皆さんは最近、山に登ったことがあるだろうか。
筆者の知り合いには、山好きが何人かいて、折に触れ登山の深さや悦びを耳にしていた。そんな自分も偶然の流れで久しぶりに、軽いレベルながらこのところ何度か山に登っている。もっとも少年のころには、北アルプスの縦走を夏場のルーチンにしていた時期もあった。
山頂にいたるには、さまざまな試練や忍耐がいる。あるいは単調さや退屈さもある。当然、疲れも蓄積してくる。こうした暗中模索を何時間も繰り返し、やっと山の頂にたどり着く。すると壮大な連峰が見渡せたり、時には彼方に下界を見渡す素晴らしいパノラマが展開する。この報酬感はたまらないのだが、同時に恐ろしく大きな自然の中で、耐えがたく脆い自分の存在にも気づく。その感じがよく出ている素晴らしい動画を見つけたので、以下にご紹介しておく。
Mt.Hakuba~大雲海の北アルプスへ~ ©Sh1n「あの絶景を目指して」
多くの登山者が言うように、何日か山に入って街に降りてくると、そこで目にする下界での人々の営為や関心事が、なにか本当にちっぽけなものに思えたりする。この感覚は筆者にも覚えがある。もちろんそれは数日の間に雲散霧消するのだけれど、日常ではそうそう味わうことのない、妙な感覚だ。
上述のとおり、山に入れば、人は自分の存在のいかに小さいことか、ということを身体を通じて思い知る。自分より遥かにスケールが大きく、遥かに永い間そこにあり、森を林を、草を動物を、沢を岩を、すべてを包摂する大自然の塊、それが山だ。太古からそれは、人間の力を超えたものとして、また容易には近づけない場所として神聖視されてきた。かつて多くの人々は、世俗を捨て精神を高めるために、山へ入っていったものだ。
先ほどの妙な感覚というのは、山に浸った気分―超越的な時空間に入って達観した気分―が俗世界に再び戻るとき、否応なく起きてしまう感覚なのだろうと思う。
「尊崇・達観」の意味体験とその位置
「超越的な時空間に入って達観した気分」という枕をおいたところで、今回の意味体験「尊崇・達観」タイプについて以下、述べていく。下図に示す通り、大きく言えば帰属回帰ゾーンではあるが、その最上部にやや独立している、その理由は、帰属する対象のレベルが生活共同体より「大きい」からだ。
- 帰属回帰の本丸は共同体や郷土感など=少しだけ大きいスケール
- やや小さいコミュニティ=家族・仲間=同等スケール
- イヌネコ、小さいものへの親愛=小さいスケール・カワイイ
- これに対し「尊崇・達観」は「大きい・超越的に大きい」スケール(物理空間的にサイズが大きいもの、精神性として高いもの、時間・歴史が永いものなど)
例えば帰属回帰の本丸ゾーンが対象とするのは、郷土や共同体(Vol.14参照)であり、さらに狭めた帰属回帰対象には親族仲間や同僚、そして家庭などが続く(ここが概ね図2の(3)~(6)にあたる)。
もっと小さくなると、イヌネコやカワイイものなど、自分より小さいもの、すなわち(むしろ自分がそれらの帰属先となるような)「庇護」「愛玩」対象のモノコトヒト、へと段階づけられる。図2の(1)、(2)にあたる。
このように、大きさの異なる帰属対象としていろいろな「モノ・コト・ヒト・空間」があり、その大小によって、感じる意味体験=気分は違ってくる。
そして、今回取り上げる「尊崇・達観」の気分―上図の黄点線部―は、対象が私たちより遥かに大きく、超越しているもの、その圧倒的な存在を前にしては、謹んで仰ぎ見るほかない、そんな時に生じる意味体験となる(多少微妙なもの、境界的なものはあるが、原則的にこうしておく)。
ということで、「尊崇・達観」は帰属回帰の範疇におけるスーパーなタイプとも言える(図2の(7))。その気分をもたらす対象は、総じて、スケールが大きいものや、精神性として高いもの、時間・歴史が永いもの、である。三次元的にも四次元的にも私たちとは比較にならない「超越」したものとなる。
対象としてよく出てくるものは、宇宙や大自然(畏怖の対象)、神や仏(信仰の対象)、歴史や伝統・文化(敬意・達観の対象)だろう。さらに偉大な人物―王や聖人(尊敬の対象)などもこのカテゴリーに入りうる。
