「コロナ禍」での描望感
ここのところ、あれほどまでに私たちを押さえつけていた「コロナ禍」マインドが、一気に影を潜めつつある。人出は急に増え、まるで何事もなかったかのように、世の中は普段の日常へとシームレスになだれこんでいるように見える。
失っていた仲間とのリアルなコミュニケーションや、久々に会う同僚たちとの飲み、などをひとしきり終えて、たぶん私たちは「ああいう巣ごもりの日々は何だったのだろう」とか、(大げさに言えば)「あの時、自由や希望を感じるモノコトとして自分は何を求めていたんだろう」といった反芻など当然せずに、目前の日々を消化している。求めていたモノコトが手に入れば、それはもはや求める対象ではなくなり、そして別の欲望が頭をもたげてくる。
さて、意味体験の類型について、「リフレーム・異化」「帰属・回帰」に続く3つ目の気分のタイプは「描望」である。上の文脈に接続するなら、「コロナ禍で、不自由な毎日にうんざりしながら、自由や希望を感じるモノコトとして求めていた」モノコトというのは、カタチの上ではまさに「描望感をもたらす、ど真ん中の」モチーフのように思えてしまう。
このように、殊にコロナ禍や戦争などの「有事」においては、そこで描望感をもたらすモチーフ=モノコトが「以前まで普通に送っていた日常」になってしまう。すなわち「元通りに戻る」ことが描望感の内容になってしまう。
しかしながら、元通りに戻ること、これは果たして本来的な描望の内容なのか、もっといえば積極的な欲望なのか、期待感や希望のモチーフなのか、と考えると微妙なものがある。これは描望感をもたらすモノコトとして、実はかなり例外的なモチーフのようにも思えてくるのだ。
ということで、いったん平時の位相に戻して考えてみたい。平時であれば描望感のモチーフは「より自由で、より豊かで理想的な、今とは違う時間」のためのモノコトヒト空間となる。「もっと〇〇、今よりも〇〇」というヤツだ。
景気が良くイケイケの時なら、モチーフは「もっと高く、もっと遠い、非日常」のものが力を増す。この場合、「高く」というのは「より高級」とか「よりプレミアムなステイタス」ということを意味する。そこにはバブリーな匂いも立ち込める(もちろん、これとは別の「ファンタジックな理想」とか「より精神的な満足度」なども当然存在するのだが)。
「描望」のモチーフは時代状況によって変わるものの、平時においてはほとんどの場合、時代時代の欲望や代償のストレートな照射・反映となる。本稿では描望感としての意味的なメイン、をいったんこうした「平時」のものとして考察する。
そうなると、いつだって「描望」感は「イマ・ココ」からの脱却を目指す気分である。その文脈やモチーフは、イマでないからカコ(美化されたメモリー)やミライ(希望や期待を寄せたいこれから)になるし、ココでないからアソコ(割と近い場所)やドコカ(イメージとしての場所)になる。
私事で恐縮ながら、たまたま先日出張先で朝散歩していると、Apple Musicからイヤホン越しに「微笑みについて」という、懐かしい曲が流れてきた。
筆者的にこの曲なんかは「描望」感をもたらす、ズバリの入力情報だったりする。当然アーティスト側もその効果を(暗黙裡に)込めているので、多くの人がそう感じるだろう。後ろ向き感があまりない、前向きでシンプル、かつポエミーな描望感。こうした感じは歌や詩にたくさん歌い込められてきた。みなさんにも「自分にズバリの描望感」を与えてくれてきた歌や詩が(あるいはヒトやコトや空間が)必ずあるはずだ。
ちなみにこの曲のリリースは90年代初期、バブルは弾けたもののまだ楽観的な余熱が世の中を覆っていたころで、多くの若者はドライブしたり、クラブに繰り出したりと毎日のリアルを楽しんでいた。そんな時代の、ある意味ノーテンキな「描望」感を久々に再生されると、今現在の「描望」感やそのモチーフはどうなっているのか?も一層気になってくる。
描望タイプの定義
「イマ・ココ」からの脱却を目指す描望タイプはその性格上、帰属・回帰的なモノコト・文脈からの脱却や一時的な退避に動機づけられている。前回・前々回と取り上げた「帰属・回帰」タイプの文脈も、ネガティブに見れば「しがらみが面倒」「責任感がウザい」「退屈で代わり映えがしない」ものだからだ。たまには逃げたい。
よって描望タイプの基本観念は、原理的には「母胎からの逃避(恋愛・ロマンス)」「郷土からの逃避(未知の場所・旅など)」日常時間からの逸脱(非日常・妄想・ファンタジー)などに寄っていく。親より恋人、故郷より都会、である。
