序章:ビデオアートの父とサイネージの未来
ナム・ジュン・パイク(1932–2006)は「ビデオアートの父」と呼ばれる。彼は単にテレビを素材として扱った最初のアーティストというだけでなく、メディアそのものの社会的な意味や存在感を再構築し、芸術とテクノロジーを結びつけた先駆者であった。
1960年代、彼は「テレビは単なる受信機ではなく、演奏可能な楽器である」と宣言した。テレビをピアノの鍵盤に見立て、映像を音のように操作する発想は、のちのメディアアート全般、さらには今日のデジタルサイネージやインタラクティブ広告の思想的源流になっている。
韓国にはパイクの名を冠した、あるいは彼の作品を恒常的に展示する拠点が3つ存在する。ソウル市立美術館の「ナム・ジュン・パイク記念館」、京畿道龍仁の「ナム・ジュン・パイク・アートセンター」、そして国立現代美術館(MMCA)果川館に設置された《The More, The Better》である。これらは単なる美術館以上の意味を持ち、サイネージや都市メディアを手がける者にとって「自分たちが立っている場所の原点を知る」貴重な教材になる。
ソウル市立美術館の分館 ナム・ジュン・パイク記念館
ソウル・鍾路区にあるこの記念館は、パイクが幼少期を過ごした韓屋を復元し、その空間全体を記憶装置とした施設である。伝統家屋と映像メディアという組み合わせは一見異質だが、まさにそこにパイク的発想が潜んでいる。
彼の幼少期や両親のことが、ページをめくるごとにテレビやラジオから流れてくる
館内には彼のニューヨーク・ソーホーのスタジオやデスクが再現されている。筆者はパイク氏と仕事をさせていただいたので何度も話をしているが、ここは彼の人となりを感じることができる場所である。作品展示というよりは、彼を感じるための絶好の場所である。年表などが充実しているが、韓国語表記のみなのでスマホの翻訳が欠かせない。
京畿道・龍仁 ナム・ジュン・パイク・アートセンター
2008年に開館したこの美術館は、世界で唯一のパイク専門拠点である。アーカイブの充実はもちろんだが、展示の企画力にも定評があり、パイク作品を現代のデジタル環境の中でどう読み替えるかを常に模索している。なお本館は撮影が認められていないので、公式サイトなどで確認していただきたい。
代表作《Key to the Highway(Rosetta Stone)》(1995)は、ロゼッタ・ストーンを模した造形に、テレビや衛星の象形記号を刻み込んだものだ。これは単なる映像作品ではなく、情報技術の歴史的レイヤーを視覚化したものといえる。
また常設展示ではないが、《Sistine Chapel》(1993)も特筆すべきだ。四方八方からプロジェクターが映像を投影し、観客を映像の洪水の中に没入させる。これは今日のプロジェクションマッピングやドーム型LED演出の直接的ルーツにあたる。
本館の展示からサイネージ関係者が得られる教訓は二つある。
- 情報を重層的に提示すること:ひとつの画面に収めず、複数のレイヤーや象徴を積み重ねる。
- アナログ的質感の再評価:パイクはCRTの歪みやノイズを積極的に活かした。現代でもあえてローファイ表現を混ぜることで、逆にリアリティや人間味を引き出すことができる。
常設展示と企画展が行われており、筆者はこれまで2回訪問しているが、それぞれ異なる体験をすることができた。明洞からだと5005か5008のバスを利用して50分ほどで行くことができる。
国立現代美術館 果川館《The More, The Better》
1988年、ソウル五輪を記念して設置された高さ18.5mの映像タワー《The More, The Better》は、1,003台のCRTを円筒状に積み重ねたモニュメントだ。2015年に修復され、2022年に再点灯を果たした。以下は2025年1月の撮影である。
この作品は、サイネージに携わる者にとって「世界遺産級」の存在である。その理由は、量とスケールの力学を純粋に突き詰めた点にある。映像コンテンツそのものに加えて、無数のブラウン管が集合する圧倒的な存在感が見る者に衝撃を与える。
デバイスの数や質量そのものが表現になっている。そして1003面のマルチスクリーンの表示パターンやその制御が計算し尽くされている。
1988年当時のビデオ技術はアナログであって、ビデオサーバーはまだ存在していない。本作はおそらく10ソースほどの映像をUマチックかβカムのデッキで再生し、複数パターンの配信系統を切り替えながら運用していたものと思われる。当時の正確な資料が公開されていないので不明である。
真ん中9面部分のマルチ画面処理に注目
現代の都市型LEDビジョンやメディアファサードは、この発想をさらに拡大・進化させたものだといえる。《The More, The Better》を理解することは、都市サイネージのスケール戦略を理解することに直結する。
その後、経年劣化によって表示が困難となったために、修復が行われた。修復にあたって最大の論点となったのはすべてを現代のLCDに置き換えるのか、それともCRTを守るのかであった。
韓国国立現代美術館(MMCA)が下した判断は、作品の原型を最大限維持するという方針である。パイクの作品においてCRTが持つ厚みやノイズ、発色の質感は単なる映像装置以上の意味を持つため、可能な限りブラウン管を残すことが選ばれた。
