映像表現と気分のあいだ

txt:佐々木淳 構成:編集部

ここまで、TVCMにおける体験=「ぽさ」「感じ」がCCTマップによって十数タイプに大別できること、そしてそれらが時代ごとの感情に沿って、主たるタイプを旋回させながら今に至っていることを述べてきた。

今回は、このCCTマップによる体験タイプが、TVCMの体験のみならず、じつは日常での商品とかサービス等によるモノ・コト体験や、日常のアクティビティによるコト体験にも概ね応用できる、ということについて述べる。「体験」だの「ストーリー」だの言われている周辺について見晴らしを良くしていくための、ちょうど連結部分としての話になる。

寄物陳思――その社会的共有

あるイメージやストーリーの映像を見て、何かのぽさ・感じがもたらされる。その結果、気分が変容する。第一回目で、この「ぽさ」「感じ」を「体験」と呼ぶことを書き、その権化として和歌や俳句を挙げた。

寄物陳思ということばがある。これは万葉集の詩にある方法で「物に寄せて思いを陳る」すなわちある物について感じた「ぽさ」「感じ」を手掛かりに、その心象を謳うことだ。ただし、「なずらへ歌」や「たとへ歌」とも言われるように、多くはその心象、例えば「愛でやかで美しい」とうい心象は、見ている対象(花)でありつつ、別のもの(愛する女性)をさしていたりする。

鳴る神の、少し響(とよ)みて、さし曇り、雨も降らぬか、君を留(とど)めむ(柿本人麻呂)

これは「(愛する人との逢瀬が終わるのがつらいので)いっそのこと雷がなって暗雲のち雨になってほしい、そうすればもっと一緒にいれるから」という歌である。まあこういう、愛とか恋とかベタな方向はかなり多い。J-POPの原点は万葉集などと言われるのもむべなるかな(万葉の気分をEDMにしているバンドもあるようだ)だし、実際こうした古代の歌にインスピレーションをうけて、有名な映画が作られたりもしている。

歌には個人的な見立ても多いものだが、少し位相を変えてTVCMに主題を振ってみると、そこではもう少し「皆に共有的な感じ」を用いている。あるモノを訴求するTVCMであれば"特定の「感じ」がするコトやヒト(タレント)、空間に絡めて、その「感じ」に近いテーマやイメージで語る"という風に、暗黙的な「感じ」「ぽさ」が通底していることが多い。

親しみを持ってほしいブランドや商品は、例えば家族のシーンや普段の街(商店街などもアリ)、カジュアルなイメージのタレントなどで構成されるとその感じ「らしく」なるだろうし、新しさや未来感を込めたい場合は、革新的なヒトや未来感のある場所が「らしさ」を引き立てる。

と、このように話を進めたところで、そもそもの対象をTVCMから現実の「モノ・コト・ヒト・空間」へと一般化していったらどうなるだろうか。私たちの中ではすでに、「感じ」に紐づく類似物(オシャレな場所といえばココとか、ホッコリするコトはこれとか)が無意識裡にデータベース化されている、と思われるからだ。

これは必ずしも「自分もそう思う」「自分はそう思わない!」という話ではなくて「世の中的にはここはオシャレと思われている、そのことを私たちみんなも察知している」という前提状態のことだ。いわば「社会共有的な寄物陳思」の数々によって、世の中の「モノ・コト・ヒト・空間への支配的・常識的な体験タイプ」(文化的コードともいう)というものが、すでに何となく決まっていることをさしている。

すなわち、歌においては「個人的な寄物陳思」も相当程度に発信できるのだけれど、TVCMその他では上の「社会共有的な寄物陳思」(社会に共有されているであろう「感じ」)が示され、さらに現実の「モノ・コト・ヒト・空間」では、各々要素への「集団的な」寄物陳思がすでにひしめくようにワークしているのだ。「モノ・コト・ヒト・空間」への共有的な先入観、集団的主観とよんでもいいかもしれない。

映像体験とモノ・コト体験の重なり

「サピエンス全史」を著したハラリ(Yuval Noah Harari)も、上の「集団的な」寄物陳思の状態に注目した。彼は「物語なくして人間は社会を作れず、社会的存在として生きられない」という趣旨を述べたが、そこで彼が用いたのは「共同主観的現実」というものだ。上の「集団的な」寄物陳思(の数々がひしめきあっている世界)というのも、これと同じ文脈にあると考えてよいだろう。

