映像表現と気分のあいだ

「帰属・回帰」ぽさを感じるしくみ(続)

前回は「帰属・回帰」のインサイトタイプについて、その淵源に関わるエドマンド・バークの「類似」にまつわる議論に続き、「帰属・回帰」のステレオタイプや小カテゴリーの表現例を確認した。

そこでの趣旨をまとめれば、私たちの持つ帰属・回帰感の共通性というのは、私たち生来の「類似性」と連動しているということである。こうした帰属・回帰感について、その典型イメージ=ステレオタイプを構成するモチーフ(モノ・コト・ヒト・空間)を示しつつ、これらを包含する文脈例として「昭和ノスタルジー」についても考えた。そしてまた、こうしたステレオタイプは(部分的にでも)恣意的に「創る」ことができるのか、までを俎上に上げつつ考察した。

今回はその続きである。実はこの「帰属・回帰」のインサイトタイプこそ、現在最も揺れ動いているフロントラインであり、要は一番形が定まらずモヤモヤする、そんな気分タイプのはずなのだ。なぜなら、

  1. 本稿でも論じてきたようにメディア・インターフェースとしてのスマホがコミュニケーションその他の代替として定着し、そのスマホに人々が多大な時間を費やすデジタルの時代になっていて、
  2. さらに「もう以前には戻らない」とのスローガンと共に、ディンスタントなコミュニケーションが市民権を獲得し、
  3. さらに(どれほどの実効的な数値エビデンスがあるかは別として)二拠点生活や地方への分散化、というスタイルも広く浸透した

などなど、アナログメディアを主体とした定住型でface to faceを肝にする共同体、というものがノスタルジーの対象にならんとしているからだ。

今回は、私たちの「帰属・回帰感」には、一概にイメージでは創れない淵源があることに迫りつつ、ノスタルジーのステレオタイプが今後どうなるのか、ということまで考察していきたい。観念や無意識を整理していくことが中心になるので、直接的な映像サンプルに乏しい回かもしれない。しかし、今後の映像表現において通奏低音をなすだろう部分に対して、相当関係してくる考察になるのではないか、と思っている。

恐怖や不安を前に「帰属・回帰」感は勢いづく

だいぶ前にはなるが、本稿Vol.04終末部(00年代後半~現在「醒――原点回帰と振り切ったフィクション」)に筆者は「東日本大震災後は特に「がんばろう」「応援したい」という読後感を生む体験や、「やっぱり日本っていいよね」と思わせる体験のTVCMイメージが席巻した」ということを述べた。

敗戦後の高度成長期からバブルの躁狂期(この時期にも「一杯のかけそば」のようなものは存在した)を経たのち、90年代にバブル崩壊期がくる。阪神大震災やオウム事件という大きな社会ショックがあり、その後大企業の倒産も相次いだ時期(1990年代中~後半)だ。それでもこの時期を思い返してみて、あの頃「帰属・回帰」タイプのTVCMが急増したよなあ、という感覚はない。それはもう少し後だ。

2000年代に入り(目について経済格差が増え始めた)リーマンショックの前後から少しずつ、そして東日本大震災をきっかけに堰を切って「帰属・回帰」タイプのTVCMが増えたと感じる。地元、絆、共感、がんばろう、負けない。日本にはまだまだ底力がある。などなど。景気がよければこういうコトバは不要だ。

有り体に言えば、ミレニアル頃を境に「なんとなく本格的に弱体化してる日本」を皆がうすうす感じ始め、その感じを反映した表現が徐々に増え、それが震災を機にここ10年はもはやある種の「基調」になっているのではないか。そしてそこへさらにコロナと戦争、さまざまな環境再編が続く。

このように見れば、無意識裡の「帰属・回帰」タイプのイメージ流通(穿った見方からすれば、これも立派な社会的感情操作ということになるのだろうが)は、まだまだ続くのかもしれない。

