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前回まで3回にわたり、レバレッジの意味体験についてみてきた。

「客観・覚醒」の意味体験に引き続き、この「レバレッジ」の意味体験においても、私たちの生きる世界システム=Fictionの区切りをゲージに置いた上で、そこからの考察を試みた。

意味体験のあらましと今後を見据えつつ、さらにコアな領域へ、と差し掛かるところではあるのだが、長らく続けた本連載は残念ながら、今回が最終回となる。これが前稿で「おお、なんてこった…」と記した2つ目の理由である。

思えば連載についての打合せがあったのは、まだコロナ前の冬だった。以来丸3年半の間、世の中は長いコロナ禍に苛まれ、そこにテクノロジーの進展も相まって、人々の生活や意識は大きく変動した。私事ではあるが、独立し新たなキャリアを始めた筆者にとっても、今までにない変化の時期となった。

連載内容は手探りの連続だった。様々な方々の叱咤やご支援、また度重なる修正依頼にも迅速に対応いただいた編集部の皆様のご尽力によって、そして何よりお付き合いいただいた読者の皆様のお蔭で、ここまで続けることができた。厚く御礼申し上げたい。

そんなわけで、28回の本連載を俯瞰し振り返りつつ、最終稿に代えたいと思う。

表現と気分のあいだにあるもの

「映像表現と気分のあいだ」にあるもの。それが「意味体験」である。本連載は一貫してこの「意味体験」というものにフォーカスしてきた。映像が流れ、それを私たちが見る、その関係の中で生起する「感じ」や「ぽさ」。これが意味体験だ。非言語的、かつ質的なもので、そこにはいくつかの代表的なタイプがあって、表現者も受容者もその「感じ」を無意識ながら共有している。

さらに範囲を広げるなら、意味体験は映像表現にとどまらず、「すべての情報・環境(モノ・コト・ヒト・環境)」と気分のあいだへ、その適用範囲を拡張できてしまう。そして多くの場合、社会全体でその「感じ」は無意識ながら共有されている。

ではその「あいだ」である、「ぽさ」「感じ」すなわち意味体験にはどんなタイプがあるのか?解像度を上げればキリがないが、ある程度分類できたので述べていく、これが本連載の大きな建付けだった。

本連載のまとめ

連載は、大きく4つのフェーズで書き進めてきた。以下、各フェーズでの内容をざっと振り返っておくことにする。

Vol.01~Vol.06(第1フェーズ)

ここでは「意味体験」とは何なのか、その紐解きに専ら重点を置いた。「ぽさ」「感じ」というワードを手掛かりに、意味体験にどんなタイプがあり、どんなタイプが時代の潮流をリードしてきたのか、これらをテレビCMの実例やその時代変遷を追いながら紐解いた。また意味体験領域の研究史を概観し、現象学や記号論などについても触れた。

本連載Vol.01より)映像表現と気分のあいだ、の図解(赤文字部分加筆)
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(本連載Vol.01より)「頑張ってる感」
「ぽさ」は、「自分独自のメタファー観」を育む素地になる

Vol.07~Vol.10(第2フェーズ)

ここでは、「意味体験」をもたらすものとして重要な「メディア」について取り上げた。実はメディアは、コンテンツ以上に意味体験に影響を及ぼすもの、という前提で、主にマクルーハンのメディア論について述べ、さらに、スクリーンからスマホへのデバイス変化とその影響についても捉えてみた。

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本連載Vol.09 )「メディア」について考える(その3)より
(薄い矢印)自分の「感じ」「ぽさ」を編集、咀嚼、記憶化するイメージ
(手書き矢印)咀嚼しないままに情報をそのまま外部化するイメージ

Vol.11~Vol.17(第3フェーズ)

ここでは、「意味体験」の各タイプについて、まず3つの基本タイプについて詳述した。それが「リフレーム・異化」「帰属・回帰」「描望」という3タイプである。

CMの映像表現例を用いつつ、3つの基本タイプのもたらす「感じ」「ぽさ」についてそれぞれ説明した。さらに各タイプの中にある、バリエーション豊かな内部カテゴリを分類し、それら相互の違いについても踏み込んで述べた。