その結果、1,003台のうち737台は中古CRTや部品を調達して修理・交換が行われ、オリジナルの状態を維持した。一方、修復が困難と判断された266台の小型CRT(主に先端部に設置されている6インチ(約15.2cm)や10インチ(約25.4cm))については、外観をCRTに似せた平面LCDに置換することで、視覚的な一貫性と作品の持続性を両立させている。
こうして再点灯した《The More, The Better》は、CRT主体+LCD補完というハイブリッド構成で稼働している。外観的には当初の印象を極力残しながら、技術的には現代のサポートを組み込むという、この折衷的アプローチこそが本作を未来へ継承するための唯一の現実的解であった。
完全なLCD化ではなく、あえてCRTを守り続ける姿勢は、メディアアート保存の難題である「原型維持」と「持続可能性」の両立を示すモデルケースといえる。
サイネージ業界にとっても、これは機器更新や保守を考える上で重要な示唆を与えてくれる。すなわち、新しい技術への全面移行が最適解とは限らず、過去の質感や記憶をいかに残しつつ現代的に運用するかが、価値創造のカギになるのである。
このビデオでは下から最上部まで周回しながら上がっている
日本に現存するパイクのデジタルサイネージ作品
日本でもパイクの作品が同じタイミングで修復が行われている。1996年、キャナルシティ博多の開業に合わせて設置されたナム・ジュン・パイクの《Fuku/Luck, Fuku=Luck, Matrix》は、180台のブラウン管テレビを縦横に並べた大規模インスタレーションである。「福岡の福」と「幸運(Luck)」を掛け合わせたタイトル通り、商業空間を映像体験の場へと変える作品だった。
しかし、こちらも設置から20年以上が経過するとブラウン管の故障が相次ぎ、2019年頃に上映が停止。そこで約4年に及ぶ修復プロジェクトが始まり、CRT基板の交換や再調整が行われた。劣化した制御装置は現代技術で再構築され、2021年8月に再点灯を果たしている。現在は1日3回、正午・15時・18時から1時間ずつ上映され、来館者に映像の洪水を再び体験させている。
サイネージ応用事例にみるパイク的継承
ここからは、パイク的な思想を受け継ぎつつ、現代サイネージに展開されている代表的事例を紹介する。
究極の没入体験:ラスベガス Sphere
2023年に本格稼働したラスベガスのSphereは、直径157mの巨大な球体を外壁・内壁ともにLEDで覆い尽くした前代未聞の施設である。内部の観客は4D的な没入感を味わい、外部の街並みに対しても強烈なビジュアルインパクトを放つ。
だがその思想的原点は、1993年にパイクが提示した前述の《Sistine Chapel》にある。四方八方から映像を投影し、観客を映像に包囲される存在にしたパイクの実験が、30年後、最先端テクノロジーによって巨大LEDドームとして結実したのである。Sphereは最新であると同時に、パイクの没入する映像空間の理念を忠実に継承している。
自律的演奏としてのサイネージ:クロス新宿ビジョンの猫
2021年に話題となった新宿東口の3D猫映像は、巨大LEDビジョンの形状を活かし、まるで窓辺に猫が存在しているかのような錯覚を生む。基本的にはプリレンダリングされたループ映像だが、時間帯ごとに違う表情を見せる設計がなされているため、私達は生きているような印象を受ける。
これはパイクが語った「テレビはピアノのように演奏できる」という思想に近い。映像が自律的に変奏される感覚を与える点で、すでにオートノマス的な萌芽がある。今後、AI生成やセンサー連動を組み込み、天候や人流に応じてコンテンツが自律変化する方向へ進めば、本格的な「オートノマスサイネージ」へと進化するだろう。
サイネージの未来を照らすナム・ジュン・パイク
韓国の3つの拠点を訪れると、ナム・ジュン・パイクの思想が単なるアートの領域にとどまらず、今日のサイネージに直結していることを実感できる。
ソウル記念館は「空間と物語の融合」を示し、サイネージを都市文脈の語り部にする。龍仁アートセンターは「情報の重層性と質感の再評価」を促し、単なる高精細表現にとどまらない豊かさを提案する。果川館の《The More, The Better》は「量とスケールの力学」を極め、サイネージにおける世界遺産級の基準点となった。
さらに最新の事例として、ラスベガス Sphereは《Sistine Chapel》を原点とする没入体験をLED技術で再現し、クロス新宿ビジョンの猫は自律的に演奏される映像体験の萌芽を提示した。
ナム・ジュン・パイクを学ぶことは、サイネージを単なる広告装置から、都市と人をつなぐ体験装置へと進化させるための知的資源を得ることに等しい。彼の思想を受け継ぎ、現代のテクノロジーと結びつけることが、これからのサイネージの未来を切り拓く鍵になるだろう。韓国に行かれる際にはぜひこの3館に足を伸ばすことをおすすめする。
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