頑張りを応援するタイプ、癒しをもたらすタイプ、感涙を誘うタイプ、共感・エンパシー、ケア感に満ちたタイプ、などなど。こうしたものが表現において(なぜか、無意識裡に)必要とされる場面が増える。

あるいはまたもや、昭和ノスタルジー的なステレオタイプにも出番がくるかもしれない。少なくとも「差をつけろ!」「イケてる」「かっこいい!」「私もああなりたい」みたいな「レバレッジ」タイプは今後当分の間、分(ぶ)が悪そうだ。なぜなら、世の中全体がなんとなく不安だからだ。

大流行した「うちで踊ろう」 ©星野源

こうした「感じ」のタイプがさらに過剰になり、通奏低音的に各種表現を覆い続けていけば(人によってはそれらの一部を「感動ポルノ」とか「共感ポルノ」とかと呼び指すが)そこでは「絆」とか「思いやり」とか、それに類するイメージやワードの氾濫が続くことになる(※とはいえ、コロナが収束気味になり、ここのところやや収まったとは感じるが、予断は許さない)。本質的にクリエイティブな感受性からすれば、これはかなりモヤモヤする状況でもあるだろう。

ここで、前回冒頭のエドマンド・バークの議論を思い起こしたい。自然災害やコロナ、戦争などの恐怖や不安を前にすると、社会の心理は「母親の胸に甘えたい=郷土や安心できるものに包摂されたい」という方向に進む。ときにはそれが大きなものへの依存、救済を求めるがゆえの<信仰>にも繋がる。

こうして、恐怖を目にすることからくる「崇高」感は、いつしか次第に、その恐怖の元=敵を倒すために奮闘する「こちら側(=同じ共同体に属する者たち)に対する崇高感」に転じていく。コロナ蔓延の間、ウイルスは「打ち勝つ」「撲滅」など、戦争のメタファーを伴って敵認定され、それに立ち向かう行為には尊崇・崇高感が伴った。

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Covid 19撲滅をモチーフにした海外の車用ステッカー

ブルーインルパスはなぜ飛ぶのか。私たちはブルーインパスから、なんの希望や勇気を受け取っているのか(それともただの浄化感なのか) ©航空自衛隊チャンネル

このように「リフレーム・反転」感=驚きや不可解さ、ある種のショックとしての「コロナや戦争」などの対象に対して、「帰属・回帰」感は機敏かつ強力な反発力を発揮する。これは前回述べた通り「なんか違う」感じのものに対する、有無をいわさぬ排除の力である。

ちなみに「ホメオスタシス」という言葉をご存じの読者も多いだろう。これは生物が自らの生理系を正常に維持するための機能で、暑いときには汗をかいて体温を調節したり、傷を負えば自己修復すること、などがその例だ。言うなれば自己システムを「原状維持」する機能だ。

驚きや不可解さとしての「コロナや戦争のショック」に対し「帰属・回帰」感が即時充填される様子というのは、このホメオスタシス的な「原状維持」に近いのではないか、それが社会的主観においても発動しているのではないか。

「帰属・回帰」感による社会的主観の「現状維持」感が、こうしたホメオスタシスのようなものだったとして、ひとつ疑問が残る。この場合維持される「現状」とは、特に今この時代においては何か。それは前回みたような「帰属・回帰」感に根ざしたイメージやストーリー、ステレオタイプなモチーフである、と括っていいのか。いや、さらに突っ込めば、時代を超えた<維持したい本質>みたいなものがあるのだろうか、ひょっとするともっと根源的なものを見落としていないか、ということだ。

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前回掲載した「帰属・回帰」ステレオタイプ

写真出典元
白ごはん.com
家族みんなでテレビを囲んだ昭和の家庭©共同通信社
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このような疑問をもとに、このあとより奥まった部分に踏み込んでみたい。それが前回最後に「白ご飯と味噌汁が何か匂う」と書いた領域だ。ここに突っ込むことで、どこに働きかければクリエイティブにおいて「帰属・回帰」感を創作・刷新可能なのか、あるいはそんな創作・刷新など不可能なのか、も見えてくるかもしれない。

