映像表現と気分のあいだ

今回からは「意味体験」のそれぞれの類型を深堀りしていく。代表的な類型だけで10タイプ程度はあるので、寄り道も含めると結構な回数になると想定している。

初回である今回は「リフレーム・異化(・反転)」についてである。当連載の第2回において意味体験の「Bタイプ」と称してすでに軽く触れておいたが、どの意味体験タイプもそうであるように、中味を掘っていくと当然ながら奥深い。早速長くなってしまったため2回に分け、今回はその1回目となる。それぞれの意味体験のタイプについて、より深部へと掘り込むような感じで述べていければと思うのでご容赦いただきたい。

リフレームや異化、あるいは反転、の本質

先日、三島由紀夫が東大全共闘と討論するドキュメント映画を見る機会があった。もう観られているいる方も多いとは思うが、筆者にはこの中で特に印象に残る言葉があった。それは三島の主たる論敵となる人物(芥氏)が、聴衆である、当時の全共闘の若者たちに向かって壇上から言い放ったものだ。

「お前がどこにいて、何を見てるのか?と言われてどうこたえるか。大学にいる、などの<関係づけ>が使えない場合、答えようがないんじゃないか?これが机だとか、これが900番教室だとかということすら言えない状態での問いだから」

「われわれは<一方的に関係づけられている>のだから、その関係を逆転しなくてはならない」

と彼は続ける。そしてそのためには、

「バリケードによって<あらゆる関係づけを排除した空間>を作る。われわれの側がそのバリケードよりも高みに立って関係づけを行わなければならない」

ああ、このことはリフレームや異化の本質を述べているな、と筆者は感じた。 芥氏はこのあと「事物に対するイメージを元に観念生成するような、従来の人間の思考方法」では価値の分配ができないとし、イメージを排した事物の事物性(物質性)とのみ向き合え(それが武器として使えるか?だけに注目するなど)、そしてそこから次の「生きる感覚」を育め、というような展開をしていて大変スリリングなのだが、この辺になると本稿での考察の枠を超えてしまう。興味のある方はドキュメンタリー本篇を御覧いただきたい。

ともあれ、リフレームや異化、あるいは反転の話に戻れば、上述の通りその本質は簡潔にいって「見慣れたものが変形し、別の意味になる=別の感じをもたらす」ということになる。 このための方法、それは基本的には「変形」である。そのため観る側は、「なんだこりゃ?」「ん?!なになに?」という読後感となる。

この変形はメタファーと結びついている場合も少なくない。従って、そこで「変形の意図」が解題され、そのメタファーが秀逸であれば 「なるほど、そういうことか!うまい!」という読後感をもつことにもなる。TVCMではこの解題がなされることが多い。古典的な例で言えば、落語・大喜利などで関係のなさそうなモノコトを並べ、「その心は~」と解題するのもまさに解題だ。

一方で、現実のモノコトでは解題がないということも多い。このように解題がなく、結局自分で意味がわからない場合には 「意味がわからない…」「わけがわからない…」という、驚きにもまして不可解な読後感となる。このように解題の有無によって読後感としてのポジネガの差はでるのだが、入力情報のもたらす、そもそもの意味体験(リフレーム感・異化される感じ・斬新さ≒不可解さ)はそこまで変わらない。そこにあるのはさまざまなレベルでの変形であり、リフレーム・異化という意味体験なのだ。

「さまざまなレベルでの変形」と述べたが、単純に形が変形するもの、あるいは形のほか様相や言動などを「誇張」「オーバー(過剰)」において変形するものなどは常套手段ともいえ、見慣れてもいるので「面白い、バカバカしい」のような読後感にもなる。このことは後に例示で触れていく。

ところで、「見慣れたものが変形し、別の意味になる=別の感じをもたらす」のではなく、「そもそもが見慣れない」モノコトだってあるぞ、という向きもあるだろう。 しかし、よくよく考えてみると「見慣れない料理」にしろ「見慣れないメイク」にしろ、大体は「見慣れた料理っぽくない」「見慣れたメイクっぽくない」というように「見慣れたカテゴリー概念」が前提になっていることがほとんどだったりする。 そういう意味では「遊星からの物体X」だって「見慣れたカテゴリー」があるからグロいわけである。自然界だと超常現象などがそれに当たるのかもしれないが、それでも決して多くはない。

