魔法が溶けゆくフィクションの変わり目(続)
前回に続き、レバレッジの意味体験について取り上げる。今回は深掘り考察となるが、その前に一応ざっくり前回のおさらいをしておこう。
レバレッジとは「梃子」のことで、この梃子のような気分作用がワークする意味体験がこの稿でいうところの「レバレッジの意味体験」のことだ。
レバレッジの意味体験の眼目は「自分の商品価値があがるような気分」になれることだ。ステイタスシンボルとしての記号、優れたライフスタイルといったものが王道・中核で、これは社会システムに最適化した生き様なので、結果皆にも承認され、羨望を集めやすいところとなる。
次いで外見のよさや優れたパフォーマンスがあり、これも皆に承認され、結果として社会システムへの最適化を達成しやすい傾向にある。
他方で、社会システムとは逆行した「挑戦破壊」的なものもある。それらには「個人的な生き様」によって社会システムに挑む、という面がある。
こうしたレバレッジの意味体験を映像例から抽出しつつ、カテゴリー分類したものが以下の図1(前回掲載)である。
さて、レバレッジの意味体験とは、いわば「欲望を達成するためにこうやって武装せよ、そして競争に勝ち、他者より優位に立て」という一文による魔法だった、と前回述べた。
これは人間の欲望のタイプのひとつで、(反逆的なものもあるものの)その本丸は社会的な立ち位置で他者より優位に立ちたい、というものだ。他者より勝っている・優れていると見られたい。
ならば、コレを持ちなさいorコレで容姿をよくしなさい、そうすればあなたの商品価値も上がる。こうしたレトリックで、まずは特定の商品で自己武装した「見本・手本」が呈示され、私たちの欲望が喚起される。自分の商品価値が上がる→競争に勝てる→他者への優越感が持てる=欲望が叶う、という流れだ。
しかし一方で、前稿で引用した従来のテレビCM例が現在では―すなわち社会システム(=フィクション)の変わり目にある今の感覚においては―やや違和感を覚える可能性がある。このことについて、レバレッジの意味体験とその対応物がずれてきているのではないか?と前回ラストにおいて述べた。
その一因は、恐らく、自己武装ツールの変化である。現在は企業向けのDX商材や、個人でいうならIT/AIを駆使できるスキル、などの方がより「レバレッジ」感に近い。つまりこうした文脈のほうが「商品価値が上がる」という感性にフィットする。
前稿で触れた通り、時代がフィクション2(アナログな消費社会)→フィクション2new(デジタルなスマート社会)へと動く中で、社会を根幹的に変動させる「テクノロジー」への対応力・自己最適化こそ、企業・個人の商品価値上昇や、他者/他社に差をつける優位性に直結するようになった、ということだ。
対して、これまでレバレッジさの中核をなしていた消費における優越、すなわち「持っているモノや身にまとったスタイルを誇示することでの勝利感」は、消費社会全体のレベルアップ&低コスト化もあり、ヒトもモノも皆似たり寄ったりになってきたため、さして自己の価値上昇に影響しなくなった(ついでにいえば、奇抜な見た目のヤツらもかなり減った)。
例えばジョブスのような成功者も身なりはフツーだったように、消費における優越性を誇示するもの、ステイタスのシンボルとか、ライフスタイルでのセンスエリートを標す記号は(未だ一部に魔力を残しているものの)徐々にその力を弱めつつ、out of date化していくようにも見える。
スキルとコスパ
考察を進めよう。レバレッジの意味体験について、現在の状況や今後を考える際に外せないキーワードがある。それは「スキル」と「コスパ」だ。順番に見ていこう。
「スキル」はイメージではなく、今ではもはや「数字で表される有能さ」となっている。時代変化への適応性そのものとも思え、旧来の人生動機の反転さえ思わせる。すなわち、外見より中身、消費力よりスキルの高さ、である。
例えば「ハイスペック人材」というコトバがある。その響きは、スキルの高さと同時に効率性が高く、収益に寄与し(年収が高く)、リテラシーが高く、「ムダがない」といった含意を与える。効率性が高くムダがないというのは、それだけで反消費的ともいえる。
