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フィクションとして見る立ち位置(続)

前回まで「客観・覚醒」の意味体験について述べたが、最終部で展開したフィクションの話を引き継ぎつつ、今回と次回フォーカスする意味体験「レバレッジ」のことへと移っていこう。

時代時代によって技術や社会環境が変容すれば、そこでの社会の意識も変化していく。「客観・覚醒」タイプ、特に「普遍・正義」のカテゴリーは、その変化を照らし出す本丸的な意味体験で、私たちに「イマ・ココ」ではない「より理想的で正しい」感じをもたらすものだった。

こうして、私たちの世界観を包摂する社会は(もしそれを物語とか、フィクションと捉えてしまえば)、各々の共同体に根ざしたローカルな物語(「帰属・回帰」的=フィクション1)から、「普遍の正しさ、という理想」に基づく啓蒙の物語(「客観・覚醒」的=フィクション2)へと、その重心を移行させてきた。

その移行は、地域によって差があったり、政治レベルや生活レベルなど位相ごとに進度が違ったりして、決してキレイで一律なものではなかった。とはいえ、移行は確実に行われ、そのさなかでは「生来的世界観」と「啓蒙的世界観」が絶えず対立し、今なおそれは続いている。

ところでこの「フィクション2」は、近代以降の「西洋的な啓蒙精神」と「技術革新」という両輪によって長らく進んできた。しかし現在は、後者の「技術革新」が、前者(従来の啓蒙精神や理想主義)を凌駕し、後者中心の独自フィクション、すなわち「フィクション2のニューバージョン」を編み出す時代へ入っているように見える。

重複的になってしまったが、前回述べたのは上記のようなことである。遺伝子工学の進展やAIによる効率化/最適化、高度な自動化/監視化、ネットや省人化による対人接触の減少など、「技術革新」による生活環境の変化は、否応なく従来型の「理想的で正しい」生活イメージを変形・遺棄・刷新していくだろう、そしてこの「フィクション2のニューバージョン」における「普遍の正しさ」が新たに現れるだろう、という見立てであった。

フィクションの中での「人生動機」

ところでいつの時代でも、私たちは自分たちの価値観や人生設計、人生コースを、こうしたフィクション(=社会が常識視する世界観・物語)を前提にして紡いできた。「こういう時代だから、自分はこういう風に生きていこう」というヤツだ。こうしたモチベーションのことを、さしあたり「人生動機」と呼んでおくことにする。

とはいえこの「人生動機」にも様々なパターンがある。見取り図風に、多少クリアにしておく目的で、ざっくりとだが「社会常識に沿ったもの(=社会で支配的なもの)」と「個人的欲望によるもの」に分けてみたのが下図である。

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図1 「フィクション」と、2つの人生動機(社会常識的・個人的欲望)の関連性(筆者作成)
社会常識的な人生動機は、当然ながらフィクション(=社会が常識視する世界観・物語)に条件づけられている
人生動機においては、社会常識的なものに親和的な個人的欲望(♡)と、敵対的な個人的欲望(X)がある

「社会常識に沿った」人生動機

これは時代のフィクションにある程度迎合的になる。すなわち、フィクションの条件に見合う形でよりよくサバイブする=成功することを目的とした人生コース、あるいは人生動機のプロトタイプと言ってもよい。図でも便宜的に同じ色にしてある。

例えば、明治や大正時代であったなら、まだまだ地域共同体の力が強い中、学問を究めて地元の名士となり地域に貢献する(あるいは役人となって国家発展に尽くす)ような人生コースがまだまだ根強かったのではないだろうか。「エリート」という言葉が名実ともに生きていた時代と言えるかもしれない。身分制度が生きていた江戸時代の後でもあり、そもそも当時のエリートに対する人々の「羨望感」がどこまで(特にステイタスシンボルに対して)あったかも定かではない。

こうしてみてみると、よりわかりやすいのは、もう少し時代を下ってからのように思える。

例えば、高度成長期であれば、上京して、できれば大企業のサラリーマンになって一家四人で団地に住み、カラーテレビ(Color television)・クーラー(Cooler)・自動車(Car)という3種の神器によって幸せな生活を送る、というのがひとつの人生動機のプロトタイプとなった。ある程度達成可能性のある、一億総中流&高度成長期の人生コースである。

一番わかりやすいのは80年代後半~90年代初頭のバブル期だろう。とにかく皆がステイタスシンボルの虜になった時代である。高級車、別荘、ヨット、ブランドものの服や時計…金さえあれば達成可能な、一種の成金マインドによる濫費的な人生動機が日本中に駆動していた。ステイタスとかプレステージ、VIPとかのワードが飛び交ったのもこの時分だ。

