模倣」と「見立て」)を扱い、次回に他の方法論(誇張・対比・ナンセンスなど)を扱いたい。
言語の世界で一般的に用いられる修辞分類を意識しつつも、あくまで映像表現において「諧謔・あそび」タイプに頻出する方法、つまり「笑わせる」やり口を分類していこうと思う。言語以外の、映像その他分野における修辞的な分類は、あるようでなかなか存在していない。なお前提として、各方法は実際にはお互い混じりあって使われるのが常である。
類似(模倣)―「似せ変え」としての模倣=パロディ
「諧謔・あそび」の意味体験・気分をもたらす上で、その中心的な方法に「模倣(まね)」がある。フランスの哲学者ロジェ・カイヨワは、遊びを四つの類型(「アゴン=競争」・「アレア=賭け」・「ミミクリー」・「イリンクス=眩暈・スリル」)に分けたが、ここでの「ミミクリー」というのが模倣に該当する。幼少期のままごとなど、最も早い段階から慣れ親しむ遊びのカテゴリーが、この模倣だろう。
模倣には様々なレベルがあるが、「模写」「パロディ(流用・代入)」「擬き=もどき(擬装・盗用)」に分類して述べていく。
「模写」はオーソドックスに「似せる」ことである。写生や歌マネもそうだし、雪で東京タワーを作る、猟師が鳥の声を真似る、ラッパーのダンスを真似る、師匠の技を真似る、などなどある。ただこれだけでは感心されるだけで、笑いには繋がりにくい。
だから多くのものは「似せる」ことに加えて、何らかの面白さを加えることになる。それがパロディだ。そこには概ね元ネタ(モノコトヒト)があり、これらを概ね「笑わせるために変形」することになる。つまり「似せ変え」である。似顔絵など一見模写っぽいものも、多くの場合は「似せ変え」=パロディとして受容されている。
パロディの類例は広い。政治家や有名人のモノマネ芸、番組やCMのパロディ。みなさんの中にもそれぞれマイベスト、のパロディがあるに違いない。画であれば、パロディはモナリザの独り勝ちに思える(体感的には、二番手はムンクに思える)。
(The Scream – ShortAnimation Movie from Safeframe)
パロディには「流用」と「代入」が混じりあう。上記を例にすれば、ムンクの「叫び」はその多くが原作のトーン&例の表情を使うorそれに似せる「流用」なのに対し、モナリザの場合は多くが顔の部分をすげ替える「代用」だ。この視点からそれぞれ見ていくことにする。
パロディ(流用)
流用にはパロディのほかにもカバーやオマージュなど様々な方法がある。その中にあって「パロディ」での流用は、ほとんどが笑いに着地する。このほかリミックスやハックもあるが、これらは流用というより転用とか剽窃、のほうがしっくりくる。
「似せ変え」て笑いに繋げるには、観る人が元ネタの人物やコンテンツ、文脈をある程度分かっていることが前提になる。何を茶化したり揶揄しているのかが一目瞭然な方が伝わりやすいからだ。
パロディの対象属性についても少々補足しておく。例えば冷酷で独裁的な権力者、地位のある者、有名人、巨匠など…抽象的にいえば、コワいもの、異質なもの、大きいもの…はそれだけでパロディの対象になりやすい。身内ネタであれば、学校では先生、会社では上司が対象になりやすいだろう。
このように、支配的な力をもつモノコトヒトへの批判的文脈の面をもつと「挑戦・破壊」の意味体験に近いニュアンス(=痛快な気分)も少なからず出てくる(とはいえ、まあ大部分は単に下らない、バカバカしさに着地していく)。
当然のことながら、パロディは人間だけが対象ではない。世相・時事や、富裕層のライフスタイルもその対象になる。有力なコンテンツ、すなわち著名アーティストの曲や名作アニメ・ドラマ、あるいはニュースなども然りで、いわゆる二次創作がそれにあたる。ただしやりすぎると「リスペクトのない、元ネタの侮辱」ととられ、期せずして「挑戦・破壊」に近い意味体験に転化する可能性がある。ほどよく換骨奪胎するというのは、実はなかなか大変なことだ。
パクリは「擬き・盗み」
通常「似せ変え」は、元ネタがコレです、ということを陰に陽にわからせる。そうでないと笑えないからだ。言うなれば、元ネタに従属する存在として、暗黙的にではあるが、自らを下に置き自己卑下するような態度がそこにはある、と言えるだろう。
もっと言えば、自分はフィクショナル(虚構的)であり「正しくない」存在である、という言外の立場表明があるともいえるだろう。こうした暗黙的な表明と了解があるからこそ、視聴者や読者との共犯的関係が成立する。ちなみにこれは多くの「諧謔・あそび」タイプのCM(パロディに限らず)にも見られ、始まると同時に「ウソくささ=正しくない感じ」が伝わり、すでに視聴者側も共犯になっている、ということが多い。
さて一方で「元ネタを明らかにせず、自分こそが元ネタだ」と擬装するものは、いわゆる「パクリ」つまり盗用になる。上述したような、暗黙的に自らを従属的に貶め「正しくない」表明をしている形跡が、そこには存在しない。ニセもの、紛いもの、盗作、パクリである。
※本稿では触れないが、制作現場的には「一体どこまでがセーフでどこからがパクリとされるのか」を考え出すと、まったくもってキリがないのも確かだ(構成から撮影ライティング方法、編集のエフェクトやリズムまで、掘ればいくらでも掘れてしまう)。
