Vol.21 意味体験の類型について「尊崇・達観」その1[映像表現と気分のあいだ]

「覚醒」という言葉がある。

例えばゲームの世界では、「覚醒キャラ」とか「覚醒アイテム」という言葉が定番化して久しい。多くの場合、「覚醒」によってプレイヤー=キャラの潜在能力が解放され、彼らはパワーを増して活躍し始める。昨今は覚醒といえば、もっぱらこうしたゲーム画面上の経験が連想されるかもしれない。

一方で、「固定観念から脱する」とか「世界観が一変する」、あるいは「これまでの洗脳から目覚める」などのニュアンスでも、広く「覚醒」という言葉は使われてきた。

とりわけ表現の世界というのは「覚醒」の多発地帯だ。見回せば、映像はじめクリエイティブな仕事に関わる人達というのは、特に子供から大人になる通過地点としての若年期に、強い覚醒としてのクリエイティブ体験を「喰らって」いる人が殆どだ。

その覚醒は表現や作品=外的な刺激によって引き起こされる。それによって、フツーの生き様から「覚醒」し、「イマ・ココ」を相対化して、表現者の方へ突き進むというわけだ。

若き三島由紀夫はレインモン・ラディゲの文学に没頭したし、映画監督のジャンリュックゴダールは溝口健二に心酔した。あの宮崎駿も手塚治虫の作品やロシアのアニメーションに衝撃を受けている。インパクトの素は、映像だったり詩だったり、物語だったり音楽だったり、あるいは人であったり出来事であったりと様々に異なるが、こうした「覚醒」が重要なターニングポイントなのは間違いないだろう。

皆さんにも、特定の人や作品=「アレ」との出会いによって覚醒した体験があるだろう。若い時の出会いのインパクトは特に絶大だ。それまで大なり小なり庇護され、まだ未開発だった世界への意識。それが、これら覚醒によるインパクトによって解放され、別の世界を表現したいという欲動がムクムクしだす。

この推移を意味体験で翻訳してみると、概ねこうなる。

  1. 大なり小なり庇護されている幼年時代というのは、長期の時間軸で見れば「帰属・回帰」的な意味体験に属する時間。
  2. そこから外れた、今までにない世界観に大きなインパクトをうけ「覚醒」する。これは「リフレーム・異化」の意味体験に極めて近い。
  3. 「覚醒」をもたらす表現は忘れがたいものとなり、その世界観が今度は一種のロールモデルとして作用しだす。これは憧憬(描望ゾーンのひとつ)としての意味体験である。今度は自分がそういうインパクトを与える側になりたい、という思いが強くなる。
  4. こうした理想に向かって試行錯誤しながら「頑張る」実践の段階。これは克己鼓舞(本稿では未説明・今後取り上げる)の意味体験となる。

※ちなみにこうした1~4のような「意味体験の流れ」について、筆者は「旋律」と名付け、様々な旋律のタイプを分類している。上記は典型的な「自己実現的な旋律」の1タイプ。

ここでの「覚醒」の意味体験は当然「リフレーム・異化」的である。しかし、それは単純な異化というより、生き方に影響するほど世界観を変え、その後の生き様に様々な意味体験を誘発させていくような、いわば哲学的・宗教的体験といえる。従ってこの「覚醒」の意味体験は、「リフレーム・異化」とは別に仕分ける必要がある。

ということで、今回はこうした「知的・精神的な意味体験」の全体を見ていくことにしたい。上の「覚醒」も含む、「客観・覚醒」という意味体験である。

「客観・覚醒」の意味体験

「客観・覚醒」の意味体験とは、大きく言えば「再認識する・気づかされる」「新たに知る」あるいは「見方が変わる・目覚める」意味体験である。意味体験の位置的には下図のようになる。

図1 「客観・覚醒」意味体験タイプの位置(筆者作成)

知的・精神的なことにかかわる意味体験なので、タテ軸としては上方となる。その一方で、左右軸は幅広い。左は「帰属・回帰」(茶色いゾーン全体)に接し、右は「リフレーム・異化」(青いゾーン全体)にも接するのが特徴だ。

「覚醒」を例にすれば上述の通り、基本的には「リフレーム・異化」の意味体験(右側)に近い。

これとは別に「勉強し、学ぶ中でいろいろな知識を得た」という意味体験もある。これらには「自分が無知だっただけで、大人の世界や、学問の世界ではすでに常識」というニュアンスが多分に含まれてくる。