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本連載Vol.13)「帰属・回帰」タイプにおける内部カテゴリの分類・位置関係
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本連載Vol.15)描望における各々の気分カテゴリ=観念の位置

Vol.18~Vol.27(第4フェーズ)

ここでは、個々の意味体験タイプとして「挑戦・破壊」「諧謔・あそび」「尊崇・達観」「客観・覚醒」「レバレッジ」について述べてきた。

これらは第3フェーズで取り上げた「リフレーム・異化」「帰属・回帰」「描望」のどれかに大きくは含まれつつ(あるいは一部それらを横断しつつ)、それぞれが独立しうる強度をもつタイプのため、各々について深掘り、考察した。

特に「客観・覚醒」「レバレッジ」(Vol.24~27)タイプの考察では、意味体験が依拠する世界のシステム条件を「フィクション」と捉える視座を用い、時代の変遷やそこでの私たちの人生動機との関係についても考察を行った。

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本連載Vol.22)「尊崇・達観」では崇高さについて考察した 人工物による「崇高さ」
©Jeddah Economic Company

いろいろなタイプを検証してきたが、特に各々の「内部カテゴリの分類」については力点を置いた。分類方法は一定ではない。例えば「帰属・回帰」「描望」や「客観覚醒」「レバレッジ」については、何らかの観念ワードを頼りにしてその内部カテゴリを分類した。これに対して「リフレーム・異化」や「諧謔・あそび」は、より方法的・関係図解的な切り口で内部カテゴリを分類している。

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本連載Vol.13)「帰属・回帰」タイプの内部カテゴリ分類
※画像をクリックして拡大
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本連載Vol.12)「リフレーム・異化」の内部カテゴリ分類軸
※画像をクリックして拡大
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本連載Vol.20)「諧謔・あそび」の内部カテゴリ分類軸―表現と笑いの関係
※画像をクリックして拡大

「リフレーム・異化」や「諧謔・あそび」の内部カテゴリに、観念のコトバを置きにくいことには理由がある。それはこれらが、ある種イマジナリーで現実に立脚していない、不確定かつ創造的な対象と向かい合うときの、私たちの「感じ」だからだ。すなわち、驚きや違和感、逸脱感の種類を峻別するような、はっきりとワード化された観念はまだ多くない。勢い、位置関係や方法特性などで分類せざるを得ないことになっている。

これに対して、「帰属・回帰」「描望」や「客観覚醒」「レバレッジ」などの「感じ」は、私たちの日常に「しっかり根ざした」役割をもっている場合が多いので、「あ~コノカンジね」、とわかった場合に何かの「コトバ」を紐づけようと探せば、なんとか観念ワードが見つかる場合が多い。これは社会全体でその「感じ」が共有されていて、言語化されているからだろう。

また、連載にあたっては多くの場合、各意味体験の説明に繋げて、その意味体験が今後どうなるか?という問題意識に沿って仮説立てを行った。

仮説の解像度は正直まちまちだったかと思うが、たとえば「描望」なら「遠いもの、時間的に長いもの」、「レバレッジ」なら「コスパ効率化に向かうシステム最適化」、「帰属・回帰」なら次のノスタルジー・包摂イメージが「企業共同体がワークしていたあの時」へ向かう、などある程度の方向出しを試みることができた。

一方で、「帰属・回帰」なら「上書きできない根源的なモチーフ」とか、「諧謔・あそび」なら「狂気」など、その意味体験タイプがも還るつ本質、その淵源に立ち返るような考察も行った。その意味では様々な「感じ」「ぽさ」の(「今後」のみならず)、来し方行く先、を巡る考察もしていたように思う。

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本連載Vol.14)イメージ操作無用の「帰属・回帰」感をもたらすモチーフ
(写真出典元:熊平の梅さんHP

さてここからは、本稿を通じて何度か繰り返し述べたり、力点を置いたテーマについて最後にまとめておこう。

メタ認知する

本連載で考察済みの意味体験タイプは、以下の図で赤線のついたものになる。こうして見ると、帰属回帰タイプに属する一部カテゴリや、一番下のBASIC NEEDSの領域には、紹介し残したものがややある。それでも、重要な部分はざっくりとカバーできたと思う。

