キヤノンが本格的にプロやアドバンスドアマチュアをターゲットとする一眼レフの初号モデルと言えば、言うまでもなく「キヤノンF-1」だ。1971年3月の発売時には、システム一眼レフとしてモータードライブをはじめとする様々なアクセサリーも同時に展開し、当時「ニコンF」一択であったハイエンド一眼レフというカテゴリーに一石を投じたことは写真愛好家の間でよく知れている話である(F-1の本当のライバルとなる「ニコンF2」の発売は1971年9月)。
当時を知る方々に話を聞くと、メーカー販社はF-1を必要とする写真家、プロカメラマンにはレンズも含め積極的に貸し出しを行うなど営業活動が盛んであったという。その甲斐あってF-1はたちまちプロのカメラとして地位と信頼を獲得し、それは現在の同社ハイエンドミラーレス「キヤノンEOS R1」まで面々と繋がっていくことになる。
今回の「キヤノンNew F-1」はその二世代目として1981年9月に登場したカメラである。際立った特徴といえば、それまでメータードマニュアルのみとしていた露出モードに絞り優先AEとシャッター優先AEを追加。シャッター機構には機械制御式と電気制御式を組み合わせるなど時代に即したものとしている。ライバルはもちろん1980年3月発売の「ニコンF3」である。
※画像をクリックして拡大
※画像をクリックして拡大
ただし、New F-1のAEは一筋縄ではいかない。絞り優先AEでの撮影は「AEファインダーFN」を装着したときしか機能せず、デフォルトのファインダーと述べて差し支えない「アイレベルファインダーFN」では同AEによる撮影は不可能なのである。また、シャッター優先AEはアイレベルファインダーFNでも使用できるが、「AEモータードライブFN」または「AEパワーワインダーFN」を装着したときでないと機能しないという、今になって思えばなんとも摩訶不思議なAEであった。
※画像をクリックして拡大
※画像をクリックして拡大
なお、アイレベルファインダーFNでも絞り優先AEは機能すると言われているが、設定した絞り値やその結果によるシャッター速度が同ファインダーでは表示されず、メーカーも推奨していない。
シャッター機構については最高速の1/2000秒から1/125秒までと、X(シンクロ同調速度1/90秒)、およびB(バルブ)は機械制御式シャッター、1/60秒から8秒までは電気制御式シャッターのハイブリッドタイプとする。現在の感覚からすれば全て電気制御式シャッターにしてもよかったのではないかと思われるが、当時はまだまだ電源を必要としない機械制御式シャッターに対する要望の多さに応えたものといえるだろう。
※画像をクリックして拡大
購入の際は、アイレベルファインダーFNを搭載するモデルと、AEファインダーFNを搭載するモデルが選べたが、アイレベルファインダーFNではキヤノンの伝統と言うべき中央部分測光タイプのフォーカシングスクリーンの搭載をデフォルトとし、AEファインダーFNでは絞り優先AEでの使用を考慮して中央部重点平均測光タイプのファインダースクリーンがデフォルトで装着されていたのも特徴である(スクリーンのタイプはどちらもスプリット、マイクロ、マットの3つで測距のできるニュースプリットマイクロであった)。
筆者(大浦タケシ)は1983年にこのNew F-1を手に入れた。購入した理由はちょっと恥ずかしいのだが、当時、丁稚のように某写真家の事務所に出入りしており、その写真家の使っていた2台のAEパワーワインダーFNを装着したアイレベルファインダーFN仕様のNew F-1がとてもカッコよく見えたことに他ならない。ちなみにその写真家の紹介で当時のキヤノン販売の方々を紹介していただき、それが現在まで自分の仕事用カメラとして同社の製品を使っている理由となっている。手に入れたNew F-1は、AEファインダーFNを搭載するモデルで、自分にとって初めてのAEカメラでもあった。
※画像をクリックして拡大
※画像をクリックして拡大
New F-1での最初の仕事はアルバイトとなるが、1983年12月に行われた衆議院の総選挙であった。当時、筆者はまだ学生で冬休みが始まったばかり。宮崎県都城市の実家にストロボも含めカメラ一式を持って帰省していたのだが、それを知った地元のカメラマンが声をかけてくれたもので、某新聞社支局依頼の案件であった。仕事の内容は夜、開票結果の分かった候補者の様子をカメラに収めることだったが、タイミングよく自分が担当した候補者の落選が判明し肩をがっくり落とした瞬間をNew F-1で捉えたのである。
すぐさま新聞社の用意してくれたタクシーで支局に戻り、一浴現像定着法でモノクロフィルムを現像。水洗後ドライヤーでフィルムを乾かし記者にプリントするコマを選んでもらい、キャビネサイズにプリント。電送で北九州市にある新聞社の西部本社へとその夜のうちに写真を送ったのである。写真は、投票および開票日の翌々日である火曜日朝刊の地方面に現職閣僚であったこともあり大きく掲載された。掲載紙を見て嬉しく思うとともに、一丁前の報道カメラマンになったような気がしたことを記憶している。
ちなみに自分の父親はあまり熱心ではなかったものの、その候補者を支持しており、新聞に掲載された写真を撮ったのは自分だと教えたら、こんな状況の写真を撮るんじゃないと怒られたこともよく覚えている。
社会人となり仕事でオートバイのレースを主に撮るようになると、同じくAEファインダーFN仕様のボディをもう一台手に入れるとともに、それぞれにAEモータードライブFNを装着。さらに中古の「FD300mm F2.8」と「FD500mm F4.5」を長期のローンで揃えた。撮影ではその2本の白レンズを装着した2台のNew F-1それぞれを両肩に下げて撮影に臨んだわけだが、AEモータードライブFNには各12本の単三型乾電池も装填されており、その重量たるやお察しのとおり。
加えて数本の交換レンズや予備の単三型乾電池、そしてフィルムを入れたテンバのショルダータイプのカメラバッグ(当時はバックパックタイプのカメラバッグは少なく、ショルダータイプのカメラバッグが主流であった)も肩から下げると、それは広いサーキットやフィールドなど急ぎ足で歩き回るような状況では息が上がってしまうほどであった。
数年後には職が変わり撮影の対象も含め使用頻度の高いレンズや装備類は変わっていったものの、「キヤノンEOS-1」を手に入れるまでNew F-1は長く愛用した。その間、自分なりに大切に扱っていたこともあり、機構的な故障は一度も経験したことがなく、フラグシップモデルらしい高い信頼性と堅牢性で支えてくれたと思っている。
※画像をクリックして拡大
今現在そのNew F-1はFDレンズとともに防湿庫のなかで長い眠りについている。今回の記事執筆にあたり久しぶりに防湿庫から取り出し、空シャッターを切っているとカメラとしてのつくりの素晴らしさに加え、いろいろと若かったあの頃のことを思い出すことが多かった。機会があればもう一度このカメラで撮影を楽しんでみたいが、その際はAEモータードライブFNは外しておこうと思ったことは言うまでもない。
大浦タケシ|プロフィール
宮崎県都城市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、雑誌カメラマン、デザイン企画会社を経てフォトグラファーとして独立。以後、カメラ誌をはじめとする紙媒体やWeb媒体、商業印刷物、セミナーなど多方面で活動を行う。
公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。