これは単なる主観でも科学的客観でもなくて(筆者的に捉えるなら)社会で何となくそういうものだと共有されている(現実の「モノ・コト・ヒト・空間」が私たちにもたらす概ね共通の)体験のことを指す。この「共同主観的現実」があるから、私たちはさまざまなモノコトについてお互いに話ができるし、その含意も共有できる。こうして安定したコミュニケーションが担保され、社会が成り立っているというわけである。

時代を遡れば、フッサールの提示した「間主観性」というのもこれと通底している。第一回目で「意識体験」というコトバを用いたが、以降この「モノ・コト・ヒト・空間」に宿る社会共有的な体験=感じ」のことを「意味体験」と確定的に記すことにしたい。

例えばナナハンのバイクを見ると「ワカモノっぽい」「青春っぽい」「モヤモヤをぶっ飛ばして爽快っぽい」などの意味体験が共有されやすいだろうし、その感じでナナハンのストーリーを作れば(相当ベタで凡庸だが)やはり社会共有的になることは間違いない。

ちなみに、筆者が現在本稿を記しているカフェの横には花屋がある。そこには当然、色とりどりの花が売られている。これらは「祝う・見舞う」という他者前提的=「帰属回帰」タイプの意味体験か、または「自宅に彩りを加えて豊かな気分になりたい」という「描望」タイプの意味体験を一義的にもたらす。

店員さんもまず「ご自宅用ですか?贈り物ですか?」と聞いているから「花を買う」という「コト」が位置する意味体験タイプは大きくは2種類だよね、という風にみなが共有されていると言える。このように、多くの「モノ・コト・ヒト・空間」の位置する/属する意味体験タイプは、すでに相当程度、暗黙裡に決まっていることがわかる。

ここまでを整理がてらまとめれば、モノ・コト・ヒト・空間は「ぽさ」「感じ」という意味体験をもたらす。比喩的にいえば、モノ・コト・ヒト・空間は私たちの中にあるCCTマップにある意味体験タイプの(おおまかに)どれかのスイッチを押してくる。このときには、同じ意味体験タイプに紐づいている別のモノ・コト・ヒト・空間が連想されやすい、というわけだ。図にするとこんな感じだ。

図
意味体験への紐づけ・連想のモデル図

さて、先述したTVCMとは寄物陳思の「産業映像バージョン」とも言える。寄物陳思の「物」にはモノ・サービス・ブランドなどが含まれ、それらに寄せての思い陳り(憧れる・カッコいい・かけがえがない・ほっこりする、などの気分を醸すイメージやストーリー)がある意味体験タイプとして視聴者に伝播する。

和歌における寄物陳思は、超個人的な見立てを伴っていても(伝わる人に伝わればいいので)差支えないが、TVCMの場合はターゲティングやブランディングという目的があるので、意味体験はより社会に共有される必要がある。だから訴求する商品やブランドがオシャレな意味体験タイプを狙うなら、すでに世の中的にオシャレと思われている「モノ・コト・ヒト・空間」を利用することも多くなる。

逆にいうと、TVCMにどのような意味体験タイプに属する「モノ・コト・ヒト・空間」が使われているかを見ていくと、訴求する商品やブランドをどのような意味体験タイプとして(企業が)位置づけたいのかがある程度逆算できる。

このような視点で(詳細は連載第三回参照)掘っていくと、今度は「特定の意味体験タイプ」に「特定の商品やサービス」がある程度明確に紐づく例もわかってくる。最近は若干変わってきた部分があるが、クルマや化粧品は長らく「レバレッジ」タイプの代表的な商品だった。エステも高級マンションもそうである。

言われてみれば当然で、それらの所持や利用によって私たちは自分の商品価値を上げ、他人に差をつけ優越するのだから、これらは程度の差はあれどどれも「武装化」のツールである。だからカッコいい、美しい、イケてる、プレミアムっぽい、のような心象、読後感とセットになる必要があり、それゆえ意味体験は「レバレッジ」を目指す。

maidigitvチャンネル

この場合、モノを語るモチーフであるコトの方はどう表現されるだろう。都会の洗練された空間での飲食やプレミアム空間での社交、成功者にのみ探訪可能なスペシャルな自然景観との出会いなど、やはり相当程度に「武装化」に寄ったモチーフになる。