パロディ(代入)
一方で代入について触れておきたい。基本的には、元ネタから人だけ変更する・音だけ変更する・舞台だけ変更するといったことで面白味を創造するものだ。入替による改変、の方が意味的には正確かもしれない(単にコトバのキレがなくなるので筆者的には代入、というコトバを使っている)。
アテレコ(映像はそのままでセリフを変える)やモナリザなどの顔ハメはその典型で、これらはMAD系の動画でもよく見る方法だ。
(ニュースのMAD)
(日常音の入れ替え)
映像の場合、画をそのままに音を入れ替える場合がほとんどである。流用との違いは、「似せる」という努力がほぼ放棄されているところである。そのかわりに、代入による意味転換をどこまで面白くやり切るか、すなわち創作加工の努力に専ら心血が注がれる。似せていないのに、画の元ネタがそのまま残されるため、結果見た目には「似せ変え」に見えるのだ。
単に代入しただけで面白いオーソドックスなものもあるが、多くの場合代入する側の加工センス(シナリオセンス)が秀でたものが目立つ。冒頭のプーチン大統領の動画などがまさにそうである。また、コンテンツだけでなく、身の回りのリアルな日常風景や常識的会話なども代入の対象にできる。身近なものを入れ替える、ということだ(ただし、笑いに繋げるためのハードルも高い)。
基本的には上述のとおり、映像をベースとして音声を吹き替える(代入する)ものが圧倒的に多いが、逆に音声をそのままに映像を入れ替えることもできる。さらに、代入した加工済の世界観の方をむしろストーリー本線にし、パラレルワールド化する、ということもできるだろう(アテレコされたコンテンツの方が、徐々にリアリティで勝るようになるイメージ)。
類似(見立て)―発見的な意味変化としての見立て
実は「見立て」については、「リフレーム・異化」タイプの意味体験の回(Vol.11)ですでに触れている。そこでは「メタファーによる共通性の創出(により、意味や概念の変形につなげること)」と述べてある。Vol.11では、意味的な異化を中心に述べたため、「見立て」の説明もいわば「メタファーにおける類似」という次元に寄っていた。
今回の「諧謔・あそび」タイプでの「見立て」は、よりシンプルな笑いに繋がるものだ。すなわち「見た目、語感での類似」の次元で、それゆえライトな意味変化のものがほとんどだ。深い意味のない、表面上の類似なので、思考せずとも全員わかる。本稿では本来の「見立て」の定義を拡大し「爺さんの頭がボールに見える」レベルのもの、錯覚やダジャレも含めている。
こうして拡張した「見立て」のエリアにおいて、笑いに繋がる代表といえば「見間違い・聞き間違い」だ。ご存じ「空耳アワー」がまさにそうであるように、見た目や語感が、他のものに見えたり聞こえたりするものだ。
「見立て」がパロディと違う点は、対象に「似せ」るのではなく、「似たものを発見して」意味を変容させる、というところだ。「意外な類似の発見」こそが笑いのポイントになる。
こうなると、パロディ(流用)には存在した「似せる」=扮装する、というプロセスはもはや必要ない。パロディ(代入)にあった「加工」への熱量はあってもいいが、何よりとにかくも「意外な類似の発見」のほうに熱量が注がれる。基本的には、この発見それ自体が面白いのだ。
ダジャレや面白い韻律など、発見以上に「意味変化させてやる!」という意志が先行するものもある。確信犯的「言い間違い」のようなことだ。しかしそこにもやはり「類似の発見」はちゃんとある。ゆえにこれらは「見立て」のファミリーに分類できる。
また「文字の欠けたネオンサインで別の意味を示しちゃってる」ものや「文章の一部をクローズアップすると妙な意味にかわる」ものなどもある。これらは「類似の発見」とは言い難いけれど、それでも「面白い発見」ではある。見方を変えると「部分」が「全体」を意味変換する、という意味では見立てっぽい。ゆえにこれらも「見立て」のファミリーに分類できるだろう。
まとめ
今回は模倣における「パロディ(流用と代入)」そして「見立て」を見てきた。これら方法論の根底にある要素…料理でいえば、焼き物か煮物か、に当たるの部分…は「類似性」である。
なんらかの元ネタ(モノコトヒト)があるとすると、模写は「純粋にそれを真似る、それに似せる」、ことであり、パロディは「元ネタ」を似せ変え、別のものに変形する(装って、面白く変形する)。見立ては「元ネタ」と「別の何か」の間に類似を発見して、意味を変える。(別の面を発見して、面白く変形する)ということになる。
Vol.11で述べたように「リフレーム・異化」の眼目こそ「変形」だった。「リフレーム・異化」に属する「諧謔・あそび」の眼目は「変形による笑い」にある。それは現実や状況を変形してそこから距離をとり、笑い飛ばすことにもつながる。それは「状況に飲まれている自分」から距離をとることにもつながる。
もはやリミックスか反復かパロディか、混然としつつもすさまじいクオリティの、音楽+映像による二次創作の名作でいったん本稿を締めよう。「状況に飲まれている自分」から距離をとる以前に、「名付けようのない別の洪水に飲まれていく感じ」すらする、すごい「諧謔・あそび」となっている。