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図1:本連載Vol.11~27で内容詳述した意味体験タイプ(赤下線のもの)©旋律デザイン研究所

さて、意味体験のタイプを分けた上の図とは、いったい何なのだろう。

言い過ぎを恐れずいえば「今までの映像表現がやってきたこと」、とりわけテレビCMでやってきたこと、である。正確には、それらが人々にもたらしてきた「感じ」、そのざっくりした一覧だ。

※もっともこの図は大分簡略している図で、実際にはもっともっと目は細かい。ただわかりやすいレベルを意識するとこの程度の粒度の図になる。

テレビCMのみならず、多くの映像表現-特に商業ベースでの表現-は、いろいろな意味体験をもたらしてきた。憧れ、面白さ、斬新さ、カッコよさ、静謐感、愛らしさ、自由解放感、などなど。

そう考えれば、上図は「私たちのもつ欲望」(動物的な欲望は除く)の大まかなゾーニングマップ、あるいは欲望のボタン群だと言っても、あながち間違いではないだろう。

この図には実に、あらかた何でも収納できてしまう。CMや映像表現はもとより、周囲の様々なモノコトヒト空間についても、その「ぽさ」「感じ」を問題なく収納できる、ということをVol.05にて触れた。

そうしていくと気づくことがある。私たちが欲しいのは、実はモノコトヒト空間そのものではなく、その「感じ」「ぽさ」であって、それがもたらす「気分」だ、このことがナマナマしくわかってくるのだ。つまり、私たちは多くの場合(もちろんすべてとは言わないが)様々な気分を得たいからカネを払っているのだ

さて、本連載ではこの図への収納によってテレビCM例をさんざん腑分けしてきたが、慣れてくれば日常生活の中でも、無意識に表現を腑分けする感覚ができる。その結果、おのずと表現の引き出しがきちんとでき、なんとなしにも常に「感じ」「ぽさ」を分類しつつ意識する習慣へと繋がっていく。

普段無意識に受容している「感じ」「ぽさ」にも鋭敏になる。電車に乗ってぼーっと中吊り広告を見ているような時にも「レバレッジで煽ってるなあ」とか「自由解放感を振りまいてるなあ」といった具合に、その意味体験=「感じ」を手立てに、どの引き出しのものかを無意識ながら照合整理するようになる。

それはより広く、モノやサービス、街や空間に対しても応用でき、およそ生活の中で接触してくる情報全体をカバーできる。自分に入力されてくる表現や情報が、そもそも大きくは「何なのか」「何を言っているのか」「何をしている」のか。上の図で言うならそれはどんな「感じ」のタイプに収納され、結局どの欲望のボタンを押そうとしているのか、そんなことが概ねわかる。言うなれば、一種のメタ認知ができるということだ。そして大事なのは、こんな図で可視化するまでもなく、実は私たちはみな無意識に、これを日々行っているのだろう、ということだ。

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本連載Vol.05より)意味体験への紐づけ・連想のモデル図(一部改訂)
「感じ」が似ているものは同じ引き出しに収納される

規範から逸脱する

メタ認知によって体感的に気づくのが、あるテーマやモノコトの「感じ」は結構固定化/一定化、つまり「規範化」していないか?ということだ。ブライダルってだいたいこういう「感じ」だよね、とかベビー用品の語り口ってほとんどこの「感じ」だよね、このYouTube番組はだいたいこの「感じ」、などなど。上図に収納される意味体験のタイプが、上図のココらへん、というのが、往々にして固定化されていたりする。

皆がだいたい、同じように感じるという共有的な主観=社会的主観というのは、この「感じの規範化」の帰結だ。このことについても、Vol.05(映像表現とモノ・コトを結ぶ「意味体験」)で述べた。