ところで、ここにはややこしい側面もある。というのも、上の「スキル」の多くは今日ではほぼデジタル・テクノロジー文脈上にあるが、そもそもテクノロジーとは歴史的・原理的に「既存システムを破壊転覆する」ものだからだ。
つまりシステムがFiction2からFiction2newへ進行するさなかで、テクノロジーがさらに進展すれば、あっという間に既存システム自体の条件も変わり、いきおい「既存のスキル」もまた形骸化していく。いたちごっこだ。今後なくなってしまう職能、という言説があるが、まさにそのデジタルバージョンである。
例えば人並みのプログラミング技術がAIにとってかわられると、あっという間に自分の商品価値=優位性は低減する。土台のシステムが流動的ですぐ変わるのだから、スキルの優位性は原理的に短命であろう。
裏を返せば、既存システムに適応的なものより、既存システムを破壊する「少し先の」テクノロジースキルを常に利用すること、それこそが「レバレッジ」っぽいかもしれない。このことは、レバレッジの傾向として、上図1の左から右への移動状態、という風に見えなくもない。つまり、「挑戦・破壊」の意味体験への傾斜、である。
これまでは「スキルそのもの」より「その成功結果としてのステイタスシンボル」、そしてその消費がレバレッジ感をリードしてきた。しかしむしろ現在はスキル自体、あるいはスキルを活用したイノベーションにスポットがあたり、消費でのレバレッジ感は後ずさりしているようにもとれる。
さて、一方の「コスパ」についても見てみよう。
誰もが感じている通り、ステイタスシンボルを中核としたモノ消費やライフスタイル消費はすっかり落ち着き、逆に「コスパ重視」「平準化」「守り志向」への傾斜が加速して久しい。特に2010年前後を境に、商品やサービスにおいては急速に、「値段や簡便・利便性」、つまりコスパの良さというものが最重要な訴求ポイントとなってきた。
これにはスマホ環境の浸透が大きく作用した。本連載Vol.09において「手のひら化」と題し触れた通り、とにかく「イマすぐ、ここで、手のひらで」インスタントに欲望達成するスタイルにより、消費のカタチが変化した。
欲望が「手早く・近い」ものになり、さらに消費対象が「瞬時に比較可能」になったため、結果として意識される指標は「コスパ」となった。商品自体のスペックやデザインにさしたる差がなくなっていき、「これで別に十分」な商品同士でのコスト・コスパ競争、という局面に入って久しい。
と一応述べたものの、ここにも実はややこしい側面がある。コスパとは本来、商品の魅力や機能をできるだけ低価格で手に入れる、ということだ。ところがこれが常態化すると、もはや商品への欲望よりも、その商品にかけるコストの低さ(=コスパの高さ)への欲望の方が強くなってくる。つまり商品やサービスより、コスパこそが欲望の対象になってくるのだ。
例えば旅行に行くにしても、「ヨーロッパ3泊で15万か、コスパいいなあ」というようなことになる。一体どこに行くのか、どんな料理や体験をするのか、これら「中味」はもはや欲望としては後景化し、二の次の話になっていたりする。「ヨーロッパ3泊で15万」という、コスパの高い記号=数値・数字こそが欲望になるのだ。やや極端な例だが、これに類する事例には枚挙にいとまがない。
コスパ重視でラインナップされた商品同士には、原理的に質的優劣が生じにくい。だからコスパ競争の先には消費の平準化がくる。
一方では、格差に由来する職種の安定志向もある。サバイブのための安定職種、安定ポジション獲得志向というものは従来からあり、ひとつのシステム順応・最適化のカタチなのだが、こうした一見「守り」の志向性は、どう見ても従来の「レバレッジ感」とは相容れないもの、むしろ逆のものだろう。
しかしシステム最適化のための競争テーマが「コスパ」になると、ここにやや錯綜した新たなレバレッジ感がチラつき始める。「人生におけるコスパの良さ」をゲットしたという「してやったり感」だ。つまり「他者よりコスパよい人生を賢く選んだ」こと、それ自体が優越性すなわち勝つこと、になり替わるというわけだ。
ひとまず試案がてら「スキル」「コスパ」というキーワードを挙げたところで、次にレバレッジの意味体験を支える「模倣」という概念について見ていこう。