とはいえ、描望はリフレーム・異化までいかない。「自らイメージし得ない事故的な異物との遭遇」がリフレーム・異化タイプの文脈的本質であるから、それに比べると描望はマイルドであり、もう少しハッキリ言ってしまえば「帰属回帰の文脈に<そのうち戻る>ことを前提とした」、あくまで一時的逃避の気分がメインである。よって、位置的にいえば「帰属・回帰」感と「リフレーム・異化」感のあいだ、ということになる。
図1 気分のマップにおける「描望」感の位置(中央の黄色部分)
描望感の根底をなす人間の欲望といえば、仏教の「煩悩(108種類)」をはじめ、マズローによる「欲求五段階説」や、マレーによる「欲求リスト」、さらにアルダファーによる「ERG理論」など、さまざまな定義がなされてきた。しかしこれら定義による「欲望」には当然、動物的な欲求や帰属的な本能なども含まれてしまう。
本稿における「描望」では、動物的な欲求・帰属的な本能その他に類するものは別のカテゴリにおき、主に<身体的自由・心理的/精神的自由を基調とした「イマ・ココ」からの脱却に紐づく気分>ということで大きく括る。
悪くいえば「現実逃避したい・夢を見たい」気分ともいえるが、そこには先述のように「帰属回帰の文脈に<そのうち戻る>ことを前提とした」、あくまで一時的逃避の気分としての「束の間の息抜き感」(現実の気分としてはコレが多い)から、原理的には「現実に対置し常在するパラレルワールド感」までの幅がある。
こうした、「描望」タイプ内にある気分のカテゴリ、ないしグラデーションはVol.03でも若干触れた通りだが、今回は特に映像を中心にこれらを紐解くことにする。
描望タイプの内部カテゴリ
以下、「描望」タイプ内にある気分のカテゴリとして、映像例を示しつつ、代表的なものを6カテゴリほど紹介してみたい。
浄化
「イマ・ココ」にある抑圧や重責からの解放、気晴らしという文脈において、溜まったストレスを身体的に放ち、浄化するという行為に紐づく気分である。カラオケやライブで発散する、踊ったりスポーツをしたり、あるいは観戦したりして騒ぐ、居酒屋でバカ騒ぎをする、などのコトもここに属する。読後感としては、スッキリする、気持ちいい、元気が出る、などになる。そして、比較的短期で日常に戻る=帰属・回帰の文脈に戻ることが前提にある。
自由解放
日常・仕事・責任の文脈からしばらく離れる、という文脈において、身体以上に心理的な解放が主眼となる気分である。空間・世界観として、日常から遠くの場所がイメージされることが多い。
モチーフとしては、旅が鉄板である。メタファーとして「人生の旅」としての異文化接触や異時間体験も含まれる。もう日常(=帰属・回帰的文脈)が追いかけてこない、別空間としての前提がそこにはある。だから読後感も、リフレッシュ感、リセット感のほか「はるばる」感などにもなる。映像表現上では「空の比率が高い、ヌケ感が良いもの」が圧倒的に多くなる。
憧憬(ロマンチック)
「イマ・ココ」とは離れた、理想的な他者との関係。その最も昇華した形が恋愛やロマンスだろう。そうした理想世界によって「イマ・ココ」から遊離する文脈において、現在状態を代償する気分である。いいなあ、憧れる、という読後感がメインであるが、それはロマンス的な状況に対してである。
この「いいなあ、憧れる」が特定の個人の生き様や見てくれになる場合もある。ロマンスは「憧憬」の一部である。同じ「憧憬」でも、生き様や見てくれに対するものは例えばこうなる。
憧憬(ロールモデル)―生き様・見て・態度
ちなみに、このロールモデルとしての憧憬が「他者優位」や「自己武装」に強く結びつくと、描望タイプではなく「レバレッジ」タイプへ峻別される。なお、この「憧憬」のタイプは下記に示す「妄想」の1ジャンルとも言えるが、意味体験上、自己同一感をもたらす傾向が強く特徴的なため、独立させている。
催想(センチメンタル)
今度は「イマ・ココ」とは離れた、記憶の時間になる。あの頃の想いを(やや甘く、時にほろ苦く)催す、そんな気分である。CMに限らず、圧倒的に青春モノが多い。甘酸っぱい、ないし未達成でもがく時間を描くことで「誰にでもありそうな共有的メモリー」へと心理が時間的に遡る、という意味では、先述のロマンチックとはやや異なっており、甘酸っぱい、ほろにがい、俗にいえば「おセンチ」という読後感がメインになる。
ただし、社会的主観としての「懐かしさ」「レトロ」「ノスタルジー」になると、それは帰属・回帰の1ジャンルであってここには属さない。このカテゴリではむしろ「帰属・回帰的な文脈から離れ自分の文脈を試したいともがいていた、そんな時間」が中心をなす。だから文脈は、青春や学生時代が多くなってしまうのかもしれない。
妄想(ファンタジック・フィクショナル)