さらには「仕事をしながら人間関係の機微に気づく」「(稽古事など)試行錯誤を繰り返しながら、本質に気づく」といった意味体験もある。ここには、自分が慣れ親しんだ日常世界(=「帰属・回帰」的世界)に流れる「道理、本質、道徳」に改めて気づく、再認識する、というニュアンスが多分に含まれてくる。当然ながら、限りなく「帰属・回帰」(左側)に近い意味体験となってくる。

このように、「客観・覚醒」の意味体験は左右ゾーンが広く、左側(帰属・回帰的)から右側(リフレーム・異化的)まで、意味体験として対立的な双方にまたがっている。この両面的な特徴は、以前紹介した「描望」の意味体験ゾーン(本稿vol.15vol.16にて紹介)と類似している。「客観・覚醒」は言ってみれば「描望」の知性パージョン、精神バージョンともいえるだろう。よって図においても「描望」の上側に位置している。

※このように「客観・覚醒」タイプの意味体験は、内部カテゴリーの幅が広い。本来は各カテゴリーをおのおの独立した意味体験タイプにしてもいいくらいだ。しかし、まずは意味体験タイプ全体の見取り図を可能な限りシンプルにするため、この幅広さを許容して、ひとつの大きな意味体験タイプとして括っている。

「描望」の意味体験が、基本的には<「イマ・ココ」から離れる>というものだったことを思い起こせば、「客観・覚醒」の意味体験は<「イマ・ココ」での意識や思考から離れる>ものといえる。ゆえに、日常を客観視したり、学びによって世界の新たな面を知ったり、全く別の意識や思考、世界観に覚醒したりするわけだ。

それではまずサクサクと、「客観・覚醒」ゾーン内の、代表的な意味体験カテゴリーを6つほど見ていくことにしよう。

「再認識」
人間や世の中の本質に気づく・深まる意味体験…「ああ、そうだよな」「確かに」

他者理解や人間理解、社会の道理などについて「ああ、そうだよな」とか「確かに」と思わされるような意味体験がこの「再認識」のカテゴリーである。

一見表現は違っているけれど、実はどれも、身近な日常観察に基づいて共感を喚起させつつ、その気づきによって認識を深めさせる、といった方向付けをしている。

これら表現の中で、笑いは必ずしも排除されない。ただ「諧謔・あそび」の意味体験(本稿vol.19vol.20)とは完全に異なり、必ず「共感がベースにあるもの」となっている。

このカテゴリーには当然、いわゆる「ヒューマンタッチな」音楽や小説、映画などもゴソっと属することになる。いわゆる「深いコンテンツ」、なんらかの「大事な教訓や気づき」を与えてくれるもの、が密集するカテゴリーといえる。

「知識・理解」
知識がもたらす意味体験…「そうなのか」「なるほど」

知識を得て広まる、知的好奇心が刺激される、というのがこの意味体験カテゴリーの中核だ。科学的な原理、史実・文化の知識、政治経済、法学の根本原理、その他諸々の「初見の、知らなかった知識」。これらを知ったり、理解することでもたらされる意味体験である。

先の「再認識」とは違って「初めて知った」ということからの「なるほどね!」「そうなのか!」「興味深い」という気分が強く残る。「興味がわく」ことで「もっと知りたい」という知的欲求にもつながっていく。

王道は、学校教育や書籍全般、様々な教養番組・教養コンテンツだろう。皆さんの周囲にもあふれている。ひとつ注記しておくなら、ここの範疇はどちらかといえば「理性的」であり「知識的」なのが特徴だ。つまり「頭でわかる」ものである。従って「身体でわかっていく」タイプの稽古や〇〇道、のようなものは、ここには入らない(これらは「再認識」により近い)。

このカテゴリー例をCMに求めると、実はなかなか骨が折れる。というのも、この意味体験を純粋に貫く表現がさほど多くないからだ。どうも(広告のみならず)「気分の表現」と「知的刺激」の間には何か一縷の溝があるように感じる。これはどこかで改めて論じたいテーマだ。

というわけで、CMや広告の場合にはブランドや商品、サービス特性をなんらかの(一般的)知性・知識のメタファで彩る、というものが本線になる。この「(一般的)知性・知識」というのが厄介で、「そのブランド特有の知性=切り口」になってしまうと「おお新しい」「さすが」「斬新!」のような驚嘆系の気分、すなわち「リフレーム異化」方向の意味体験へと、どんどん逸れていってしまうのだ。そうするともはや「客観・覚醒」タイプではなくなってしまう。

