映像表現と気分のあいだ

前回に引き続き「リフレーム・異化(・反転)」の意味体験について、その方法論としての「変形」のタイプを追っていく。筆者の解析上でのカテゴライズを、わかりやすくして述べるというスタンスを前提にしているが、引き続き考察を進めていきたい。

さまざまな「変形」の方法(続)

前回は「変形」の方法のなかで

  • 単純な変形(リサイズ・誇張・メタモルフォーゼ)※大きさや形、色、声、性質や様相が変形するものもここに含める
  • 「擬形」としての変形
  • 意味や概念の変形=見立て
  • 意味や概念の変形=見立てのないもの

という4つについて、それぞれをを追ってみた。

これらは見ての通り、大きく「形態の変形」と「意味や概念の変形」という腑分けとなっている。こうした変形が「ある種の感動」を伴う気分変容となるのは「形の変形によって意味も変形する」場合が多い。そこに何らかの新鮮さ・斬新さ、つまり私たちのものの見方や認識を変える力が生じる。さらにそこに斬新な「見立て」があり、謎解きとしての「解題」まで加われば、観る者にも変形した意図や見立ての公式が掴みやすくなる。

だから「見事だ」「上手い!」という読後感を得られやすい。このためTVCMにおける「リフレーム・異化」の体験では、ほとんどの場合、変形の意図や見立てを紐解く解題が最後に行われる。

一方で、意味が変形したことはわかるが、変形する意図がよくわからん、つまり「不可解だ、わけわからん」ということもしばしば起こる。(特に現代の)アートや芸術は、広告と違ってメッセ―ジが「間違いなく」伝わる必要はない(マルセル・デュシャンも語った通りむしろ「よくわからん」「何だろう」と考えさせること自体を狙いにしたものも多い)。概ね以上が前回の内容である。

さて、こうしたこうしたことを前提に今回は

  • ストーリーの変形(文脈や流れ・展開)
  • トーンナリーの変形
  • 挙動や言動の変形
  • 異物/異常点の挿入
  • 全体観の変形「らしくない」

について述べていき、最後に意味体験としての「リフレーム・異化(・反転)」のまとめを試みていく。

<ストーリーの変形(文脈や流れ・展開)>

見ている者が「普通はこうだろうな」と思うストーリー展開を途中で裏切るもの。色々な方法論があるが、代表的なものとして「(途中での)反転」「どんでん返し」を以下挙げてみる。

反転

ストーリーの始まりからしばらくは「規定の文法通り」の展開だったのがいきなり反転する、というもの。

「文法通り」の例として、機能性食品や機能性飲料などのTVCMに見られるような、受験を頑張ったり青春を精一杯生きる「若者の努力や頑張りの様子」を鼓舞・賞賛するタイプのストーリーがある。そこでは、努力や頑張りの「方向性やゴール(受験とか就活とか)」は予め私たちに共有されていて、疑われることがなく、ゆえにその努力する姿は「頑張ってるなあ」という気分のもとで私たちを含めた共同体的に全肯定されている。

だから、その努力のさなかにイキナリ覚醒して「受験やめた!」「就活やめた!」とは間違ってもならない(万が一、そっちに舵を転換したらすごいが)。

こうした「文法通り」のストーリーは、私たちにあらかじめ無意識に共有されているから「あーまたこのタイプのストーリーね、、」と安心して見ていると、途中でバッサリやられるというわけだ。

だがそれは、観る私たちにとってちょっとした快感でもある。快感の方向は色々になるが、「やられた」「うまい」以外に、自由・解放とか希望、の観念もあるはずだ。伝えるテーマやメッセージ自体がたとえ自由・解放とか希望の観念でなかったとしても、一向に構わない。「私たち自身が安住していたストーリー文法から解放される」という、形式や文法からの自由・解放、希望。そこに生じるのはこれだ。少しテイストは違うがこのようなものもある。