しかしやや冷徹に見れば、この社会共有的な「ぽさ」を半ば強制的に浸透させているのは社会・世界システム=「フィクション」であり、フィクションが用意する「皆が模倣したがること」を浸透させる役としてのメディア、さらにその表現役としての(テレビCMなど)映像表現だ、ということもできるだろう。これがVol.26(「レバレッジ」その2)で述べたことである。

そこでは、私たちの欲望や人生動機でさえ、そもそも誰かの模倣であることも述べた。その意味では、映像表現をより解き放つには、上図とは逆説的なのだが、「感じ」を「タイプ分けするだけ=引き出しにしまうだけ、に留めない」ことが重要だ。実際のところ、上図のようなモデルを起案したそもそもの動機もこの点にある。

つまり、上図のようなメタ認知を働かせると、表現としてまだ掘れるエリアの直観も実はしやすくなるのだ。「この感じ」と「この感じ」の間にはなにか掘れるな、とか「この感じ」と「この感じ」を重ねあわせると面白い、などなど。収納しにくい、引き出しにうまく入りづらいやつ、を無意識に採集したり志向したりするようになる。

あるいは「帰属・回帰」の回(Vol.13)で言及したように、本来は帰属・回帰的なモチーフを別の「感じ」で表現するなど、「カテゴリ変え」も発想しやすくなる。こんな風に、規範的で無意識強制的な「感じ」から逸脱していくことこそが重要だ。Vol.17では、そのための「悦楽」という態度について述べた。イッパン的な「感じ」は早々に引き出しにしまいこんでいい。そしてむしろ、そこに潜在しているだろう、もっと微妙な「感じ」の領域を想像・捏造してみる。反・模倣である。

こうして、微妙なエリアを作ったり仕分けたり、カテゴリ―変えをしたりして、「自分なりに辿り着いた感じ」を深く追求していけば、表現の独自性も育っていく。一方そこで、その「新しい感じ」にキャッチーな命名がされると、新しいマーケット(カワイイ、とかマイルドヤンキーとか、狭義でいえば背徳グルメ、など)が爆誕する、ということもある。

こうしたことが、当然製品やコンテンツ、あらゆるモノコトヒト空間、さらにいえば「私たちの生活時間そのもの」のリフレームにも繋がっていく。

このように、メタ認知によっていろいろな表現、あるいは周囲の環境がもたらす「感じ」を「タイプ分けするだけ=引き出しにしまうだけ、に留めず、「リフレーム・異化」的に別様へとずらす、飛ばす、ということが最も重要になる。慣れ親しんだ「感じ」に固執せず&留まらず、「感じ」自体を変えたり、「感じ」の構成要素を置き換えたりする。このことは「リフレーム・異化」の根本的所業(Vol.11)であり、映像表現のためにも、ひいては自分の人生動機へと覚醒する上でも、最も重要な態度だろう。

モチーフは入れ替わる

メタ認知の効能はまだある。逸脱や悦楽、という上記方向とは逆、どちらかというと「規範的な感じ」、「社会的主観」の流れを見てみる方向だ。少しマーケティングや社会学っぽい視点かもしれない。

先ほどの図でいえば、各々の「感じ」のタイプ(=引き出し)は同じであっても、時代によってその引き出しに入るものが変わってくる。例えば「レバレッジ」タイプに紐づくのが20世紀ならロックバンド、21世紀初頭はスタートアップ、というアレだ。同じ「感じ」を得るためのモチーフは、時代ごとに変動する。これもVol.05 (「意味体験タイプと紐づくモノコトの変動」)で述べた内容だった。

上の「本連載のまとめ」で述べた、「各意味体験タイプの今後考察」とも当然、大いに関わる部分だ。「帰属・回帰」タイプは今後、モチーフが「オフィスで皆で働いている光景」になるかもしれないし、「レバレッジ」タイプの今後のモチーフは「消費による誇示」から「スコア数値の誇示」に移るかもしれない。客観覚醒の今後モチーフも「イマの正しい意識」とは大きく変わるだろう。