2000年代になってのち、コロナ寸前までは、できればMBAを取って外資系企業へ転職し、その後起業してIPO、タワマンとワインセラーと高級車、1年の半分は海外暮らし、といった戦略的かつグローバルな富裕生活像が、ひとつの人生動機のプロトタイプとなっていたように思う。達成可能度は極めて低いがビジュアライズしやすい、格差拡大期における「成功側」のエクストリーム・テンプレのような人生コースである。

このように、「社会常識に沿った=社会において支配的な」人生動機というのは、要は誰が聞いても「ああ、勝ち組だなあ」とか「ああ、社会的に立派だなあ」という感じがする、その時代においての見本・お手本としての人生コースのことだ。正確にいうなら、「こうした人生コースが、人びとの人生動機を駆動する」ことになる。そのためにも、人々にとってイメージしやすく、納得しやすいことが重要になる。

こうして見本・お手本は「最もその時代=フィクションに最適化した生き方」として認知されていくのだ。

「個人的欲望としての」人生動機

さて、「個人的欲望」へ話を移そう。今回テーマ「レバレッジ」の重心はこちらである。個人的に「こういう生き方がカッコイイ」「羨ましい・憧れる」と感じてしまう(=人生動機が駆動される)ようなロールモデル的イメージについて、解像度を上げていきたい。

前提として、「個人の欲望」すなわち個人の人生動機と言いつつも、それは当然ながら上述の「社会常識に沿った」人生動機と密に関係している(場合によっては直結している)。つまり結局「個人の欲望」も、時代ごとのフィクションの条件に縛られている。このことはまず押さえておきたい。

例えば、「社会常識に沿った」ものと親和的な欲望でいえば、「有能」「有名」「富んでいる」などが典型的なものだろう(上図でのハートマーク)。

同時に「社会常識に沿った」ものと対立的な場合もある(上図でのXマーク)。代表的なものとして「反骨精神」とか「反逆」(ロックっぽいとかハックっぽい)があり、これらはVol.18で言及した「挑戦・破壊」の意味体験とも重なってくる。

さて、こうした「美しい」「有能」「富んでいる」感じのするもの、あるいは「無頼」とか「反逆」(ロックっぽい)感のあるもの、これらを私たちが認知する源には、必ずと言っていいほどメディアによるイメージづけがある。つまり個人的欲望の多くは、メディアから影響を受けている。

では、それらのイメージを誰が制作し、流布しているのか?このことを大きく考えていけば、それは一義的には欲望を煽って購買を促す産業界であるし、もっといえば「私たちの世界観を包摂する社会/システム」すなわちフィクションの側だと言える。あえて巨視的にいうならフィクション側が、社会の欲望を、そして個人の欲望を創造し供給するのだ。

その時に、大いに効果を発揮する意味体験こそが、今回の「レバレッジ」である。「個人の欲望」を煽るためにフィクション側が用いる、常套手段としての意味体験、と見ることさえできる。

「レバレッジ」の意味体験とカテゴリー

「レバレッジ」の意味体験とは、大きく言えば、「カッコいいと思う」「憧れる」「自分もああなりたい」と思わせる意味体験である。大きく言えば煽りであり、誘導とも言えるが、その基底には「模倣」という人間の行動原理がある。この辺りについては次回詳述していく。

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ガブリエル・タルド著「模倣の法則」
ケインズやマルクスの経済論とは一線を画し、経済をはじめ人間社会自体が「模倣」によって成立していると説く、19世紀末の社会学者による名著

さて、レバレッジとは梃子のことだ。

自分も「あの車」に乗れば、カッコイイと思われる。私もああいう髪型になればイケてる女に見られる、などなど。自分の商品価値を引き上げてくれる「梃子」として「あの車」や「あのシャンプー」その他諸々があり、そして「お手本」としてそれを纏ったモデルや俳優が登場し、その状況を惹き立てる「イカす・イケてる舞台設定」が用意される。

それを見る側に「自分もああなりたい」「あの商品価値を手に入れたい」と思わせることで、欲望が生成され扇動が始まる。ここに「欲望の駆動」が完成する。

ということで、自分の「商品価値」が上がる(かの)ような見本・手本=梃子によって、個人的な欲望、人生動機を駆動させる意味体験、これが「レバレッジ」の意味体験タイプである。

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図2 「レバレッジ」意味体験タイプの位置(筆者作成)