そもそも現在のリアルな「帰属・回帰」先はどうなっているのか

文化のイメージは、共同体の人々の中に記憶として蓄積される。先に述べた昭和ノスタルジーなどその典型であって、前回述べた通り、それは「その時代を体験していない」若い世代にもイメージ継承されている。

とはいえ、である。ここからが筆者なりの考察になる。

本稿Vol.08で触れた通り、メディア進化の局面において「テクノロジーは必ずノスタルジーを作る、そのノスタルジーの対象は<ひとつ前の世界>だ」と書いた。次いで前回、それは往々にして個々人の記憶以上に、再生産され刷り込まれた(「三丁目の夕日」的な)集合的・社会的なもの、いわば社会的な共有記憶の再生産と想起によって強化される、と書いた。

こうした共有記憶にとって重要なのが、現在失われた質的な感覚であり、「アナログな身体性を伴った地元感=近隣共同体感」という(有機的な)「環境インターフェース」なのだろう、それが復元できる社会共有的な直近過去は「三丁目の夕日」の時代にならざるを得ない、とも書いた。

ここで逆に現在に向き合うなら、私たちにとってのリアルな「帰属・回帰」モチーフはどうなっているのだろうか。前掲したステレオタイプな昭和モチーフと見比べてみれば、私たちにとっては、多くの場合商店街よりもコンビニやショッピングモールのほうが普通であり、昭和の街角よりも高層ビルが立ち並ぶような風景やカードキーで入るマンションの部屋がリアルである。

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いま現在の私たちのリアルな帰属モチーフ例

写真出典元
appllio
Tripadvisor
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こうしたことに加えてさらに、昨今のワークプレイスの変容がある。再開されたオフィスワークもキャンパスライフも何となくコロナ以前とは違う空気があり、その意味ではファーストプレイス(家)もセカンドプレース(学校や職場)も、今後さらに再編されていく=質的に変容していくようにも思える。

戦後からダマシダマシ続いた、近隣や企業を中心とした共同体構造は、テクノロジーをはじめとする諸要因によって明確に再編されていきそうだ。その先に「三丁目の夕日の生活風景」などおそらく(リアルには)復活しないようにも思える。そして、そんな未来にはノスタルジーとして「三丁目の夕日」とは別の「帰属・回帰」イメージが生まれるかもしれない。このことは本稿最後で改めて考えてみることにする。

イメージ操作無用の「帰属・回帰」感とは

ところで、唐突かつ私事で恐縮だが、先日筆者は遅ればせながら初めてのPCR検査を受けた。経験された方はご存じの通り、現場で唾液を採取するブースには面白いものがある。それは<梅干しの写真>だ。

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梅干しを見ると唾液がでる(写真出典元:熊平の梅さんHP

確かに筆者も梅干しを見ると唾液が出る。これについては、かねてから不思議に思っていた。それは「なぜ唾液が出るのか」ということより「唾液が出るのは日本人だからか?」という側面についてだ。調べてみると、確かにそうらしい。梅干しの写真をみても、殆どの欧米人アジア人は唾液を分泌しないらしい。

先述の、いつまでも直近過去が「三丁目の夕日」のイメージで永らえられるのか?などということををツラツラと考えている中で出くわしたのが、このPCR検査の「梅干し」だった。

自分自身の舌に起きる反応。これは単なる視覚イメージというものに留まらない。うまく言えないが頭の記憶ではない、もっと身体的で直接的な、味覚の記憶による反応である。視覚的なイメージは操作したり置き換えたり、再生産でき、刷り込み可能なのに対して、味覚は上書きのできない、より強力なもののように思える。だとすればどうなるか。

この梅干しを先の「白ご飯と味噌汁」に置き換えてみる。白ご飯と味噌汁というソウルフードを見たときの、なぜかほっこりするような身体的記憶=味覚。上書きしづらいこの感じこそが、帰属回帰感・ホーム感というものをもたらす本丸ではないだろうか(まあ、唾液はそこまで出ないかもしれないが)。「白ご飯と味噌汁」は、環境その他がデジタルやスマホに変わった現在もなお、ゆるぎなく確固として存続している。