Vol.24~27まで展開した「フィクション」で見立てる、というやり方も当然、このように「感じ」のこれまで・これから、を考える際には有効な視座だ。特に前稿(Vol.27)で述べたように、フィクション=社会システムが変わる時には、このモチーフ(ライフスタイルも含む)はガラっと変わる。繰り返しになるが、「感じ」としては同じレバレッジ感でも、あるいは同じ帰属回帰感でも、そこを代表するモチーフやライフスタイルがすっかり変わってしまう。

そして、それがまさに今現在の状況だろう。先述した「マーケットを生む、作る」というレベルを超えた、大きい時流の移り目がきているだろうと察知できる。

各意味体験タイプで大きくモチーフやライフスタイルが変動・交代する。慣れ親しんだ周囲環境が一変したり、今まで君臨していたアイドルたちが失墜したり、社会共有的だった様々な「感じ」が位相を変え、そのモチーフも入れ替わっていく。魔法がみるみる溶けていく。だがその次のモチーフがまだ見えていない領域がたくさん残されている、そんな社会意識のありようを、上の図ではより細かく、意味体験タイプごとに整理俯瞰できる。

このように、フィクションの視座も加えると、次の世界への視界は多少よくなる。特定の「感じ」において今のモチーフを代替する、次の候補を見分ける上でも有用だ(次の反逆ってどういうもの?次のセンスエリートは?などなど)。逆に今まで通りのモチーフ使いを続けていると、「レバレッジ感」で表現していたつもりが、実際には「ひと昔前のノスタルジー感」として流通してしまった、なんてことが起こりえる。

以前のフィクションの流儀に甘んじた、「従来の」手癖やヤリクチには切り替えが要請されるのは当然で、もっといえば表現者自体がフィクションの変移を俯瞰認識し、変化に先手をうつことこそ大切になる。このあたりについては特にVol.25~Vol.27で力点を置いてきた。最後にまた述べよう。

「感じ」の生成モデル

本連載ではたびたび、映像表現の源をなす私たちの生活環境、世界条件についても触れてきた。特に、AIや環境のスマート化、スマホなどのトピックを何度も述べてきた。自然言語によるアルゴリズムでは、まだ細かいニュアンスを汲んだインタラクションや会話は相当難しい、という見通しについても何度か述べている。

意味体験=「感じ」「ぽさ」は、人工知能に組み込みにくい領域としていまだに残っている。それは今年世界を賑わしているChatGPTなどのLLM(大規模言語モデル)においても同様だ。こうした自然言語処理由来のモデルは、「単語の辞書的意味」や「単語の出現頻度や、その配列の統計計算」に根ざしている。

一方で「感じ」「ぽさ」は先述のとおり、本来的には言語以前のものといえる。便宜的に「帰属・回帰」「レバレッジ」などのタイプ名=言語で括ってはいるものの、その内実はあくまで「感じ」「ぽさ」であり印象、である。端的にいえば、LLMにしろStable Diffusionにしろ、自然言語処理に立脚した生成モデル=アルゴリズムは、こうした「感じ」「ぽさ」に根ざしていないのだ。実は筆者もtext to imageアプリケーションをかなり利用しているが、入力された「感じ」「ぽさ」にまつわる指令に対しては、当然ながらほぼ無力、という印象だ。

本連載のVol.01で、「ぽさ」「感じ」から想起するノン・ジャンルの例を引いた。このように、ある意味の「メタファー」としての意味性、それを横ぐしで通せるのが「感じ」「ぽさ」である。それは辞書的な意味性とは違うのだ。このあたりについてはVol.10で集中的に述べた。

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本連載Vol.01より)「昭和っぽさ」の例

そして、私たちに「意味」や「気分」をもたらす源泉・パワーは、こうした「感じ」「ぽさ」の集積や、その配列(この感じの次には、この感じがほしい、など)の方にこそある。生成AI系のアートが「いまいちグっと来ない」「泣けない」と言われるのも、私たちの気分とのメンタルな関係性を取り結ぶための「感じ」をアルゴリズム側が体得できていないからだ。単語の辞書的意味性による組合せでは「知能処理」できないものだから、なのだ。