レバレッジの意味体験タイプのゾーンは、左右に長い妙な形となっている。「社会常識に沿った=社会で支配的なもの」に近いのが左側、無頼や反逆など「挑戦・破壊」に近いものが右側、その他にもいくつかカテゴリーが存在する。

基本的には「イマ・ココ」の自分ではなく「商品価値が上がり、イケてると認知された(ある意味未知の・将来の)自分」を措定する意味体験なので、リフレーム・異化に属するカテゴリーである。

ただ面倒なのは、その「イケてると認知された」スタイルが、ある程度「社会常識に沿い」、あるいは「社会にカッコイイと認知され」ていなければそもそも成立しない、という所だ。事前に社会に認知されたお手本がないと「カッコいい」は成立しにくい。ただ、それだとそもそも「リフレーム・異化」でもなんでもない。そのような含意のもと、上図のような横長のゾーニングになっているというわけである。

以下、実例で「レバレッジ」内の代表的なカテゴリーを示していこう。

(1)「グッドルッキング」 外面的な商品価値を感じる意味体験

「ルックスがイケてる」「見た目がカッコイイ・美しい」「嫉妬する」

こういうルックスなら他人より優位に立てる、商品価値が高いと認められる、そんなお手本=ロールモデルとしての「表層のカッコよさ、キレイさ」を感じさせるカテゴリーである。外見や表層、あるいは記号性(ブランド品や高級車など)において他者より優位に立つ、もっといえば他者を見下し差別化できる、ということが重要になる。

中でも外見、表面的なキレイさ、カッコよさが表現の核にある。顔や身体美、身のこなしなどが中心にあり、広義には「こうした美しい人は、こういうモノやサービスを使っています」といった間接的イメージもこのカテゴリーに入る。当然ながらフェイスのよい俳優やモデルが起用され、場所的にも(東京なら)代官山とか麻布、あるいはオシャレな海外が舞台となる。トレンドに合った小道具やファッションももちろん頻出する。

ここで惹起される「自分もこうなりたい」「真似したい」という気分は、心理学的には「自己同一化」と言われるが、映画全盛時代の用語でもあり、現在では「やや錆びた」概念となっているようだ。

それを正確に裏付けるわけではないにしろ、TVCMでこのカテゴリーが一大勢力をなしていたのも80年代から90年代初頭だ。特にクルマと化粧品はこのカテゴリーの中核で、その他清涼飲料水やエアコンまでが、こうした「カッコよさ」訴求で作られていた。「いやキミ、商品と関係ないだろ」感のするカッコイイ外国人俳優が画面を埋め尽くしていたものだ。

最近では、このカテゴリーのものはそこまで目立たず、量もめっきり減った印象がある。

(2)「センスエリート」 センス面での商品価値を感じる意味体験

(センスやノリが)「イケてる・イイ感じ」「お洒落っぽい・都会っぽい」

「表層・ルックス」というよりは「センスのイケてる感」が引き立ち「トレンドっぽさ」「今っぽさ・新しいセンス」を感じるカテゴリーである。流行りの商材・サービスやイケてるデザインモノが多く訴求され、こうしたモノやサービスを取り入れた生活スタイルにすれば、自分も時流のノリに沿った、イケてる人種の仲間入りができる、と感じさせる。

多少硬いコトバでいえば「生活の文化性が高い」ということに近いが、ここでは文化性の高さ=新しさや都会っぽさ、デザインっぽさへ特化・変形させられているのが特徴でもある(本来、文化性の高さはむしろ古典やヘリテージへの教養を意味していた)。この変形の含意についても次回述べていこうと思う。

若者感もあり、場所的な比喩でいえば(東京なら)渋谷とか原宿とか、ファッショナブルで若く活気のある、垢抜けた舞台となる。生まれつきの度合いが関係してしまう「表層・ルックス」よりはハードル低く他者優位感(=他者に勝つ感)をゲットできる。

(3)「プレステージ・ステイタス」 リッチでステイタスを感じる意味体験

「羨ましい」「リッチ」「セレブっぽい・VIPっぽい」

maidigitvから引用

その昔「ヤンエグ」という言葉があったが、ある意味そのど真ん中のカテゴリーである。受ける印象=「感じ」としては、裕福さや高級さがその中核にあり、高級車やヨット、別荘やパーティなどがイメージ記号として頻出する。いわゆる「セレブ」「リッチ」(成金)系というヤツだ。他者優位の感じが全開であり、見たまんまマウンティングそのもの、と言ってもよい。