そしてその超越的なものは、その巨大さ、偉大さ、永さの、そのごく一部として私たちを包摂している。その包摂に気づく時、私たちは自分たちを至極小さいものと感じる。
「尊崇・達観」の「尊崇」という言葉はやや聞きなれないかも知れない。概ね「畏敬の念」に近いものと思って頂ければよい。「畏敬の念」とは、「自分とかけ離れた存在や圧倒的なもの」をおそれ敬う気持ちのことだ。同時に「達観」については、こうした超越性を前に、私たちはほんのひと粒程度の存在でしかない、と気づき悟る気分をベースにしている。
崇高との関係
「尊崇・達観」という気分をもたらす対象には、当然ながら「崇高」(サブライム)な感じを伴うものも多い。
「帰属・回帰」の意味体験を追った回(Vol.13)において、エドマンド・バークを引用しつつこの崇高(サブライム)について触れた。以下、そこから再度引用してみる。
本稿では軽く触れるにとどめるが、思い切り簡略すれば、崇高さとは自己保存を脅かすような「超越的で物理的/心理的にどデカい」恐怖の対象を前に発動されるものであり…(以下略)
そして以下のように続けている。
恐ろしい勝てないような敵(自己保存を脅かすもの)を前に、国民や共同体は「聖戦」や「特攻」を行ってきた。苦と危険の観念を持っていても実際にはそのような状況に置かれていないときにはそれは喜悦となり「崇高」につながるとバークは言う。つまり、「聖戦」や「特攻」の記憶やそういう映像を見る、私たちを超越する強さや大きさ(大自然など)歴史の長さ(遺跡や歴史建造物、宗教など)に触れる、といったときに崇高な「感じ」がもたらされる、ということだ。
重要なのはマーカーの部分で、これらによって感じる崇高さとは「実際にはそのような状況に置かれていない」とき、極言してしまえば「コンテンツとして見るとき」に感じるものなのだ、と言っているところで、これは非常に鋭い。つまり例えば戦争を「ストーリーやイメージとして遠目から見ていられる」ときに作動するもの、と考えられるのだ。
同時代人のカントも崇高さに言及しているが、ひとまずバークの説に拠るなら、崇高さは「超越的で物理的/心理的にどデカい」恐怖の対象から醸され、その実その対象から距離をもったときに発露する、ということになる。
一方で「尊崇・達観」の気分をもたらす対象には、恐怖や怖さとは縁遠いものもある。「尊崇・達観」のある主要な部分に崇高は関係しているものの、それが「尊崇・達観」のすべてではない、と言える。
このことを前提にしつつ先に述べた、
- スケールが大きいもの
- 精神性が高いもの
- 時間・歴史が永いもの
という分類軸で「尊崇・達観」の中における質性―ニュアンスの違い―を見ていくことにしよう。なお、崇高については次回、さらに深掘りしていくことにする。
スケールが大きいもの
物理的なスケールの大きさにおいて、私たちを超越するものといえば、大自然や宇宙ということになるだろう。
人を寄せ付けない、巨大なスケールの大自然、さらには地球、宇宙空間。目にすれば、思わず無意識に引き込まれてしまうような存在だ。これらは根源的に我々を包摂しており、私たちはその存在によって自らの小ささを痛感する。
しかしその包摂は、慈悲深さにつながるとは限らない。これらは、時に無慈悲で、私たちの手の届かない次元にいるようにも見える。それ故に本質的には身近ではない=遠いものだ。のみならず、例えば人間を遥かに凌駕するスケールの大自然は、根本的には怖いもので、私たちの生活や生命を脅かす。
急峻や峰々やすさまじい瀑布、といったものには、私たちを飲み込みかねない凄みが漂うし、津波・大地震・火山噴火・ハリケーン・洪水・雪崩などの現象は私たちに生命の危険と甚大な災害をもたらす。上述したバークのいう「自己保存を脅かすような超越的でデカイ」ものだ。こうした「スケールが大きいもの」に対して、私たちは先祖代々畏怖の念を抱き続けてきた。
映画「コヤニスカッティ」予告編(LeCinephobeより引用)
とはいえ、「スケールが大きいもの」は時に驚異的に美しさを見せる。一面の流氷、オーロラ、流れ星や満天の星空、何百年に一度の天体ショー。こうしたものに多くの人々は心を奪われ続けている。