しかし一方で、全く逆のことを考えてみる。

私たちが、こうした自然言語処理モデルに「合わせる」生き方や感じ方を全うしていく、としたらどうだろう。もちろん、私たちの意思でそうするのではない。私たちが「自然にそう誘導されていく」のだとしたら、ということだ。自身を計量化し、数値化し、シンプルな言語表現で示し、処理されやすくしていく、そんな生き方を自然に選ぶということだ。

上述した通り、意味体験=「ぽさ」「感じ」は、社会的主観=常識的な感じ方、が定まってくると次第に規格化・固定化していく。カワイイものはこういうもの、ホッコリするのはこういうもの、ワクワクするのはこういうもの、そんな定番モチーフにより、「感じ」が共有的に固定化し、それによって着地する「気分」も決まり、その個人個人によるブレ幅もどんどん消えていく。

それがさらに一層進むとする。「感じ」自体の「規範化」、社会共有的な「気分」のブレ幅が消失、その先に、気分を示す言語がごくごく単純化されてしまえば、パターンや処理はかなり容易になる。

システム側から見れば、こうなる。みなが「同じような感じ」に知覚するように、情報環境がどんどん「感じ」のタイプをシンプル化して誘導し、同時に平準化・規範化された「感じ」「気分」をどんどん再生産・流通させていく。

そんな世界では、例えば「名店の微妙な味つけ」はいらない。そんなものはコスパが悪いし、効率も悪い。例えばローカルで多様性のあるものも要らない。すべてチェーン店にし、同質化、平準化した方が「感じ」も統一され、管理しやすい。結果、ほとんどの人が、だいたい同じようなリソースやサービス、味覚や肌ざわりで生活する。こうして一元管理された「感じ」によって、私たちの「気分」も今よりシンプルなタイプ数に縮減し、「気分」を表す単語も劇的に減り、すべてが管理されていく。

これは懸念の域を越えている実感がある。たとえば映像表現だってそもそも「規範的な感じ」をもたらす表現の再生産だらけになっていないだろうか。先日とあるデザイナーと話していた際に、「自分の作るものが、昔に比べて幅がなくなってきているような気がする」とこぼしていたのが印象的だった(彼は映像ではなくグラフィックだが)。

仕事で採用されやすい「無難なデザイン」が再生産されていけば、あっと言う間にクリエイティブプラットフォームのテンプレになり、自動生成のスキームに組み込まれていく。これは、わかりやすいストーリー構成やソレっぽい映像テイスト、などすべてにあてはまっていくだろう。

これらはみな、Vol.27で述べたFiction2 newへの最適化の文脈で起こることだ。つまり、自然言語処理モデルをはじめとする効率的なモデルやシステムに「合わせる」生き方を、そうとは知らぬ間にどんどん受容していく、ということだ。

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本連載Vol.27より)「フィクション→発明者→メディア→人生動機」の関係図 矢印は模倣の方向
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こうなれば、「気分や感じをAIが作れるか」と問われれば、限りなくYESということになるだろう。規範的な気分をいくつか固定設定してしまえば、そのための「感じ」をもたらすレシピも過去例から抽出・固定し、再生産できる。Fiction2 newとはそんな、気分エンジニアリングっぽい世界なのかもしれないし、それは今まさに起こっていることそのものだろう。

Ficiton3の先取り

逆に、先述したような「悦楽」「逸脱」は、「気分」のタイプを縮減・固定化・管理するという上の話とは真逆で、拡張方向である。「悦楽」「逸脱」は、「感じ」を仕分けるメタ認知を経由しつつも、それを組み合わせたりずらしたり、異化して拡散する方向だからだ。

加えてそれは、自然言語処理による昨今の生成AIとも原理が異なる。上図のような、「感じ」「ぽさ」に根ざしたモデルから出発しているからだ。

※「感じ」「ぽさ」に根ざしたモデルは、モチーフが代替することからもわかるように、紐づく対応物を上書きし続けるので、辞書的意味のように不変・統一性をもたず、従って過去例からの学習が極めてやりにくい。これにはメタファーの理解や文脈の理解が原理的に不可欠である。