「モノ・コト」としてのプレステージやステイタスは、その昔「いつかはクラウン」というTVCMが流行したように、人生目標の設定として大変わかりやすい。裏を返せば、多くの人々が「羨ましい」と思える共通イメージを打ち立てることに成功すれば、それが「社会常識的な」欲望となり、多くの人々の人生動機・人生目標になる。このタイプが最も「フィクションに迎合的」であることとも関連している。つまり、このカテゴリーが強くなればなるほど、フィクションもまた自己強化されていくのだ。

(4)「エッジ・オルタナティブ」 「反抗的な見てくれやありよう」に憧れる意味体験

「エッジ・とっぽい・尖ってる・不良っぽい」「悪戯っぽい」「キレてる・ヤバい・残酷」

ココは一転して、社会常識にアンチな「オリジナルな自己主張」を通じてカッコよさを感じさせるカテゴリーだ。ある種の異常性(オリジナリティ)を帯びた見た目=ビジュアル、言動や態度が「カッコいい」感じをもたらす。当然ながら「表現者」を中核としていて、ロックやパンク、ストリート系など音楽ジャンルでのアイコンが多く、それを追う形でスポーツジャンルでのイメージも多産されてきた。

※今回は例示していないが、いわゆる反逆系のバンドやグループのPVなどのほうが、事例としてよりしっくりくるだろう。

当然、若く反抗的な層はこうしたカテゴリーを好むし、生活内にこれらのアイテム記号がどっさりあふれている場合が少なくない。また表現者が個人崇拝的に「神格化」されることも多い。

こういう尖った視点から見ると、「社会常識に沿った」人生動機などクソそのものである(特に(3)、本来は(2)も)。社会常識に反発することで、社会に震撼や困惑を生じさせる意味で本来「挑戦・破壊」と重なり、「その痛快さによって喝采を受けるべき」カテゴリーである。

しかし実際にはきわめて「生ぬるい」というのが正直なところだ。例えば、ラップスターが高級車に乗ってたり、セレブな生活を垣間見せたりしてしまうのが普通になっているのは、構造的には本来バグっている。この構造的バグの理由はすでに「挑戦・破壊」の稿(Vol.18「挑戦・破壊」の先の「自由」)にも一部書いたのだが、要はフィクションへの反逆は本質的に不可能で、概ね「フリ」でしかない、ということだ。余裕があれば次回またおさらいしたい。

(5)「ハイ・パフォーム」 グルーブ・神業

主に身体性を伴った神業に感染する意味体験…「スゲー/ヤベー/神」

このカテゴリーはシンプルでわかりやすい。目の前でハイパフォ=神業が炸裂すればいい。それはスゴイし、息をのむ。当然、もし自分がそれをできたら問答無用で周囲より抜きんでることができる。「スゲー」のあとに「自分もあんなことができるようになりたい」がくる場合も多い、という意味では「模倣」を促すロールモデル性も高い。

このカテゴリーでは、どこか肉感的でグルーヴィーなものが主流である。同時に、どこか「常識破り」な部分がないといけない。つまり伝統芸能や職人芸による神業、とは全く違うのだ。「型破りによる驚嘆」が必須となる。その意味では(4)と同様、「挑戦・破壊」っぽい面もややあると言えるだろう。

(6)「スピリット」 オリジナルっぽい生き様の強さ・反骨さを感じる意味体験

「リスペクト・生き様がイケてる」「シビれる」「昂る・荒ぶる」

これも、社会常識と一線を画す「オリジナルな自己主張」を通じてカッコよさを感じさせるカテゴリーだ。その意味で(4)の「生き様」バージョンとも言える。こちらは見た目の反逆感より、スピリットとしての反骨性がその主流となる。

「長いものに巻かれない」「圧倒的自信」「人に何を言われても我を通す」あたりの世界観が多い。反骨スピリットである。当然ながら「社会常識に沿った」人生動機とは相容れない感じを醸す。

各カテゴリーの位置関係

以上、6つのカテゴリーに大別して、「レバレッジ」という意味体験のバリエーションを見てきた。レバレッジという意味体験がもたらす暗黙のメッセージを言語化するなら、

「欲望を達成するために武装せよ、そして競争に勝ち、他者より優位に立て」

とまあ、ほぼそういうことだろう。

繰り返せば、レバレッジというのは「梃子」である。「そのままでは商品価値の低い自分」を自覚させ、競争優位への欲望を焚きつけつつ、「梃子」の力で押しあげ=ゲタを履かせ、「勝てそうな感じ」を与えるのだ。