そして何より、自然の恵みや天体の運動、太陽の照射や月の満ち欠け、潮の満ち引きがなければ、私たちは生きることができない。
こうした大自然、地球、宇宙は、私たちが暮らす都市など人工的な日常生活環境においては意識に上りにくく、一見遠い。
しかし、これらこそが私たちを根源的に覆い支配している。生命、共同体、産業、国家、文化、文明、これらすべてを「スケールの大きいもの」は支配している。支配とは私たちを帰属させる上での上位形態だ。先の図でいえば(1)から(6)はすべて「スケールの大きいもの」(7)に帰属している、とも言える。
同じ「スケールの大きいもの」でも、ここでは人工物は除いている。大自然、地球、宇宙は、巨大な人工物やそれを生み出す共同体・文明などと違い、私たちの活動による制作物ではないからだ。むしろ私たちを創造し、生かす側と言えるだろう。
宇宙は宇宙のスケールで、地球は地球のスケールで、それぞれ巨大な時空間の中にある。それは私たちの意識にあるミクロな時空間性を遥かに超えている。だから、そもそも「スケールの大きいもの」とのコミュニケーションなど成り立たず、私たちは自然の摂理を一方的に受容し、帰属する(=支配される)しかない。
精神性が高いもの
精神性の高さに関連するものとしては、宗教や信仰、尊敬できる徳、高邁な倫理や哲学、といったものがあるだろう。特に宗教や信仰は、その淵源には上記「スケールの大きいもの」との密接な関係があるので、このことは後述する。
Monks singing Gregorian Chant in a Catholic Benedictine Seminary ©aranflewen
精神的な高さ、の要諦は「慈悲深きものに帰依しつつ、自己犠牲を厭わず利他的に生きようとする意思」、ということで概ねよいだろう。慈悲深き、導くものとして、古今東西さまざまな神が信仰されてきた。ここで問われるのは、目に見える物理的なスケールの大きさではなく、基本的には不可視な、精神的なスケールの大きさということになる。
多くの宗教においては、信仰の場として、さまざまな行事や行為、空間が存在してきた。それらは、日常生活から離れて「より高い精神」に触れ、反応するためのモノ・コト・ヒト・空間とも言える。たとえ山に登らずとも、多くの信仰者は俗界と離れた精神の高み・深みをそこで感じ、また日常へ戻っていくのだ。そして「より高い精神」に触れ呼応する空間、あるいはそこに集う人々の敬虔さ、これらもまた「尊崇・達観」の対象となってきた。
Gloria in excelsis Deo (A Betlemme di Giudea) – Basílica de S. Pedro 2016(©Música Litúrgica pelo Mundo)
空間の神聖さや荘厳さは、信仰する者たちの一体感を醸成し、ある種の陶酔感をもたらすことも少なくない。そこに生まれる連帯感は、生活共同体のもつ、ある種ボトムアップな帰属感とはまた別のもの、「より高い精神へ導かれる者たちの一体感」に近いだろう。
ところでここに、先述したバークのいう意味での「崇高さ」はあてはまるのだろうか。「自己保存を脅かすような超越性」という点では、生命が脅威にさらされている感じはあまりせず、ゆえにあてはまらないように思える(もっともこれは信仰の対象によりけりなので、後述部分で整理する)。
信仰とは別に、純粋な尊敬、という場合もある。ただここでも、精神性の高さが前提になる。その教えが世の多くの人を救ったとか、自己犠牲によって世の多くの人に尽力した、といった聖人的な徳、あるいは倫理、思想信念がなければならない。だから単純に面倒見がいいよね、とか周りの皆に愛されてるよね、などといった、「共同体レベルでの評価によるややユルい尊敬」とは全く異なってくる。ということでいけば、圧倒的に尊敬を集めるのはどうやらこの人物のようだ。
時間的に永いもの
私たちの送る人生時間とは比較にならない、悠久な時の経過を感じさせるものとしては、寺社などの歴史的建造物や古くからあり続ける街道、長く受け継がれている伝統や地域固有の自然美、などが思い浮かぶ。これらはどちらかと言えば、人間の営為と深く関係するものだ。