模倣…レバレッジ発生の源
前回(Vol.25)で挙げた図を今一度再掲した。Fictionは私たちの人生を条件づける、いわば社会システムのことであり、政治経済体制や、その時代のテクノロジー条件などがある。
こうして条件づけられたFictionに最適化し成功することが、社会において支配的で「常識的」な人生動機となる。個人的な人生動機も概ねそれに倣うが、一方でこれに抗うタイプの個人的な人生動機もある(図2 前回図の再掲)。
さて、社会で「常識的」な人生動機について、「模倣」という概念でこれを論じたのが、19世紀の社会学者ガブリエル・タルドである(もっとも彼以前に、先行して模倣論を展開したクリスティアン・ガルヴェがいた)。
タルドの模倣論の中核は、以下のようにまとめられる。
- 人間社会は模倣によって成立している
※タルドによれば、国際社会=国家間の関係までもが、模倣で成立している - 人間の人生動機や欲望は、他者のそれの模倣である
※タルドの著作における表現では人生動機=「信念」、欲望=「欲求」 - 模倣には、模倣されるモデルの「発明」が必要になる
- 模倣されるモデルは、権威や優越性を有する
- 模倣は上層から下層へ伝搬する(優越者=成功者から庶民へ、首都から地方へ)
模倣されるモデルについては、Fiction1の時代(共同体的な社会)では主に固定的な権威(司祭や教育者、共同体リーダーらのもつ全権性・正統性)であり、Fiction2への過渡期(近代初期・資本主義の前期)からはそこに徐々に芸術的想像力(センスのよさ)や産業上の創意(イノベーティブさ)などが加わった。
それが、民主主義が広まるFiction2(=19世紀から最近までの消費社会)となると圧倒的に、消費による誇示(「憧れを呼ぶ、今っぽいスタイル」)に移行していく。
そして前述のように、現在(Fiction2 newへの過渡期)は「スキル」や「コスパ」(リスクの低減能力)がそれにとってかわりつつある、というのが筆者の見立てである。
Fiction2の後期が幕を開けたのは1830年代のフランスらしい。服飾を中心に「流行」というワードが「模倣を促す新しいスタイル」という意味になってきたのがこの時代である。作家の原閑氏は以下のように述べている。
近代(=現代)は、目まぐるしい速度での様式の変遷に特徴づけられる。
(中略)
服飾に関しても、フランスでも、われわれ王族や貴族でもない庶民が、自由に服装を選べるようになったのは、フランス革命により基本的人権が確立されてからのこと。このことが憲法となり、守られるようになってからのことである。そうして、ファッションは、生きること……生命の運動を始めた。
着飾ること、モードの進化の歴史は、フランス革命で約束された諸権利が、自由市場で一気に花開く1830年代のパリに生まれたといってよい。モードとは、ブルジョワ、つまり富裕な商人が社会を支配する正統性をもつためのアイデンティティだとも言える。高価な服装は、貧乏人から「区別」される。
(中略・以下、フランス語の〈モード〉の意味について)
1482年以降の意味や用法の変化は実に緩慢で、「ロベール・イストリーク」で挙げられるのは、「流行の」(《à la mode》、1549)と「流行遅れになる」(《passer de mode》、1747)の言い回しの登場以外は、一貫して「外観[装い、ルックス]に関係するあらゆること」の意味の持続となる。
ところが突如19世紀半ばのこと、《後期近代》と《市場・視覚社会》の形成のなか、名詞《mode》は、フランス語文法では異例なことに形容詞の代用ともなる。「流行の衣服」(《des vêtements mode》、1849)。
(原閑 著「世界資本主義の夕暮れに、極楽鳥は羽ばたくか?―モードが骨董品となるとき」 Fashion Talks… Vol.4, Autumn 2016より引用)
重要なのは、庶民が、自由に服装を選べるようになったのが、フランス革命=民主化された社会においてであり、ココこそ「固定化された上流階層」が破壊されて流動的となり、同時に産業革命によって「消費社会」が産声を上げ始めたタイミングだ、という部分だ。これが、筆者が呼ぶところのFiction2、の始まりである。