私たちは実は、かなり環境適応的である。コロナ禍や戦争の影響で(あるいはデジタル化やスマート化によって)生活の環境が激変しても、私たちは必ずその環境に慣れていく。そもそも私たちがリアルに「帰属・回帰」している、今現在の環境だって、さまざまに組み込まれたテクノロジー、それによる労働や社会の変容によって、静かに、しかしかなりのスピードで変わっている。そんな中で、場としての帰属・回帰先は以前よりはかなり不確かな状況にある。

それでもちゃんと環境適応してしまうのが私たち。その結果、未来にも「帰属・回帰」感をちゃんと携えた場や環境、モチーフが代替的に登場している、と想定してみる。

その時、環境やその他のモチーフがどうあれ、相変わらずセンターを張って残りそうなものが「白ご飯・味噌汁」なのではないだろうか。そして梅干しを見れば唾液が出るのも変わらないのではないか。つまりこれらこそが「帰属・回帰」感の根源的モチーフなのではないか。

「食」はその実イメージなどでなく、生命存続の条件となる実体物だから、この見立てはそこまで間違ってはいなそうだ。ここが他のイメージモチーフと完全に違うところなのだ。

※ちなみに「主食と帰属感や気分の関係」を追った研究というのは、なかなか存在していないようである

農耕民族における、土地を守り戦う本能の源もこう仮説するとわかる気がする。つまり、その土地が育む食物は、共同体メンバーの胃袋と直結しているからだ。その土地とは彼らの食を生む土壌そのものだからだ。その食は、イメージだけでなく身体的に共同体に記憶され(毎日食うことにより)、個々人にとっては記憶というよりむしろ無意識に近くなっているはずだ。

さらに根深い事実にも遭遇した。味噌汁の昆布ダシに含まれる「グルタミン酸」の存在だ。これは母乳に含まれる「うまみ成分」と同じなのだという。つまり動物としての私たちにとって根源的な「帰属・回帰」先である母胎の成分そのものなのだ。欧米人の主食である小麦にもこれが含まれているという。

これはもはやイメージによるステレオタイプを超えている。私たちを文化的にも動物的にも成立させている実質そのもの「私たちそのもの」と言ってよい。だから重ねて「白ご飯・味噌汁」は「帰属・回帰」感をもたらすモチーフの根幹に位置する、と筆者は考える(日本で米食が存続する限り。ここは一応最後に論点にしてみる)。

結論的に言えば、視覚イメージでの記憶以上にもっと無意識にもっている身体性、特に味覚に私たちの「帰属・回帰」感の淵源が潜んでいる。その向こうには母胎が連なっている。そう考えれば、ご飯味噌汁シズルのTVCMは、それだけで帰属回帰感をコンプリートできるのかも知れない。

コロナ禍でなぜかレシピ動画を見て癒された感覚も、このこと関連だったのではないか。これは料理のノウハウという以上に、現実に共同体感も希薄になりがちだった私たちの「帰属・回帰」感を、無意識ながら根本で感じさせるものだったに違いない。そこにはハートウォームをもたらす根源的な摂理があったのだ。

[味噌汁]知らないと人生損する本当においしい作り方 ©なべのだいどころ。

「食」のもつ圧倒的な「帰属・回帰」感。それは母・生命とつながるものであって、理屈ではない。だから食の源=土地が危機に瀕したら、守るためには理屈なく、命を懸けて戦うことにもなる。

私たちが身体性を持って生きている限り(いかに生活時間がリアルからデジタル空間へシフトしようが)モノを食べ、日本という場所に居続けるのであれば、米と味噌汁という土着の「食」モチーフは果たして別のものに代替されるだろうか。この辺りを最後に考察してみたい。