反転のバリエーションとして、反転するタイミングがラストに来るものが「どんでん返し」。TVCMでは多いタイプでもある。

どんでん返し

このほかに、視点や語り手が入れ替わる、別のストーリーに乗り替わる、ストーリーを止める(夢から醒めるetc)なども変形の範疇と考えられる。

<トーンナリーの変形>

途中からトーンが変わる例。当然そこにストーリー全体の変形(反転)も生じうるが、ここでは表現や言い方など「トーン」の反転に特化して括ってみている。

トーンナリー反転のサブバージョンとして、表現テンションがエスカレーションするものもある。

トーンナリーの反転においては、音楽・ナレーション・画風の反転が三大要素である(スピードの変化もあるが、トーンナリーと言えるかが微妙だ)。

トーンナリー反転の方向性は「カッコイイ→ホッコリ」や「下らない→神々しい」などの変形など実は無尽蔵になしえるはずだが、とくにTVCMの場合には「ほっこり」「しみじみ」「クール」などの起点から最終的には「バカバカしさ」や「スッキリ(浄化)」へ落とすものが圧倒的に多い。そしてそこには前述の「自由・解放感」も通底しているのが常だ(文法からの解放)。どうしても「ハートウォーミング」「ほのぼの感」「しっとり感」の方向にはならない。

このように、ストーリーやトーンナリーの反転によって、各TVCM全体での意味体験は既成の表現文法が壊される「自由・解放感」を通底とし、時に「バカバカしさ」や「スッキリ(浄化)」その他の意味体験をも携えながら「斬新」「別様」なものとなる。

<挙動や言動の変形>

ふつうはこうするだろう、という(主に人間の)挙動や言動を裏切るような変形。TVCMの場合は多くの場合、ユーモアやアイロニーと組み合わされ、いわばボケとして視聴者のツッコミを誘うものとなる(ちなみにボケやツッコミの歴史は古く、すでに平安時代からある)。なので視聴する側の感じが「斬新」「別様」というより単純に「バカバカしくて面白い」の方に落ちやすいものも多い。

挙動言動の裏切り(変形)そのもの以外に、その手段や方法、場所や演者が入れ替わる、などの裏切り方もある。

ところで上の例を注意深く見れば、これらのバカバカしさは「ボケ役」、すなわち本質的には「道化役」「異物」がもたらすものであり、そこに「無条件な親しみ」「同類性」を私たちは感じていない。(この意味で、特に2番目3番目の例はこの後の<異物/異常点の挿入例>も兼ねてしまっている)。「道化役」「異物」は、私たちによって上から目線で笑われる他者的存在だが、それゆえ同時に、私たちの社会認識を逆照射する風刺・アイロニーとしての機能することがある。

このことが示すのは、これら「道化役」「異物」がもし増殖するなら、社会認識や通念自体が異化される可能性があるということだ(ことによっては身体性も)。本来的には、もはや笑ってなどいられない社会認識のリフレーム・異化にもつながるはずのものである。それゆえ映画や文学において、挙動や言動の変形は(TVCMの場合とは異なり)頻繁に、ミステリアスな伏線としても機能する。

<異物/異常点の挿入>

何らかの異常点や、何者かの介入によって形や意味が変形するもの。カメラフレームを引いていくとそこに別の意味や形が現れる、のようなものも一旦ここに含めている。また、イメージの定着した有名人の女装(扮装)一発モノなど、それ自体が「異物」に感じられるものもココに含める。

<全体観の変形「らしくない」>

TVCMってこういうことでいいの?という、前提を疑わせるようなもの。自分が慣れ親しみ、無意識として文法づけていたコンテンツフレーム自体がリフレームされる。近いものはあるが、ど真ん中攻め、をしているものは当然少ない。

整理—リフレーム・異化の意味体験

以上に見てきたように、変形にもさまざまな領域がある。一部順不同な紹介順となってしまったが

①「形・色・音・大きさの変形」「異物による変形」

②「挙動や言動の変形」「意味や概念の変形」

③「ストーリーや文脈、トーンナリーの変形」

④「全体観の変形」(前提や条件の変形)