それまでも各人の内面にはあったであろう「レバレッジ」な欲望が、モノという記号によって社会に解放され、視覚化された時期とみてよく、王政や階層的共同体から解放された庶民階級の内で「優劣競争」が全面化したのだ。そして、ここで優越性をもったのがいわゆるブルジョワ層(一般庶民のなかの資産家層)だ。
このブルジョワ層の消費志向=文化を模倣した服飾の流行からはじまり、レバレッジ感を醸す商品はさまざまなジャンルにその枝葉を広げていく。新たなテクノロジーもこれを支える。ステイタスとしての自動車や豪華客船、リゾート、戦後であれば三種の神器、別荘や高級腕時計や高級車、これらはどれも、庶民の模倣を促す憧れの対象となった。つまりこうしたモノやコトによって構成される「生活スタイル」のイメージ全般が模倣の対象になり、ひいては人生動機を駆動してきた。
レバレッジの意味体験とは、その根幹で「模倣したい」という欲望と直結しているのだ。
発明…「模倣したい像」をつくる
ところで、模倣には必要条件がある。タルドは以下のように述べている。
私が模倣と呼ぶのは、それが意図されたものであるかないか、あるいは受動的なものであるか能動的なものであるかにかかわらず、精神間で生じる写真撮影のことである。…社会とは模倣によって、あるいは反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を互いに提示しあっている人々の集合であると考えよう。
(中略)
そこには段階があり、まず必要なのは「発明」だ。
模倣に必要なもの、それは「発明」。タルドの名言である。
「発明」とはつまり、「あなたもこうなりたいでしょ?」というイメージや記号である。すなわち、新しい魅力、他者と差がつく文化性、皆に羨ましがられ、欲しがられ、模倣されるような優位性の記号のことだ。それこそが、レバレッジの意味体験をもたらす。
それは人々の間に伝播し、ひいては皆に目標や人生動機を与える。端的にいえば「こういう風になれれば、人生勝てる」というヤツだ。
消費社会における「発明」の元型には、先にたびたび触れてきた「成功者の優越的な生活文化」(贅沢・優雅・享楽・余裕)がある。20世紀になると、社会はメディアを通じてこうしたイメージを次々と創作=「発明」してきた。
映像表現は、こうした「発明」の中心的役割を担った。いやむしろ、映像表現の開花を駆動した主因は、こうした「発明」の供給機能にあったと言ってもいいだろう。
さてこのように、模倣に必要不可欠なこの「発明」を行うのは誰だろうか。身も蓋もないが、それは優越者の側であり、特に20世紀の消費社会において、それは産業(企業)側ないし資本家側であったといえる。
企業とはシステム=Fictionの条件に最適化して成功することを運命づけられた存在である。ゆえにFictionの条件の下、可能な限り利益を上げなければ生き残れない。
Fiction2すなわち消費社会というシステム条件下、企業は利益を上げるために商品やサービスを売る必要があり、そのためには「発明」が必須になる。生活に必要不可欠なインフラ材でない限り、新商品や新サービスは多かれ少なかれ「他人より優位に立て、ハイセンスを誇示できる」ように思われることが重要であり、そのために広告や映像などを駆使して「模倣させるためのロールモデルやイメージ作り」、つまり発明が試行され、成功してきた。
当然ながらこの「模倣」の原理を最大限利用したのが消費社会における産業界、そしてそのツールとしての広告であった。古典的で有名なものに、「タバコを吸う女性」を新しいロールモデルとしたタバコのPRキャンペーンがある。PRの始祖、エドワード・バーネイズ(本連載Vol.05)が絡んだキャンペーン(1929)だ。
タバコは「Torches of Freedom―自由の松明(たいまつ)」として、女性解放と自由の象徴として「生き様」の重要なモチーフとなり、1923年には販売されたタバコの5%しかなかった女性購層は1929年に12%、1935年には18.1%、1965年には33.3%に達したという。