「帰属・回帰」感のこれから

つまるところ「帰属・回帰」感にまつわる本質的な問いは2点ありそうだ。

  • 私たちの「帰属・回帰」イメージのステレオタイプは変わるのか、変えられるのか
  • 「帰属・回帰」感の淵源にあるであろう食(特に主食)について、その代替はありうるのか、代替できるとどうなるのか、少なくとも(映像などによる)イメージはそこに何らかの操作や影響を及ぼせるのか

最初の問いは、どちらかというと共同体のイメージに属することになる。マクルーハン的に考えれば、こう言えるだろう。すなわち「三丁目の夕日」的な「帰属・回帰」の共同体イメージが別のものに置き換わるタイミングは、テクノロジーの次段階への移行により、私たちの情報入力環境=生活環境=メディア環境がさらに変わる時だ、ということだ。

その時の「帰属・回帰」感のイメージは大括れば、コロナ前の「みんながオフィスで会社生活をしている」という環境設定なのかもしれない。つまり、三丁目の夕日=近隣共同体ではなく、企業共同体、みんなが机を並べてパソコンを前にし場を共にしている、そして外に出て一緒にランチや飲みもする、これが「ひとつ前の世界」になるのかもしれない、ということだ。ならないかもしれないが、可能性としては1番高いのではないかと筆者には思える。

ノスタルジーという観念は、特定の記憶のイメージやモチーフを肴にした「感じ」「気分」の再生産に他ならない。次のノスタルジー感を、クリエイティブで先行し定着させられれば凄いし、それは企業共同体のイメージでなくとも構わない。

一方、後の問いはなかなか難問だ。技術や創意によって味覚の代替ができると思考実験したところで、白ご飯と味噌汁の身体記憶=人口に膾炙した、永遠に再生産可能に思えるモチーフ―を塗り替えるものを想像するのは難しい。先日起きた某ハンバーガーチェーンの「ポテトを求める行列」は大変興味深かったし、現状の有力候補かもしれないが、ううむしかし、どうなのだろう。

しかし代替的な帰属的味覚が万が一醸成できたら、それは大事件にはなる。主食=ソウルフードの味覚が変わることがありうるなら、そもそもの「帰属・回帰」感自体が大きく揺らぐはずだ。仮にローカルな土地性に基づく食物の味覚とは関係ない、全世界で普遍的なものがイメージにおいても身体的記憶・味覚においても支配的なものになるなら(インスタント食品とさまざまな人種が行きかうフードコートとか?母胎はどうするか…)、戦争も人種差別ももはやなくなるかもしれない。なぜなら「帰属・回帰」感が統一されるからだ(というより「帰属・回帰」感が消滅するのかもしれない)。

もちろん、そんな代替的な味覚の発見がクリエイティブの役割かどうかもわからないし、そもそもこの問いに答えられるのは、色々な面でアップデート済みとなった未来の人々しかいない。

こう考えると、前者の問いに戻って映像表現が可能にすることを考えた方が「現実的」ではあるだろう。つまり、食べ物としての白飯・味噌汁はそのままに、その周辺環境イメージ、共同体イメージを置き換えることだ。新しい(気がする)ほっこり、新しい(気がする)ハートウォーミングだ。

社会における帰属・回帰先が定まらなくなってきた今日、そしてこれからにおいては、そろそろこの帰属・回帰のイメージも再編されそうなタイミングではある。それが先述した、マクルーハン的なノスタルジーとしての「ちょっと前の企業共同体的なイメージ」なのか、それとも全く違うものになるのか、そもそもそれは実写なのかアニメなのか。

そして何よりそれが本当に、多くの人が頭でなく身体的な記憶としても帰属・回帰感を感じられるものなのか。ココが欠けるとダメなのだ。だからこそ、どういうモノ・コト・ヒト・空間のモチーフを誂える(あつらえる)のか、が重要になるだろう。

確たるイメージはまだ登場していない。個人的にはもうひとつの予感として、山、森、川(日本古来の熊野信仰は母なる神イザナミを尊崇している)あたりの環境モチーフがどうも気になっている。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/