大雑把にはこのように整理できるだろう。①はいわば要素的(知覚的)な変形、対して②は私たちの常識的な意味や概念の変形、③は主に表現に関わる物語文法の変形、④は社会や表現の土台/条件自体の変形、というような感じである。④については実際のところ、TVCM例だけからはわかりにくいので、後述にて補足したい。ちなみに傾向が多少あるものの、必ずしも①が商品機能で②③はブランド訴求などという目的別の切り分けがあるわけでもない。

これらの変形はそれぞれが相互に結びつくことが非常に多い。たとえば「形・色・音・大きさの変形」や「異物による変形」が冒頭にも述べた通り、往々にして「意味や概念の変形」に直結する場合も多い(ダジャレや看板の欠け文字などの類いもこの例だろう)。

変形は一義的には驚きや違和感を伴う。それが「何だこれは!→なるほど!そういうことか!」「何だこれは!さっぱりわからないが凄い」となって、さらに昂じて日常の認識までアップデートされるのであれば、それは最も理想的な、純度の高い(純粋な)「リフレーム・異化」の体験といえる。

TVCMはあくまでその表現フォーマットや表現目的の枠内においての「リフレーム・異化」をもたらしてきた。あくまで目的があり、またビジネスでもあるので、意味体験としては「純粋な」リフレーム・異化へ至ることは稀であり(きっとそれはTVCMの自壊になりかねない)「道化」「諧謔」(面白さやバカバカしさ)も兼ねたかたちの体験へとおちることが多い。これはここまで挙げてきた例でもおわかりの通りである。

「いや~まあ斬新といえばいえなくはないけど、ただ面白いだけじゃん」というものも相当多い。しかしどの方法も、その根本が変形である限り、やり遂げれば「斬新」の意味体験が勝るようなものは作れるはずだ(今現在において、それがTVCMとして認められるかは別問題かもしれない)。

他方でこうした表現上の「リフレーム・異化」は風刺、つまり言語化できないモヤモヤした違和感を巧く言い当てる表現としても機能することもある。私たちの物の見方を変換するだけでなく「そもそも変換されつつあった(が結像せずモヤモヤしていた)私たちの認識」を的確に言い表すということだ。

さて、あたりまえのモノコトを異化する、このことを芸術の役割という面からdefamiliarizationという語で表すことがある。defamiliar、つまり「慣れ親しんだ」(=familiar)の逆である。ある評者は「ほこりのかぶった世界を、もう一度、生き生きとした、鮮明なもの(fresh)として見つめなおすことができるようにする」という言い方をされているが、蓋し名言である。

まさにこの意味で、TVCMはこれまで唯一、ありとあらゆる「変形」を試みてきた稀有な表現領域であると筆者には思える。そもそもが、そこで訴求される多くの新しい商品やサービスが、陳腐化した私たちの生活や意識をdefamiliarする使命を帯びている。実はこれこそ、TVCMがさまざまな「変形」の開発をなしえた、最大の要因だろう(※)。

上記の①~④どれにおいても(面白い、バカバカしい、もあるが)「これは斬新(fresh)だ」「やられた、うまい」がかなり読後感として残るもの、すなわち変形という方法での「技」が高いもの、これを筆者は「リフレーム・異化(反転)」型の意味体験をもたらす作品として分類している(昔だと、Hungry?の恐竜のCMなどが圧倒的だったが)。当然、このカテゴリの作品は従来から、広告賞の受賞作が極めて高いのも特徴だ。

(※)念のため1点ほど補足を。特に広告、TVCMの場合「アテンション」という概念があり、出来るだけ最初のツカミで「何だ?」と注意を惹くことが要請される。よって、このツカミの段階自体がすでに「リフレーム・異化」の意味体験といえるのだが、ここで取り扱う「リフレーム・異化」の意味体験については、あくまで映像全体としての体験ということでご理解いただければと思う。