筆者的には以前、これが割と見慣れなかったが、まあ「自ら動く油か…」ということで「見慣れた油」との比較を知らず知らずのうちに持ち出していたと思う。

つまり、本当の意味で「見慣れないもの」というのは、実はそうそうないものなのだ。

導入として・いくつかの例

さて、リフレーム・異化の方法はひとえに「変形」であり、多くの場合、メタファーと結びついていると述べた。導入としていくつかの例をあげてみる。

ロイヤルオンタリオ博物館
ロイヤルオンタリオ博物館(引用元:Royal Ontario Museum
ダリ「記憶の固執」(溶け時計)
ダリ「記憶の固執」(溶け時計)(引用元: MoMA

建築の世界では有名な、ダニエル・リベスキンドによるロイヤルオンタリオ博物館は、遠目からは一見倒壊しているような錯覚をもつほどの、特徴的な建築だ。水平性は無視され「建物とはこういうものだ」という私たちの認識ないし概念を変形する。「なんだこりゃ!」の典型だろう。

ダリの時計もまたそうである。ダリの意図には所説あり、筆者は「カマンベール説」(記者に問われたダリが「カマンベールだよあれは!」と答えたもの)に好感をもっているが、それはともかく一般的な目線で言えば、固定的であり絶対的な「時を刻む堅牢物」がグニャグニャでは…生活もスケジュールもあまりに心もとない。これもまた、見慣れたものの変形による「なんだこれは!」だろう。絵画というものが扱うべき対象がこういうことでいいのか?という「見慣れた描画のあり方」の変形もそこにはある。

昨年、京都でリバイバル上映が行われたボカノウスキーの「天使」という映画についても触れておこう。今はなき吉祥寺のバウスシアターでこの作品の初上映を見たとき、まさに「なんだこれは!」と思わされた、強烈な記憶がある(30年以上も前の話だが)。 当時の筆者はいわゆるシネマフリークの端くれで、様々な形式の映画を見ていたつもりだったがそれでも「これは映画なのか?なんだこれは?」という映画だったのだ。全篇、へんてこりんな寓話世界観のイメージシーン、そして光の洪水だけで、ストーリーも何もない。それでいて、網膜的には何やら非常に心地よいのだ。 ただ、そのストーリーの皆無さに「いつまで続くのか」と途中からやや居心地が悪くなったのをよく覚えている。 そしてその後、自分の映像や映画に対する見方はかなり変わった。これを見た当時の仲間たちも同様の変異を起こしていた覚えがある。

さまざまな「変形」の方法

映像におけるリフレーム・異化・あるいは反転、という意味体験においても、当然ながら中心となる方法論は、先述の通り「変形」である。 この「変形」をどのレベルでどう行うのか、を以下に大きく分けてみる。あくまで筆者の分け方で、さらに厳密さよりわかりやすさを優先して述べていくので、その点はご了承いただければと思う。

単純な変形(リサイズ・誇張・メタモルフォーゼ)※大きさや形、色、声、性質や様相が変形するものもここに含める

リフレーム・異化はいわば既知の文脈に「未知」を投入することである。しかし、この単純な変形の場合は往々にして、ある程度予想できる場合も多いので「未知」にならないことが多い。だから「なんだこれは!」よりは「ばかばかしくて面白い」という読後感になる(&そこを狙う)ものが大多数だ。 大きく分ければ当然「リフレーム・異化」の範疇ではあるが、その中でも細かい意味体験レベルで言えば「レトリック・道化」という領域になる。いくつか例を挙げてみる(動画でないものも混じる…というか最初からそれだ)。

これは昨年、一部界隈で話題になったものだが非常にわかりやすい例だ。シンプルな「リサイズ=巨大化」だが、街に出現し、さらにその場では何の解題もなかったからこそ、インパクトが強く、ちゃんとした「なんだこれは!」の読後感になっている。 これがもし誰かタレントの顔を大写しした広告ポスター(タレントの顔の巨大化)だったら、誰にも驚かれることはないだろう。 単純なリサイズは、特定の文脈で初めてインパクトをつくることができる。 シンプルな変形例は枚挙にいとまがないが、以下はその好例だ。

<リサイズ→巨大化>

シンプルな変形の王道をいく例だろう。以下のように、誇張表現、というのも王道の変形パターンだ。

<様相の誇張>

「擬形」としての変形

変形の中でも「何かに擬する」もの。擬人化、擬物化のほか擬音、擬態などをここに含めることができる。一番古典的なのは「ニセもの」だ。その逆として「同じものなのに別だった!」というのもある。また、物まねやパロディもこの領域になる。これらも、ちゃんと「なんだこれは!」になれば凄いが、もはや定番の方法のため「ばかばかしくて面白い」の方に触れていく。