伝統を感じるものについては、そこにかけがえのなさを感じ、文化を継承、守護しなければ、という気分も惹起される。少し「帰属・回帰」の本丸ゾーンとも近い感じになってくる。
ただそこにあるのは、単純な「いま・ここ」に限定されない、むしろ昔から今にいたる「持続の時間」そのものになる。この「持続の時間」には、受け継がれてきた目に見えないミーム(習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報)が含まれている。
つまり「尊崇・達観」の対象はここではスケールや神聖さの方ではなく、ミームの持続=時間性の方にある。ちなみに、ここにも「自己保存を脅かす」要素は存在しない。
映像を参照すると「文化伝統」と「遺産」という対象の違いによって、若干感じ方が変わってくるようだ。
前者が、現在も続き、自ら継承しうる文化であるのに対し、後者はどちらかといえば、古墳や遺跡への感じ方に近く「遺されてはいるが、過去になったもの」として、感じ方はやはりやや異なってくる―「悠久さ」と言った方がぴったりくるだろう。
ただいずれも、どちらかと言えば、人間の営為に紐づく時間性(永さ)がその「感じ」をもたらしている、と言える。
一方で、星の光が、実は今から数百年前の光だと知ったり、樹の年輪や地層や岩石の中に想像を絶する時間堆積を感じたりするときにも、私たちは「尊崇・達観」の気分に誘われる。こうしたものは、人間の営為ではなく、宇宙や自然の時間スケールに関係するものと言える。
考察へ向けて
ここまで「尊崇・達観」の気分をもたらす対象を、
「スケールの大きいもの」
「精神性が高いもの」
「時間的に永いもの」
という大まかな3つのカテゴリーに分け、少しだけ見晴らしを良くしようとしてきた。
「尊崇・達観」タイプの中でも、たしかに個々カテゴリーごとにもたらされる気分は違ってくるし、同じカテゴリー内でも微妙に差異がある。
また間違いなく、Vol.13で例示した帰属回帰・本丸ゾーンのモチーフである「郷土・人情・団欒・味噌汁」みたいなものより、対象のモノ・コト・ヒト・空間は超越的―大きく、高く、永いレベル―である。
だが一方で、「スケールの大きいもの」「精神性が高いもの」は、ともにある程度「時間的に永い」部分を含んでもいる。そして「スケールの大きいもの」と「精神性が高いもの」は、信仰の起源をたどれば同根の部分が実はかなりある。
このように見てみると、古代人の霊性を感じる力、そこからのアニミズムや山岳信仰、その後の定住社会における神や信仰、祭りや文化、そしてこうした宗教や土着文化を引き継いだ民族主義や国家、というものがいわば「ひと続きの」連なりに見えてくる。
例えば、チラチラと引用してきた崇高さ(サブライム)についてだが、それは前述のとおり、
「超越的で物理的/心理的にどデカい」恐怖の対象から醸され、その実その対象から距離をもったときに発露する
というものであり、みてきたように「スケールの大きいもの」には概ね適合しそうである反面、「精神性が高いもの」「時間的に永いもの」には(そもそも恐怖感が欠如しているから)そのままではあてはまりにくそうである。
しかし実際には、私たちは時に、「精神性が高いもの」「時間的に永いもの」にも「崇高さ」という言葉をあてはめたりする。自己犠牲、というエッセンスにおいてテロやカミカゼも「崇高」になるし、ワールドカップのスーパープレーすら「崇高」となる。
神風特攻
こう考えてくると、「崇高さ」は、時代によってその気分をもたらす対象を「次々と作り変えてきている」のではないか?と思い当たる。
さらにその上で、何らかの理由において、私たちは「崇高さ」を「作れるもの」として「作りたがっている」のではないか?という疑問も湧き上がってくる。
こうした疑念を前提に、次回は「尊崇・達観」の基軸にあるであろう「崇高さ」について追いつつ、その崇高さを「手なずけ続けてきた」人間の経緯や、その結実としての消費や産業、あるいは「崇高側による逆襲」などにも触れながら、私たちの「尊崇・達観」の気分について、さらに掘っていきたい。