さて、ここでの「発明」、すなわち「皆が憧れて模倣したいと思う、人々の人生動機さえ駆動するような、ロールモデルとしてのストーリーやイメージ」の開発は誰のためのものか。表面的には人々のためだが、一義的にはもちろん、それは企業の利益のためのものだ。だが根源的に考えれば、それも違う。
利益を上げれば、企業はよりFictionへの最適化(他社優位)を達成していく。つまり「発明」は、その本質において、Fictionを強固に維持させるためのものなのだ。
Fiction2=消費社会においては、人々の間に続々と、消費の増大を促す方向での人生動機が浸透していった。それは個人の欲望以前に、法人の欲望であり、さらにそれ以前にはFiction2という社会システムの欲望なのだ。
蛇足だが、Fictionを破壊するような「無謀な欲望(往々にして、社会的な人生動機に反する個人的な人生動機からくる)」は概して「規制」や「禁止」にあう。つまりキャップをかけられる。それがシステムの欲望と折り合わないからだ。
Running with the Devil:The Wild World of John McAfee | Official Trailer より(©Netflix)
主人公のJohn McAfeeはアンチウィルスソフト会社を設立し成功するが、生来の奇人性?からその後は破天荒な人生を送り、米国当局のお尋ね者に。フィクション=システムと一見折り合い成功しつつ、その後は全く折り合わぬ欲望を貫き、反逆的な生を全うした
消費社会における「発明」はこれまで企業側が、Fictionのために行ってきた。社会的な立ち位置で他者より優位に立ちたい、他者より勝っている・優れていると見られたい、そのためのプレステージやセンスエリート性、というものはすべて、フィクションを強化する欲望なのだ。
タルドは以下のようにも言う。
模倣する個人は、自分が欲しているものも、自分の利益がなんであるかという判断さえも、他者からの模倣で行なう。このことによって、人々が何を欲しているかという理由として、慣習や流行による模倣の結果であるということができるようになる。
つまりレバレッジについて言えば、私たちは、自分たちが何が欲しいか、何を目指して人生の動機にしたらよいか、自分ではわからない。そもそも「模倣できるもの」がないとダメなのだ。
タルドは別にそれが悪いことだ、などとは言わない。模倣はすべてを貫く原理なのだ、と彼はいう。タルドは実に、自然科学の分野についてまで、この模倣の原理による説明を貫いている。
ところで、模倣したくなるものの本質とはどういうものだろうか。これを論じたのが米国の社会学者ルネ・ジラールである。ご存じの方も多いと思うが、「欲望の三角形」の図が特に有名だ。
ジラールの主張を端的にいえば、
「自分は他者の欲望を模倣する」ということである。模倣したくなるものの本質とは、他者の欲望なのだ。
従って、「自分の欲望とは模倣されたものである」ということにもなる。先述した通り、レバレッジの意味体験とは、その根幹でこの「模倣したい欲望」がムクムク立ち上がってくる感じ、のことなのだ。
なお、上図にある「対象」とは「発明」のことと捉えて問題ない。模倣の原理によって、みんなが同じ対象=発明を欲しがることで、そこに取り合い=競争がおこり、その結果として産業界には「価値(利益)」が発生していく。そしてFictionは強固に維持されていく。
消費社会の絶頂期であった80年代には、糸井重里氏コピーの「ほしいものが、ほしいわ」という有名なコピーが生まれる。「模倣すべきモデル(発明)を供給しろ、そしたらそれを模倣するから」とストレートに明示したコピーは、まさに発明と消費の関係をそのまま表現したメタ・メッセージといえる。
ところで、Facebookへの初期出資を行った、著名な投資家・実業家であるピーター・ティール氏もまた、ジラールの信奉者だったという。彼はマスメディアによる「発明」の時代の次には、ネット空間における一般他者の発信こそが「発明」となり、そここそが模倣の原理(=欲望の三角形)が渦巻く場所になると確信したのだ。
さてこの後、「フィクションの変遷とメディアの変化」の話、それを踏まえてこれからのレバレッジがどうなるのか?という話に展開していく予定だったが、あまりに長くなってしまったのでここで切り、それらを次回に検討していくことにしたい。