リフレーム・異化のカテゴリ考察

とはいえ、変形による「リフレーム・異化」の本質が、私たちの常識や認識のアップデートであるなら、当然ながらその変形は「映像表現・TVCMの表現という枠」に留まらず、それを逸脱したレベルにも及んでいく。その結果として、意味体験としてのリフレーム・異化は、その純度を上げれば上げるほど、ゆるキャラのような「かわいさ」「安心」のようなこととは逆の方向、すなわち「非ー安心・安住」「脱ー常識・経験」「不可解・謎」のような方向に私たちを導く。

前回と今回、本稿では「リフレーム・異化」を(映像表現としてのTVCMがもたらす・あるいはモノコトヒト空間がもたらす)意味体験のひとつ、として扱ってきた。しかしこの「リフレーム・異化」という意味体験は本来、私たちの認識や世界観そのものまでをも変えてしまうようなもの、実はヤバくて深いものである。テクノロジーや思想などがその代表である。そうである以上、このあたりについても少し見ておく必要がある。

ということで、ここでは先ほどの①~④の項目を手摺にしつつ、「リフレーム・異化」における、より本質的なカテゴリーを考察してみたい。表現領域のみならず、より広範に「リフレーム・異化」あるいは「変形」そのものにフォーカスし、こちらを本線にするという感じだ。そして、映像表現、意味体験、あるいは私たちの社会認識などをすべて「変形される対象」ととらえてみる。

この「変形される対象」について、私たちのもつ「文法」や「常識」のレベルを、先ほどの①~④の項目を用いつつ、より抽象的に捉えなおす。そして、各々の段階がどのように変形されるかを確認してみる。このようにしてまとめたのが下の図である。

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図・「リフレーム・異化」の本質的なカテゴリー (筆者による)

①なら形状/形態などの(常識的な)属性の変形、②なら社会的意味や既成概念の変形、③ならストーリーやトーンの文法の変形、④ならコンテンツフレームなどの条件・ルールの変形となる。

ちなみに③の部分はコンテンツ表現とあるが、より抽象化すればそれは私たちの生の表現=生き様、のようなことにもつながる。そこで解釈を広げ(人生への物語観や生き様も含んだ)既成文法としている。同様に④も解釈を広げれば「私たちの生きる世界の条件やルール」ということになるので、資本主義システムやテクノロジー条件など、環境システム全体をさす意味で「世界システム」とした。

各々の「変形」具体的に、どのように達成されるのか?については豊饒な議論があるだろう。ここを掘ると長くなるため、極めてシンプルにまとめるならば、身体感覚が変われば①は変形され、共同体やコミュニケーションの常識が変われば②は変形され、テクノロジーや経済原理、思想宗教その他(疫病や戦争、地球環境)などの環境条件によって④は変形されるだろう。

③については②と④双方の影響によって決まってくるように思える。などと考えていると、どうしても変形の順序=変形の方向が気になってくる。そこでまずざっくりと2つの方向を書いてみた(青実線A,B)。このA,Bを語る前に、まず赤線部について触れておく。

まず赤の両矢印(映像表現)は、TVCMなどの映像表現がもたらすリフレーム・異化の意味体験が、主に①から③の枠内で生じることを示している。

特にTVCMでは先述の通り、下向き赤点線(A’)のように、私たちの「今の具体的な世界認識」をガチで脅かすことは、ほぼない。「映像表現とかTVCMってそもそもこういうことでいいんだっけ?」という、前述の④「全体観の変形」(相当稀な例である)がかろうじて(A’)にさしかかっている。この(A’)の領域が映像クリエーターの主戦場になると、世の中の意識は相当リフレームされるのではないか、と思える。

例えば、ディズニーワールドをもう少しだけ変形して、本当に民衆がそこで生活を送っている特定地域だとするなら、それはもはや④の領域になるのかもしれない。

上向き赤点線(B’)は逆に、映像表現やTVCM表現を変形・規定してくる、メディアや環境の条件だ。デジタル化やスマホなどのデバイス環境、アルゴリズムの効いたデータ環境、ネットや新しい伝達媒体(youtubeやtiktok、今後はVRなど?)の環境、コロナなどの事故的な社会環境、これらはすべてこの向きに従った変形となる。