一方、商品やサービスの特性そのものを科学的にダイレクトに訴求するものはとても多い。成分やパフォーマンスのデータが前面に立つようなものだ。これも当然、意味体験は変化してしまう。直接的でインスタントな「こりゃいい、よさそう、買うか」という意味体験へ逸れ、「客観・覚醒」ではなくなってしまう(これらは未説明で、今後説明する「優位」という意味体験になる)。

余談だが、このようなストレートな科学的=商品特長的な訴求をあえて却下するようなもの(大きくいえば挑戦破壊タイプ)もある。


「普遍・正義」
普遍倫理の啓蒙による意味体験…「その通り」「正しい」

世界共通の普遍的な正義・倫理観(環境意識も含む)を啓蒙するようなモノコト全般がここのカテゴリーに入る。平等・公正・環境倫理(SDGsなど)・反差別・ルッキズム批判といった、いわゆる「正しい考え」に基づいた表現だ。そしてこれらは、観る者に「仰る通りだ」「これは正しい」「自分も正しくあろう」という気分をもたらす。

そこには、正義の見えない力によって「自分が律されるような力学」が働くことも多い。一般的に、啓蒙思想とは「抑圧的権威や封建的な考えを否定し、人間の理性をよりどころにして正しい知識をもたせ、合理的な考えを促し、社会の進歩をはかる」というものだ。現在では人権や反差別、多様性、ジェンダー平等やLGBTQ、貧困撲滅などが頻出テーマとして挙げられる。理想主義的であり、それゆえ原理的に「上から私たちを導く」という心理的力学が働く。

こうしたこともあって、「普遍・正義」が取り上げる「正しく、否定しえないテーマ」は、往々にして「単なるキレイゴト」とネガティブに受けとられたり、「ローカルな慣習に馴染まない」「生理的に受け付けられない」と敬遠されてしまう場合もある。表現の仕方が(特に近年は)かなり難しいのも事実だ。また「啓蒙的」「正しい」意味体験には、「笑い」との同居がなかなか難しい、といった特性もあり、炎上も多いカテゴリーだといえる。

「啓発」
不都合な真実を知ることによる意味体験…「マジか・ショック」

「警告」
損害や不利益を見せられることによる意味体験…「怖いから対処しよう」「こうならないようにしよう」

啓発は、人が気づかないこと(気づいていないこと)を教え示し、より高い認識や理解に導く、ということである。「マジか、ショック」「いやあ知らなかった、そんなことになってたのか」といった気分が必ず入ってくる。そして「このままではいけない」という気持ちにさせる。

それは多くの場合、私たちが疑わずに埋没している日常社会の「不都合な真実」を示す。不都合を炙り出す批判的視点とはいったい何なのか?という点については後述する。

啓発がこのように、問題を明示・暴露し「これではいけない」とやんわり認識させるのに対し、警告は観る者自身にダイレクトに迫り、具体的に行動喚起する。好ましくない事態にならないように事前に告げ、「警告に従わなければ、あとは知らないよ?」という(ある種突き放した)意味体験をもたらす。生命の危険や、財産や権利の危機というテーマが最も多い。

もちろん警告が社会的文脈をもっていたり、啓発が個人向けのもの(=自己啓発)だったりする場合もある。しかし、特にCMにおける実態をみれば、「警告は個人に対して」「啓発は社会に対して」という場合が多い。巷にあふれる自己啓発本なども、少なからず「こうしないと生き残れない」「このスキルを身につけないと危ない」などといった、警告的言説に依るものが少なくない。

「覚醒」
既成の見方が崩される意味体験…「覚醒する」「世界が違って見える」「なるほどね」

私たちは普通に学校で学び、普通に就職し、様々な人と付き合う中で「いい感じの常識」を身に着けていく。それは日常的な思考態度といってもいいし、思考のスタイルといってもいいだろう。それはだんだんと踏み固められて、一つの確かな思考様式になっていく。世界をどう理解するか、その見方が定まっていく。

そうした中、私たちにとって普通ではない思考が投げ込まれる。冒頭にも述べた通り、普通でない「モノ」や「コト」なら、おお面白い!などと言って部分的に対処していればいいのだが、思考様式にかかわるようなインパクトのある打撃を受けると、これまでの「世界の理解のしかた」がひっくり返される。つまり、これまでの「いい感じの常識」から覚醒して、別の世界理解へ移行していくことになる。

こうした「別の常識」「別の思想」っぽい感じをもたらすのが、この覚醒のカテゴリーだ。新しい哲学といってもいい。冒頭の繰り返しになるが、多くのクリエーターのイニシエーションにもこの「覚醒」がある。