<擬人化>

擬人化は説明不要だろう。一方で擬物化は人をものに見立てるものだ。多くの場合、擬物化も含めて擬人化とくくることが一般的だ。

<擬物化>

<擬人or擬物?>

福音館書店 絵本「トマトさん」
福音館書店 絵本「トマトさん」

擬人化擬物化に仕分けようとすると、とこれはどっちだ…?という、容易に線引きできないものが明らかになってくるのが、カテゴリー化にまつわる面白いところである。これは人間がトマトになったのか、トマトが人間になっているのかわからない、というかどっちでもある(まあどっちでもいい)。これは小さい例だが、考えてみればこのように「方法Aでもあるし方法Bでもあるし…さらに方法Cも入ってるし」という複雑結合で、まだやられていない領域に挑むということで、特にTVCMではクリエイティブの新しい形をいろいろ作ってきたのだと思う。

擬音というのはそもそもが「擬音語」「しとしと」「ワンワン」など自然音を模した言葉を指すが、それに限らず声や音の「擬き」は非常に多種にわたる。 声帯模写(あるいは別人の声にすり替える)アテレコによる変形なども入れられるし、ダジャレも音ベースの意味転換、というならここに入ってしまうというふうに、微妙な領域のものが多くある。 細分化すると非常に複雑になるので、擬音的な変形として、上記も一旦ここにまとめておく。

<アテレコによる変形(パロディ)>

また擬の一種ではあるが、トーンナリの変形などと複合させて、姿態などを拡大縮小するのも一般的だ。 キャラクターグッズやゆるキャラなどは、往々にしてこのオンパレードになる(ひこにゃんなど)。 これは往々にして「かわいい」という読後感になってしまうため、方法論においてはリフレーム・異化的ではあるものの、意味体験としてはもはやリフレーム・異化的ではない。かなり例外的だ。

意味や概念の変形=見立て

変形の中でも、意味や概念に関わるものは、往々にしてメタファーによる共通性に支えられている。上述した落語での「その心は」というやつだ。このメタファーによる共通性の創出を私たちは「見立て」と呼んでいる。

<形状生成による見立て>

<その特性による見立て>

例に挙げたものは「極上の出会い」「喰らいつく粘り」というメタファーによって、新たな意味が縫合される。一見関係のない突飛なものを見立てることで、それだけ異化効果は強くなり「うまい!」という読後感に繋がる。どちらもコピーやセリフ・ナレーションによる、つまり言葉による解題がなされている。 見立てが、さらに舞台設定にまで及ぶとかなりダイナミックになる。

<見立て>

例に挙げたものは、企業内部のグローバル化を合戦に見立てる。日々のミクロな事象として処理していることを大げさな舞台設定をもって見立て、誇張するのである。ある意味でこれは世情への風刺にもなっている。 考えてみれば、コロナで移動制限された世界は何に見立てられるのだろうか。冷凍物、囚人、などなど…それらがどのような舞台設定でどう描かれると素晴らしいのだろう。素晴らしい見立てを見てみたいと切に思うばかりだ。

意味や概念の変形=見立てなし

見立てとは無縁のものも当然ある(日常ではこちらの方が多い)。 TPOがずれているとか、色彩感が何か異常、のような「普通はこうなのに」という意味・認識的な規範からずれているモノコトなどがここに分類できるだろう。 こうしたものは、少なからずネガティブな反応にもつながりやすい。

先述のトロントの美術館などもそうだ。意味・概念は変形されている(建物という概念がゆさぶられる)が「見立て」が一般にはうまく紐づかない。 それでいてネガティブというわけではなく「なんだこれは!」の読後感に落ちている。 リフレーム・異化の意味体験として「良質」ということなのだろう。 方法論としてはこのほかにもいくつかの代表的な「変形」が存在する。

次回はこれらを紹介していくが、述べてきたように「変形」でも意味体験としての「リフレーム・異化(・反転)」にならないものもある。 よって次回は、冒頭の言葉「バリケードによって<あらゆる関係づけを排除した空間>を作る。 われわれの側がそのバリケードよりも高みに立って関係づけを行わなければならない」にも立ち戻り、「リフレーム・異化(・反転)」についての考察まとめを行ってみたい。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/