ただ、NFTやメタバース領域はかなり両義的だろう。単に新テクノロジーが「従来の物語」を再生産的するだけなら(B’)そのものっぽいし、コンテンツによる人生観の変形によって③→④が達成されれば(A’)っぽい方向も入ってくることになる。

とはいえ大きくいえば、環境・メディアの変化は「トップダウン」の条件として(図の矢印表現的には下から上、逆になってしまって恐縮だが)コンテンツ表現をリフレーム・異化していく(B’)。

さて、青の上下実線(A・B)についてである。ここは映像表現やTVCMに留まらず、より広汎な領域を含んだリフレーム・異化についてを示している(※)。

Aはボトムアップに、知覚から認識→生き様→システムへと変形が進み、世界全体が変わっていくという流れを示す。Bは逆にトップダウンで、システムや環境条件→生き様→認識→知覚、という形で、何らかの条件の変形が、よりミクロなものへ波及していき世界が変わるという流れを示す。ちなみに後に示すように実際には、システムや環境条件→知覚→認識→生き様、ということもあり得る。

ということで、最後に、このA(ボトムアップ)とB(トップダウン)をめぐる、純度の高い「リフレーム・異化」について考察することにしよう。

(※)今回は例示がTVCMに偏っているが、当然ながら表現の変形例はモノコトヒト空間に及ぶ。

アナザー・ワールドから世界を創る

岐阜県にある「養老反転天命地」という場所をご存じの方も多いだろう。荒川修作によるこの施設(※1)は、本人の言などを総合すれば「ここに暮らすことにより、既存の知覚ではない新しい知覚が身体化され、それによって新しい世界を創造する人びとが生まれていく」という思想によって建てられている。

筆者は遠い昔にロケハンで一度訪ねただけで記憶も定かでないが、それでも身体がいつもと別の方向から重力を感じたり、歩く座るなどの基本動作がすこしずつズレていく感じになった覚えはある。

(※1)本来はアート作品と呼んだ方がいいのかもしれないが、荒川は「永く暮らす場所」として企図していたので、ここでは「施設」としておく。

荒川の思想は、人間をある環境に住まわせることにより、現在の社会の規範となっている環境(すべての建築が矩形構造、水平構造であったり、思想も何もかも「消費」の対象として捉えてしまっている社会認識、などもろもろ)すべてを、まず私たちの身体性からリフレーム・異化することにあった。

そこでアナザーワールドとしての生活環境・建築空間「養老反転天命地」を作り、こうした環境から、新しく世界を捉える身体性(そして意識や態度)を、内発的・自生的に創りあげていこうと唱えたのだ(荒川はそこのような身体性を「建築的身体」と呼んでいる)。いわば環境条件=メディアによって人間の身体性、そして意識を新しく創造する、ということである。

「言語や行為を持つためには、それなりの環境を作らなくちゃいけない」(荒川修作)

言語や行為というのは、煎じ詰めればすなわち表現ともいえるだろう。

環境条件を形作るという面ではまずトップダウン(B)であり、そこから新たな意識と社会が創造されていく、という意味ではボトムアップ(A)である。BとAの合わせ技を志向した(先の図でいえば④→①→②→③のような順序になる)、稀有で至高なる取組みといえるだろう。

 

(荒川修作の語りによる思想解題)出典:YouTube

前回冒頭で触れた、東大全共闘の議論での言明も、文脈は遠くない。

「バリケードによって<あらゆる関係づけを排除した空間>を作る。われわれの側がそのバリケードよりも高みに立って関係づけを行わなければならない」

まず私たちを規定している、知覚や概念の文法を壊して再構成する。これもボトムアップ的なもの(A)だろう。この議論では、モノに対してそのイメージではなく、まずその物質性そのものに相対時することから知覚や認識を新しくせよ(そこからしか社会は新しくならない=リフレーム・異化しない)という主張がなされている。つまり荒川との違いは④を前提としていない点にあり、その意味では真正の(A)(①→②→③→④のような方向)と思える。