その思想哲学を表現するメディアはもちろん多様で、時代にも依存する。筆者の世代では圧倒的に音楽・映画がその役割を果たした。今はそれがネット上での個人発信かもしれないし、このところ話題をさらっているAIなど「技術そのもの」による世界観チェンジかもしれない。

「覚醒」をもたらしてきたものを表現哲学として見れば、アート&クラフツ運動やロシアン・アヴァンギャルド、未来派やポップアートやパンク、ストリートカルチャーなど様々なムーヴメントが、その哲学性・世界観によって、多くの人々を覚醒させてきた。これらをより広く捉えれば、カルチャーのタイプ(エスタブリッシュメントなカルチャー、カウンターカルチャーなどのポップカルチャー、いわゆるサブカルなど)という形でもカテゴライズされうる。また思想的な面からいえば、啓蒙思想としての民主主義や自由主義、そして社会主義や共産主義、アナーキズムや自然共生思想、(最近で言えば)加速主義、といった切り口もあるだろう。

「客観・覚醒」各カテゴリーの位置と関係

これまで「客観・覚醒」の中にある、代表的な6つの意味体験カテゴリーについて見てきた。ここから以下は、これらの関係について軽く解きほぐしつつ、次回に繋げたい。

前半にざっくり述べた各カテゴリーの位置について確認しておこう。6カテゴリーのうち、特に「再認識」「知識・理解」「普遍・正義」「覚醒」の4つについて位置関係を図示するとこのようになる。

図2 「客観・覚醒」タイプ内の、各意味体験カテゴリーの位置(筆者作成)

まず「再認識」の意味体験は、私たちの日常生活や日常感覚に根ざしたものである。だからこそ「再」認識にもなる。その意味体験は、私たちの日常感覚を脅かすことはない。日常を客観視しつつも、あくまで共感的に捉え、より深く認識させる。すなわち「帰属・回帰」に寄った左側のゾーンに位置することになる。

一方で「覚醒」の意味体験は逆だ。こちらは私たちの日常感覚を崩し、そこから覚醒させる。「リフレーム・異化」のゾーンなので、右側に位置する。

「普遍・正義」は相対的に真ん中に位置している。「普遍・正義」とは、そもそも「西洋啓蒙思想がグローバルな合理的思想として世界普遍となる」という、ある種の「理想」を底流にもつ。そしてそれは、すでに一定程度私たちの意識に浸透している。だから「リフレーム・異化」のような未知の意味体験ではない。

一方で、ローカルな慣習に馴染んだ意識からすると「理想すぎて馴染めない」部分を併せ持つ。だから左側とも言えない。よって、右側でもなく左側でもなく真ん中に位置している。

これは啓蒙思想がグローバルな合理的思想として世界普遍という理想に「なりつつある」という状態を示している。本当にこれが世界の日常生活に根付いた時には、おそらく啓蒙思想がそのまま人々の感じる「帰属・回帰」の意味体験になる。この点は特に重要なので次回、さらに細かく見ていく。

念のため一点補足しておく。上記のように、啓蒙が完全に根付き、私たちの「帰属・回帰」意識そのものになった状態を仮定してみよう(恐らくその時には、「おすそわけ」「もちつもたれつ」「水に流す」のような、現状の「帰属・回帰」的観念はほぼ忘却されている)。するとその時、「客観・覚醒」の真ん中ゾーン(=「理想のもの」・「なりつつあるもの」)にも、原理的に、全く別の理念が登場しているはずだ。それはおそらく、今の「啓蒙」を潰しにかかる、新手の理念だろうと思われる。

ちなみに、現在もなお続く西洋啓蒙思想の淵源は、18世紀の啓蒙的知識人たち(フィロゾーフ)に求められる。彼らは「実世界の現実的諸問題を解決することに注力し、公的な活動をおこなった知識人たち」であり「国家や宗教的権威と熱い戦いを繰り広げながら、政府の最高権力においても支持を拡大していった」(Wikipediaより引用)。また自分たちを「政治的国境にとらわれない、大きな『文芸共和国』の一員」だと考えていたという(同)。今で言えば、(バイアスをかけない意味での)グローバルなリベラル意識、であろう。

フィロゾーフたちの多くは、宗教より人間理性や合理性の方を重んじる傾向にあった。いうなれば、前回触れた「サブライム」(本稿Vol.22)の如き超越的啓示の否定である。すなわち「知識・理解」によって、非合理的な啓示や神話、旧来の教会権力は否定され、そこから人間中心主義的で合理的な近代の道徳観念体系がつくられていくことになったのだ。

