東京・天王洲の寺田倉庫 G1ビルで6月28日まで開催中の「動き出す妖怪展 TOKYO ~Imagination of Japan~」は、日本の妖怪美術を題材に、映像、立体造形、音響を組み合わせて異界への没入を試みる体感型展示である。
主催者は、江戸・明治期の妖怪画を最先端の映像技術と立体造形で再構成した「世界初のイマーシブ体感型デジタルアートミュージアム」とうたうが、実際に会場を見ていくと、この展示の強みは映像技術そのものの新しさよりも、妖怪という存在を空間のなかにどう立ち上げるかという演出設計にあるように思える。
デジタル化が妖怪美術に新たな入口を与えていることは確かだが、その一方で、原画が持つ不穏な気配や曖昧さを、わかりやすい体験へと整理しすぎてしまった印象も残った。
妖怪美術の紹介であると同時に、体験型展示でもある
本展は、「百鬼夜行」「百物語」「鬼」「天狗」「河童」「付喪神」などをベースに、プロジェクション映像と立体造形を組み合わせて構成されている。特別協力には西尾市岩瀬文庫と小豆島の妖怪美術館が入り、主催側としては単なる映像イベントではなく、妖怪文化の解説も含んだ学びの要素を備えた展示として打ち出している。つまり本展は、妖怪をモチーフにしたアトラクションというより、妖怪美術の紹介と空間演出を接続しようとする企画として設計されている。
映像よりも、空間の切り替え方が効いている
会場体験としてまず印象に残るのは、映像そのものの派手さ以上に、空間の切り替え方の巧みさだ。順路の先が一瞬わかりにくくなるような回遊性や、出入口と展示面が曖昧につながる構成が、異界に迷い込む感覚を生んでいる。妖怪を見るだけでなく、薄暗い空間の中を進みながら次の場面に遭遇する構造が、結果としてお化け屋敷とは異なる、不安と好奇心が入り混じる身体的体験を成立させている。
ここで効いているのは、デジタル単体の力ではない。導線、造形、照明、暗がりと結びついたときに、初めて映像が意味を持っている。言い換えれば、この展示を成立させているのは映像の強さより、空間演出の総合力である。
記憶に残るのは画面ではなく、妖怪の気配だ
実際、来場者の声として表に出てきているのも、単なる映像の迫力ではない。主催側の発表でも、「映像の中の妖怪を探す体験ができた」「子どもが遊べる場所や動く仕掛けもあり楽しかった」といった反応が紹介されている。
印象として残っているのは、妖怪を探す体験、立体造形の不気味さ、身体を使って空間に関わる感覚であって、超高精細な映像再現そのものではない。妖怪という題材において重要なのは、画面の情報量よりも、その場に何かがいると錯覚させる距離の設計なのだろう。
ただし、動かしたことで失われたものもある
その一方で、本展のデジタル表現には気になる点もある。妖怪画の魅力は、絵としての巧拙だけではなく、何が描かれているのかが一見して定まりきらない曖昧さや、紙の上に描かれた線の癖、不自然さ、余白が呼び込む想像力にある。しかし、それを大型映像として動かすと、妖怪はしばしばわかりやすいキャラクターへと整理され、異形の気配よりも、見世物としての快楽が前に出る。公式には大人から子どもまで楽しめる新感覚アートエンターテインメント展と位置づけられており、その意味では狙い通りなのだろう。
だが、妖怪美術の現代的再解釈として見た場合、デジタル化は入口を広げる半面、妖怪が本来持っていた説明しきれなさや、見る側に委ねられていた想像の余白を削ってしまっている。ここは本展において、体験型展示としてのわかりやすさと、妖怪美術としての不穏さが最もぶつかる部分である。
面白いのは、デジタルだけで押し切っていないことだ
逆に言えば、本展が面白いのは、その弱点をすべてデジタルで押し切ろうとしていない点にある。映像だけで完結させず、立体造形や回遊導線、暗がり、突如現れる演出など、古典的な展示技法やフィジカルな手触りを多層的に組み合わせているからこそ、会場は単なるプロジェクションイベントに留まっていない。
つまりこれは、デジタルアート展というより、デジタルを一部に用いた妖怪空間の演出展と見たほうが、実態に近い。皮肉なのは、そう見たときのほうが、この展示はむしろよくできているということだ。
ゴッホ系イマーシブ展示との違いはどこにあるのか
その意味では、本展を近年のゴッホ系イマーシブ展示と単純に同列には置けない。たとえば同じ寺田倉庫 G1ビルで2024年に開催された「ゴッホ・アライブ」は、大壁面や床への投影に加え、音楽や香りも用いながら、作品、生涯、時代背景を総合的に体験させる構成を取っていた。そこでは、観客はゴッホの世界に浸ることが主眼になっていたと言っていい。
これに対して「動き出す妖怪展 TOKYO」が目指しているのは、妖怪画そのものの鑑賞体験を拡張すること以上に、妖怪という存在に遭遇する場を空間のなかに成立させることだ。だからこそ本展では、映像単体の迫力以上に、立体造形、暗がり、回遊性といった非映像的な要素がより大きな意味を持つ。逆に言えば、映像だけを評価軸にすると、この展示の本質を見誤る。
異界を成立させたのは、映像そのものではなかった
PRONEWS読者に引きつけて言えば、本展は先端映像技術を誇る事例というより、映像だけでは異界表現は成立しないことを示す事例として興味深い。映像、造形、照明、音、導線、そして鑑賞者の歩行速度まで含めて設計されて初めて、妖怪は「動く」のではなく「現れる」。しかも、その現れ方が生々しい場面ほど、デジタルは前面に出ず、むしろ裏方として機能している。画面を増やし、動きを強めれば没入が深まるわけではない。むしろ、見せすぎず、説明しすぎず、想像力の余地を残すこと。その引き算の設計こそが、妖怪という主題においてはもちろん、空間体験全般においても、映像表現の質を左右するのではないか。
本展が示しているのは、デジタルの万能さではない。デジタルを前に出しすぎたときに失われるものが、確かにあるという事実である。