一方今世界中を覆っている。すなわちデジタルテクノロジーという技術条件や、そしてコロナ禍という防疫的な環境条件はどちらも明確にトップダウン(B)の方向の源となるシステム/条件=④だろう。これらは④であるが、先述の荒川の④と異なる。荒川の④は③を出自にしたもの、つまりアーティストとしてのアナログ的な人間感性をベースに構築した④だった、ということだ。デジタルテクノロジーやコロナ禍は、③を出自としていないアナザーワールドである。

デジタルテクノロジーについてはアクチュアル(現実進行的)であり言を俟たないだろう。本稿でも述べてきているが、今まさに進行中のスマホ化・AIなどによるアルゴリズム化、さらに分散台帳や暗号通貨、ドローンやVR、ロボティクスや自動運転、遺伝子操作や長寿への挑戦、代替食品の開発、宇宙への進出などなど、当然ながらこれらは、これまでの私たちの常識を変える。

特にテクノロジーは、人間の身体性を体得していないタイプの「アナザー」である。だから現状は私たちが、身体的にテクノロジー側に馴化していくことになる。④によって①(そして②)が変わっていく、という面が色濃いかもしれない。

加えてウィルスによる「コロナ禍」という、生活環境における新手の「未確認のメディア」によっても意識や概念は塗り替えられている。身体的距離感が全体的に遠のき、多くの人にとって「時間の流れ」の感覚が変わっているだろう。

これらによって意識も変わる。本稿で何度か指摘している通り、私たちの意識は「計量的=数値計算的、コスパ的」にどんどん変容しているだろう。そしてクリエーターの作品も「☆評価」や「再生回数」や「離脱率」などの指標でどんどん処理されている。

本稿のVol.8ではメディア論のマクルーハンの言葉「バックミラー」についての考察をしたが、いまなおコンテンツは「文法どおり」のものが好まれ、今までの社会認識の文法に沿ったものが「☆評価」や「再生回数」を稼いでいるようにみえる。私たちの「システム」認知も、いつだってバックミラーの中にある、ひとつ前のシステムの認知なのかもしれない。

ズバリ言えば、③だけが変形されていない。いやすでに変形されているのに私たちが追い付いていない、ということだろう。

それでも村田沙耶香「コンビニ人間」や今村夏子「こちらあみこ」など、例えば文学ではAとBの合わせ技のような、変形した③が浮かび上がるような作品がちゃんと成立している。それらは本というフレームに留まりつつではあるが、知覚や認識をリフレームして私たちの「生き様・物語」を結構ゆさぶってくる。

「リフレーム・異化」の方法を駆使した映像表現とは(VRでも何でもよいが)、今までのストーリー理解では到底わからない、何だこれは、という新たな異化もいいけれど、ひょっとすると今回みてきた「反転」のように、既存文法からジワジワ異化するようなものがより効くのかもしれない(現在は被弾!や打撃!の時代でもないから)。「この曲を聴いて/この映画を見て/この文学を読んで」生きるリアリティが変わった、という意味体験に「自然に」導くようなものかもしれない。

ひょっとすると、一見「文法どおり」のものたちは皆、最後にそういう仕掛けが考えられているのかもしれない。これに近いかもしれないが、コロナ禍中でリリースされ、妙に気になったグループのPVで本稿を終えることにしたい。

システムが生き様・物語を変形している感じが漂うわりに、意味体験的には「癒し」を感じる向きが多いようだ。だからこれ自体が「リフレーム・異化」の意味体験をもたらしているわけではないはず。でも繰り返し見ていると、何かが結像しないモヤモヤ感がつのる。

 

Cassia – Right There (Official Video)

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/