ゆえに「梃子」は武装化のツールとも言える。具体的にはそれは高級車だったりブランド衣服であったり化粧品であったり整形だったりする。これら「梃子」たちは、「お前も商品価値まだ上げられるぞ、勝てるぞ」という意味体験をもたらす。

この武装化のジャンルを、ひとまず6カテゴリーに分類・例示してきたが、以下にこの6つの位置関係を図示してみた。

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図2 「レバレッジ」タイプ内の、各意味体験カテゴリーの位置 (筆者作成)
(1)グッドルッキング(2)センスエリート(3)プレステージ・ステイタス(4)エッジ・オルタナ(5)ハイ・パフォーム(6)スピリット

(3)はフィクションに迎合的な分、一番「リフレーム・異化」から遠いところに位置している。そしてここに(2)も近づけた。(4)(5)(6)は全体的に「リフレーム・異化」側と考えて差し支えないのだが、「反骨・反逆度」との兼ね合いで(2)だけやや離し、(1)と同類にまとめてみた。

差し当たりこれら6つが、人生動機を個人的欲望からみた際の、人より優位に立つための「武装」ポイントだ。人々は自分の商品価値を上げるため、これら自己実装可能な「武器」に群がってきた。

さて、(3)だけが実は「武器」ではない。ここでは「勝利者の報酬」イメージをもっぱら見せている。勝利者とは、時代のフィクションに最適化できた=成功した姿の投影である。最も「社会常識に沿った」欲望に近く、同時にきわめて欲望喚起的である。

また、上述の通り(2)もやや「社会常識に沿った」方向寄り、と本稿では捉えることにした。というのも「流行」や「お洒落な生活」などと言う以上、現行のフィクションが提供する欲望に迎合的としか思えないからだ(もちろん全く別の出自による例外もあるが)。

一方で、(4)や(6)はその対極にある。最も「社会常識に沿った」欲望からは遠く、社会常識的な欲望をリフレームしてやろうという意志が強い。

(1)や(5)は、どちらも「自分もああなりたい」という自己同一化に繋がるエッセンスがあり、しかもかなり「素」かつ「シンプル」な憧れを孕んでいることから、「描望」タイプの「憧憬」カテゴリー(Vol.15参照)にもやや近いとして、一旦その位置に整理してみた。

こうしてみると、これらは「武装」ポイントであると同時に、メディアを通じて人を焚きつけやすい「6つの欲望のボタン」のように見えてくる。

ひとつ間違いないように補足すれば、これはなにも「人のもつすべての欲望」のことではない。あくまで「梃子による武装」によって「他者より優位に立つ」タイプの欲望、においての話である。

フィクションの変わり目・魔法が溶けゆく?

さてここでぶっちゃけた話になるが、上記に挙げた6カテゴリーの各参考例(今回もTVCMに限定した)が、「いま現在」から見るとなにか時代錯誤的に見えるんだよなあ、と思われた読者の方もいるのではないだろうか。

まさにその通りで、上述「6つの欲望のボタン」はあるにせよ、その実例=TVCMのほうが(強弱はあるにせよ)その神話性=魔法としての「神通力、煽り力、欲望を焚きつける力」を失っている途上にあるのかもしれない、と筆者も感じている。それはなぜか。今一度フィクションと人生動機の図に戻ってみよう。

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図1(再掲) 「フィクション」と、2つの人生動機(社会常識的・個人的欲望)の関連性(筆者作成)
社会常識的な人生動機は、当然ながらフィクション(=社会が常識視する世界観・物語)に条件づけられている
人生動機においては、社会常識的なものに親和的な個人的欲望(♡)と、敵対的な個人的欲望(X)がある

今がFiction2からFiction2 newへの変化の移行期にあるとすれば、当然人生動機の持ち方は変わってくる。6つのボタンに対応する「実例」も各々変化してくるはずなのだ。当然ながら、旧来のFiction2における実例=人生動機イメージがしっくりこなくなる。おそらく構造的な原因はここにある。

今後Fiction2 newが本格展開してくるとすれば、そこでの「羨ましい人生コース」がどうなるのかはとても興味深い。資源(水や耕作地)を持つ者になるかもしれないし、依然金融資産を持つ者かもしれない。遺伝子をより多く残す者になるかもしれない。

「羨ましさ」を感じるようなアイテムや様式、スタイルとしてのイメージ、「見せ方」はどうなるのだろうか。あるいはそもそも「羨ましい」という感覚が変わるのかどうか、そこも気になる。

ということで、次回はFictionと人生動機の関係性をより掘り下げつつ、「レバレッジ」感の今後についても含めて、さらに考察していきたい。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/