「イマ・ココ」からいくらでも超越可能なものが妄想である。意味体験の位置的には、リフレーム・異化的な文脈にも近いカテゴリである。脳内的な虚構が多いため、身体的な解放感とはやや異なる。フィクショナルな虚構性という文脈において、現状とは異質で新鮮な心理的リアリティを感じる気分である。あらゆるファンタジーの表現、つまり物語や映画の世界は、多くがこのカテゴリのモチーフとなる。ユートピア表現や、いわゆる「沼にハマる」ようなモチーフもこのカテゴリに関係する。
爽活
「イマ・ココ」とは離れた、みずみずしく生命力にあふれたシーンやアクティビティという文脈において、心理的な爽快感が前面化してくる気分である。透明感、みずみずしさ、活力などが伝わり、活き活きしている、清涼感や爽快感ある、などが読後感になる。一見、先にあげた「自由・解放」感と似通う部分を感じるかもしれないが、ここには「解放、逃避による心理的な自由」は特になく、メインは束の間の爽快感、に留まる。
図2は、例示した6つの描望内カテゴリを表にしたもの、図3はそれらを観念の位置として図にマッピングしたものである。
図2 描望における各々の気分カテゴリ
このように気分に情報を紐づけることで、「商品・タレント」以外に、モノコトのより詳細な具体例などの考察も容易になる。
図3 描望における各々の気分カテゴリ=観念の位置
図3を補足すれば、妄想のカテゴリはエリアが広く、左下から右上までを一応カバーするものの、重心は右サイドにある。憧憬もしかり、である。
これらは残像感が強い分、日常の文脈(帰属回帰・左側)へ戻りたくない心理となる度合いが大きい。自由解放カテゴリも、それが旅行というアクティビティならまだしも、思想や生活様式の自由・解放にまでに至れば、やはり現状の文脈を遺棄しうる潜在力をもっているといえる(ちなみに一時的なリラックス感・癒し感は「帰属・回帰」タイプの下方に属する)。図2において、これらカテゴリが帰属・回帰文脈から「遠い」としているのもこの理由による。
これに比して、浄化や爽活のカテゴリは日常に戻るため、あるいはすぐ戻れるような発散や清涼感をメインにしている性格上、左側に寄っている。催想(センチメンタル)についても、自己の経験時間に依っており、「未知」でなく「既知」に近い性格上、左側に寄っている。
描望と産業の蜜月(イントロダクション)
さてここから、このような内部カテゴリをもつ「描望」という気分=観念こそが、資本主義や消費社会を駆動して、世界を発展させてきた力なのだ、という話を展開していきたい。メインは次回として、今回は軽くイントロダクションということにしたい。
たとえば「自由・解放」を例にとってみる。今なら普通にできる「会社に休暇をもらって、海外に一人旅にいく」とか、「南の島のリゾートで友達とのんびり過ごす」などということは、およそ高度成長期以降の消費のスタイルであり、もっと巨視的に見れば産業革命以降、すなわち余暇と消費という観念が生まれて以降のものである(もっと前、中世後期からルネサンス=資本主義の揺籃期、において既にこうした観念が生じていたとする説もある)。
Vol.03で「描望」のアウトラインを記した際、「レジャー」「観光」の起源にすでに触れているが、現在暮らす共同体から離れるという「余暇」という体験は、新たな気分を人々に発生させ、結果としてその気分を供給する「観光」という産業ジャンルをもたらした。同様に書物や映像はフィクション=物語によって妄想の気分を生み、「コンテンツ産業」をもたらした。浄化の気分はレジャーやライブ・アトラクションなどのイベント産業をもたらし、憧憬の気分はモードやファッション産業をもたらした。
各産業においては、いかに狙った気分のボタンを「ちゃんと押せるか」が重要であり、その優劣において商品やサービスの代替がなされてきたといえるだろう。いうなればこうした、気分のボタンを「ちゃんと押せるか」こそがマーケティングの原義といえるだろう。
産業革命や活版印刷によって、人々の欲望は急速に産業側によって先取りされ=仕掛けられ、「規格化」されてきた、というのは多くの識者が見解を一にするところである。そのための尖兵が、印刷物や映像を通して人々の「描望」の気分のボタンを<押しまくってきた>、誘惑的なイメージやビジュアルである。
しかしながら、私たちはこうしたイメージが「仕掛け」であることを、特に意識せずとも見切れてしまうような(少なくともモノに代償的固執などしない、ひょっとしたらコトにもそこまで心動かされない)、そんな気分「系」にすでに入っているのではないか。そこでは「微笑みについて」という曲も「ハイハイその気分ね」と、浸る前から心理的タグ付けをされてしまいそうでもある。描望タイプのモチーフも、ここらへんでかなりの入れ替えが行われている最中なのかもしれない。
次回は、「描望」感と消費(≒資本主義)との関係をたどりつつ、この先「欲望」はどうなるのか、というあたりについても考察していきたい。