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往年のフィルムカメラらしいスタイルのペンEE-3。外装およびシャーシーとも金属製とする。専用のストロボを使用すれば適正露出が簡単に得られるフラッシュマチック機構を搭載する

ハーフサイズカメラの時代とオリンパスペンEE-3

1960年代から70年代初頭にかけハーフサイズのフィルムカメラが広く人気を博した。その主だった理由として、1本のフィルムで一般的な35mmカメラの倍の枚数を撮ることができ経済的であること、軽量でコンパクトであること、比較的安価であることなどが挙げられる。いくつかのカメラメーカーがハーフサイズのカメラをリリースしたが、なかでも積極的に展開していたのがオリンパスである。同社ではペンシリーズと呼び、一眼レフやワイドレンズモデルなどラインナップしていた。ペンEEシリーズはそのなかでも誰でも手軽で簡単に撮れることをコンセプトとするローエンドのカメラであった。

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搭載するレンズはD.Zuiko 28mm F3.5。35mm判換算で39mmの画角が得られる。レンズ銘Zuikoの前に付くアルファベットはレンズ構成枚数を表し、Dは4枚であることを示す。撮影レンズを囲むセレン光電池受光部の複眼レンズが特徴的

今回ピックアップした「オリンパスペンEE-3」(以下:ペンEE-3)は1973年に発売されたカメラ。ペンEEシリーズとしては3世代目にあたる。1981年に発売され4世代目でペンEEシリーズ最終モデルでもある「オリンパスペンEF」の製造終了後も販売され続け、結果的にペンEEシリーズのみならずオリンパスのハーフサイズカメラの実質最終モデルともなった。

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ペンEE-3は、固定焦点、プログラム露出のみというシンプルな機構のカメラで、ユーザーは被写体にカメラを向けシャッターボタンを押すだけであった。発売開始は1973年。当時の価格は1万2,800円
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ハーフサイズのカメラなので内部の照射開口部も、ファインダー接眼部も縦長。フィルム巻き上げはダイヤル式としている。外装のみならずシャーシーも金属製で、堅牢なボディ構造であることが分かる

友人のカメラが教えてくれたこと

またまた私の高校時代の話で恐縮だが、同級生にサワダ君という男の子がいた。当時彼とは仲良くさせていただいており、カメラの話を昼休みや放課後など交わすことが多かった。その彼が所有していたのがペンEE-3であった。彼は誰よりも勉学に励み、極めて真面目な生徒だったので、学校に無断でアルバイトをし、そのお金で一眼レフカメラを勢いで買うような誰かとは違い、僅かばかりの小遣いから身の丈に合ったカメラを購入したのだ。そんなある日、学校の屋上でお昼のお弁当をいっしょに食べているときのことである。私は彼のペンEE-3を借り、彼自身に向けて何気なくシャッターボタンを押した。後日そのときの写真(プリント)をサワダ君が見せてくれたのだが、それは驚くべきものであった。

彼のあばた顔や眼鏡の黒いフレーム、手に持った箸や弁当箱が鮮明に、しかも極めてシャープに写っていたのである。プリントは近所のDPEショップでカラーネガフィルムから焼いたEサイズ(サービスサイズ)であったが、写りを知るには十分なものであった。同時に固定焦点のカメラ、ハーフサイズのカメラをちょっと斜に構えて見ていた自分の偏った考えを一変させるものでもあった。当のサワダ君自身も自分のカメラで写したものでありながら驚き、それで撮影した私にプリントを見せてくれたのである。その日からしばらくはペンEE-3の凄さをことあるごとに語り合ったことは言うまでもない。

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自動復元式のフィルムカウンターを採用。カウンターの数字はもちろんハーフサイズに対応したものとしている。36枚撮りフィルムを装填した場合、72枚まで撮り切れないユーザーも少なくなかった

ちなみに、その写真はペンEE-3にとって良い結果が得られる条件が整っていたのだろう。固定焦点なのでピントを合わせる必要はないが、恐らくあらかじめ設定されたピント位置とサワダ君までの撮影距離がほぼ同じであったこと、セレン光電池式露出計による絞り値は、あの時の明るさから最もレンズの性能が引き出せるF8からF11あたりであったろうと推測される。しかもペンEE-3に限らずペンシリーズは光学系にそれなりにコストをかけていたという話があることを考えると、そのような結果となるのは必然だったのである。

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トップカバーに入るサインは、ペンシリーズやOMシリーズ、XAシリーズなどの開発設計に携わった米谷美久氏(1933-2009)のもの。ご生前インタビュー等で数回お会いしているが、その都度わがままな写真愛好家のリクエストに気さくに応じていただいた
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被写体が暗く光量が不足すると赤いマーカー(赤ベロと呼ばれる)がファインダー画面に現れるとともに、シャッターボタンにロックがかかり押せなくなる。中古カメラ店などでペンEEシリーズを購入する際は、セレン光電池受光部を手で覆い、この赤いマーカーが現れることを確認してほしい

友が予見したカメラの未来

実はここからが今回のコラムの本題である。サワダ君は未来をしっかりと見据えていた生徒でもあった。当時、銀の相場が日々値上がりしており、フィルムもその煽りを受けていた。特に愛用していたコダックのトライXやプラスXは、先々月1本300円だったのが先月は310円、そして今月は315円と少しづつではあったが、毎月のように値上がりしていたのである。そのような状況に幼心に危機感を覚えた私は、ある日の昼休みサワダ君にこの先フィルムは、銀塩写真はどうなっていくのだろうと尋ねた。そしてサワダ君はお弁当の卵焼きを箸でつかんだまま次のように丁寧に答えてくれたのである

「大浦さん、安心してください。多分写真は銀塩で形成されたものから電気信号で形成されたものに変わりますよ。」

"デジタル"という言葉こそ用いなかったものの、九州の片田舎に住む一高校生が、1980年の秋、カメラの将来をそう見据えていたのである。そのときはなるほどとは思ったものの、まだまだ先のことだろと私は軽く頷くにとどまった。ところが翌1981年に東京の大学で私は写真を勉強することになるのだが、入学早々のガイダンスの時間、センシトメトリーの授業を担当し写真カメラ業界でよく知られていたI教授が世界初の電子スチルカメラ「ソニーマビカ」の話をしてくれたのである。その瞬間サワダ君のあの時の言葉が鮮明に蘇ったことは述べるまでもない。そして、私自身これは近い将来カメラは大きく変わるぞと思ったのである。ちなみに今だから言えるのだが、マビカの公式発表は1981年8月とされている。しかしながらガイダンス時のI教授による話はそれよりも前の4月だったので、所謂フライングだったのである。

(※センシトメトリー:フィルム、印画紙等の感光特性を測定し、その性能を客観的に評価すること。ここではその授業名である)

今でもペンEE-3を見るたびに、サワダ君のことを、そして45年前に私に話してくれたあのセリフを思いだす。風の便りでは、九州のどこかの街でドクターとして活躍されているという。高校卒業以来自分の不精もあって疎遠となっているが、願わくならもう一度お会いし、これから先のカメラについて話を伺えればと思っている。

大浦タケシ|プロフィール
宮崎県都城市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、雑誌カメラマン、デザイン企画会社を経てフォトグラファーとして独立。以後、カメラ誌をはじめとする紙媒体やWeb媒体、商業印刷物、セミナーなど多方面で活動を行う。
公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。