さて、最後の「知識・理解」についていえば、先述のとおり、こうした啓蒙的「理想」の礎となるものである。フィロゾーフの啓蒙運動の源にも、ディドロら百科事典派の活動による、夥しい「知識・理解」の蓄積があった。

だがもちろん、「知識・理解」は「普遍・正義」だけでなく「覚醒」の礎にもなる。「再認識」の礎にもなりえる。つまり、「知識・理解」は他の3つ「再認識」「普遍・正義」「覚醒」すべてにつながるような、ある意味で基礎的な?意味体験、ともいえる。

※「知識・理解」については、現状では二次元的に下に位置させているが、これは便宜的で、正しくは「客観・覚醒」ゾーン全体の一番下のレイヤーにある、というイメージが近い。

こうして考えてみたところで、先の図に世界観を加え、かつ「啓発」「警告」も加筆したものが以下である。

図3

コトバが完全に揃ってはいないが、まとめれば

  • 「再認識」は、共感をもって日常世界を再認識する意味体験。
  • 「普遍・正義」は、正しさをもって理想世界を感じる意味体験。
  • 「覚醒」は、未知、異種の可能世界に感染される意味体験。

ということになる。

そして実は「啓発」は、「普遍・正義」を礎に日常世界が批判される意味体験、である。正しくない日常世界を照射し、これじゃダメだと思わせるのだ。上図の黄色い矢印はそのことを示している。この矢印がすなわち啓発のゾーン、と捉えるのが最も正確かもしれない。

さらに、これらとやや異なるレイヤーでの意味体験としてあるのが以下である。

  • 「知識・理解」は、知らなかった知識を得る、知的好奇心を感じる意味体験。
  • 「警告」は、「知識・理解」を礎に、私たちの利益や生存条件への注意が喚起される意味体験。

警告は啓発とは違い、社会批判や日常批判の視点ではない。むしろ具体的な注意喚起であり、個々人への恐怖訴求が中心となる。その恐怖は、具体的な利益や安全、健康に対するものが多いため、矢印は一番下のゾーンに向かう。このゾーンは「利得・安全の意味体験」&「本能刺激の意味体験」である。本稿でまだ未説明のゾーンだが、ある意味最も「動物的」な意味体験ゾーンといってよい。

さて、「再認識」「普遍・正義」「覚醒」に話を戻せば、ここに割り振られた「共感」「正当感」「感染感」それぞれの関係性には緊張関係がある。一言で言ってしまえば、それは「世界観の対立」だ。

まずもって私たちの現実世界における対立というのは、多くがこの「世界観の対立」を一因としてもっている。人間同士もそうだし、会社内のカルチャー対立、物事の進め方での意見衝突、など多くがここに起因している。そして「共感」vs「正当感」の対立が圧倒的に多い(我が国では特に)。

実はこの「世界観の対立」は、様々なストーリーにおけるテーマ設定、キャラ設定、プロット設定にも、ほぼ必ず絡んでいる。「正しい」キャラが「共感的」キャラと衝突したり、ある覚醒的キャラによって世界が一変したり、などなど。

そして私たちの意識や気分、あるいはふとした行動なども、こうした世界観の間で常に揺れ動く。あるテーマについて共感をよせたかと思えば、あるテーマについては批判的に(偉そうに?)論じつつ自らの正当性を語る。ある世界観、ある気分だけに固着している人など、どこにもいない。皆がカテゴリー内を揺れ動く。

次回は、これら各カテゴリーの関係をさらに掘り下げていきたい。最後に1つだけ、頭出しをしておこう。

(出典:tenki.jp)

天気図である。

コペルニクスやガリレオが地動説を唱え、それが常識になってからすでに400年近くがたった。当時の教会はガリレオを宗教裁判にかけ、著書は禁書とされたほど「旧来の思考」が強力だった。すなわち天動説だ。それは疑ってはいけない「信仰」のようなものになっていた。

それでも「普遍・正義」(啓蒙的)である地動説は粘り強く闘い、その後徐々に社会に受容されていく。それは今や社会常識として「知識・理解(するべきもの)」として学校教育へも組み込まれ定着し、私たちは今、そんな常識に根ざした日常世界でニュースの天気図を見ている。

しかし、この天気図のビジュアルをよく見ていただきたい(よく見なくてもわかるが)。地球が固定され大気が動くというこのビジュアルは、その実ガリレオ以前の天動説そのものだ。

つまり「合理的で正しい」ことを、私たちの直観や身体性は必ずしも受け入れない。それは表現においてもまた同じである。ここにジレンマがある。映像表現が今後何をどうしていけばよいのか、というヒントも案外、こうした中に潜んでいる可能性がある。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/