だからこそ、最後にひとことだけ述べておきたい。

人による映像表現や、あるいは表現全般は、ゆるやかに「悦楽」「逸脱」を繰り返しながら、テクノロジーの力も使い、まだ誰にも見えないFiction3を無意識に描いていくしかないだろう。過去のFiction(1や2)に戻る系の模倣の再生産、これは新しくない。昭和ノスタルジーだって「規範的な感じ」に過ぎないし、いずれ生成可能になる。だからといってFiction2 new(スマートAI系・コスパスキル系)に取り込まれるのも違う。

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本連載Vol.27より)中国の社会信用スコア「芝麻信用」のスコア 指標
Fiction2 newでは指標が絶対視されていき、レバレッジ感として「規範的なモチーフ」になるかもしれない

Fiction3とはいったいどういうもので、どのように成立するのだろうか。Vol.27前半ではこう書いている。「Fiction2 newからさらにドラスティックに移行した未来、という設定であり、まだ誰も見通せていないステージである。だから本来は、地球環境や世界の政治経済体制、あるいは凄いテクノロジーのブレークスルー(特に不死/人工生殖)、これらの変化で『条件』がガラリと一新されることがその必要条件になる」と。

そのくせ、Vol.27の最後にはこう書いた。

下から上へ、つまり「個人的人生動機からFictionを侵犯していく方向へ」と模倣の方向が変われば、別の形でのFiction3が立ち上がる可能性もあるのではないか。今後、模倣の内容はモノやスタイル主導の「発明」から、気分や感じ「そのもの」へとシフトしていくのではないか。(模倣の方向については、上図「フィクション→発明者→メディア→人生動機」の関係図参照)

Fiction3を、つまりスマート&AI化への最適化が命!というFiction2 newのさらに「次」、をさっさと捏造するなら、やはり最後に書いた通りで「下から上の方向」しかないだろう。それがスジ良い方向になるには、あくまで個人個人の独自の、逸脱した「ぽさ」「感じ」に立脚することだろう。

つまり社会の「感じ」の規範を一旦、密かに&いつの間にかバラバラにしてしまう。規範や管理を武装解除する。もはや革命はモノの破壊やデバイス刷新ではなく、「感じ」をとりまく管理の破壊、この方面で起こす以外不可能だ。ことに映像表現は現状を無視して、非言語的に勝手にFiction3な世界観を描けるのだから、まだ当分は有利な表現方法だろう。

代替モチーフが定まっていない領域での、次の「ぽさ」「感じ」のモチーフを先取りするのも、今後しばらくは好機だ。サブライムの次のモチーフ、キュン死の次のモチーフ、などはガラ空きな気もする。ただ間違ってもFiction2(従来の消費的イメージ)や2 new(スマートAI系・コスパスキル系)のモチーフに戻るべきではないだろう。

何より、根本的にも本質的にも、斬新な表現やモノコトを追求、体験したほうが創造的で面白い。筆者の口癖だが、いつまでも同じタイプの「ぽさ」で感動したり、泣いたりし続けたくない。そんなのただの「感じ」やストーリーの再消費だ。それは再生産を勢いづかせ、クリエイティビティは惰性になり、「感じ」の規範化だって進んでしまう。もっと全然別のことで、今までと違う味の涙を流してみたい。まずは「感動」のモチーフをずらして、別様にしてほしいと思う。

あるいは「アノミーによる超越への希求」「まだ見ぬ何か輝く夢っぽい自由への賭け感」(Vol.18Vol.27)をもった、新しい時間性。この「感じ」はいまや消え始めて久しい。そして次のモチーフも久しく出ていない。でも何らか新しい質感での時間性、それを先取りする表現もでてくるだろう(筆者の実際の仕事も、まさにここに関係している)。そこではコスパ・スキル追求的な人生動機なんか、とっくに遺棄されているだろう。でもそこには「遠いもの」への描望感はきっと、しっかりあるだろう。あと今の人間には全く理解できない謎の「感じ」も、あるといい。

とまあこのように、Fiction3はまだ全く決まっていない。だから先取りして描くに限る。それは過去データからの演算からは、まだまだ生成できないからだ。

ここまで本連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/