すなわち、TVCMの意味体験はそのままクルマ(例えばスポーツカー)というモノに私たちの社会が感じる意味体験と重ねられていく。もちろん個々人においては(社会的に共有された)こうした「レバレッジ」の意味体験に対して「気おくれ」のような読後感に逸れていったりすることもあるだろう。

意味体験タイプと紐づくモノコトの変動

一方で、例えばクルマについては90年代半ば以降、正反対の「帰属回帰」の体験を目指すものもでてきた。

nissanavenirblastarチャンネル

AUTOXP041チャンネル

もちろん、スポーツカーとファミリーカーは違うので一括りには言えないが、スポーツカーに乗っているからモテる、ファミリーカーだとダサい、みたいな括りがミレニアムを境に徐々に溶けてきたのもやはり事実だろう。このように、モノが紐づく「体験」が変化する、ということもママある。

皆さんの周りでも、昔は得意気に見せびらかしていたものが、今では全くその神通力を失っている(得意げに見せること自体がギャグになりかねない)ような「モノ・コト・ヒト・空間」があったりしないだろうか。それは、「モノ・コト・ヒト・空間」の紐づく先の意味体験タイプが時の流れの中で変化した(当初はレバレッジだったのに今では帰属回帰、など)ことに因るのではないだろうか。

今では見た目が派手でカッコいいとかオシャレであるということより、新時代に対応できている、情報化を乗りこなし乗り遅れていない、というあたりの文脈が、より「レバレッジ」タイプに相性がよくなっている。

※最近流行りのclubhouseなども、なにかこのタイプに一部絡んでいるように思う

意味体験タイプの一覧・総覧

本節冒頭で述べた通り、映像体験における(特にTVCMにおいての)意味体験タイプには、モノやコト・ヒト・空間が密接に紐づいている。従って、TVCMの意味体験をパターン分けしたCCTマップには、TVCMのみならずモノやコト(あるいはタレントや著名人などの「ヒト」や、街のイメージなどの「空間・環境」)も相当程度紐づくわけである。

このように考えれば、ハラリの「共同主観的現実」をさらにタイプわけし、そこにコンテンツ体験のみならず、モノ・コト・ヒト・空間のもたらす意味体験も紐づけられるのではないか、という 広いテーマが見えてくる。

モノ・コト・ヒト・空間のもたらす意味体験というとなんか大仰だけれども、実はこんなことは、私たちがみな暗黙裡に日常生活の中で毎日毎秒経験していることだ。そして、意味体験のタイプ分けがされていればこそ、こういった暗黙的な意味体験による分類が可視的になるということである。意味体験のタイプ分けのモデルというのは、なかなか使えるものなのである。

ちなみに筆者も当初、こうしたモデルの意味など全くわかっておらず、意味体験(当初はコンテンツ体験)のタイプ分けをがむしゃらに行っていたのだが、そんな中で記号論や現象学、現在のAIをめぐる問題点などを順次紐づけて吸収していったら、なんだか全てが繋がってきた、という感じなのである。意味体験を巡る学問的な先行研究などについては、次回以降で述べていきたい。

広告の父、マーケティングの祖などと称されるエドワード・バーネイズ(Edward L.Bernays)はその著書Public Relations(1952)において「人間のパーソナリティのなかの隠された市場 (Hidden Markets in Human Personality)」という表現をしている。目に見える市場(今ならショッピングモールや駅前複合施設などがわかりやすいかもしれない)より前に、目に見えない、私たちの心の中の隠された市場を見出すことが大事、ということだ。

ここで市場というのは「求める意味体験(タイプ)」と同義だろう。実際にバーネイズはこうした持論に基づき様々なプロパガンダ、キャンペーンを行い成功を収めた。彼は「心の中の市場」の地図を特に残しはしなかったが、「意味体験」のタイプ化とマップ化は(図らずも)その類型が一覧・総覧できる地図に近いかもしれない。それはやや大げさにいえば、ある社会・文化における意味体験のステレオタイプ一覧ともいえる。

Public Relations
画像出典

紐づきを変化させる/変化を「見切る」

しかしながら、CCTマップのある体験タイプに紐づいていた「モノ・コト・ヒト・空間」が、先述のクルマの例のように、紐づく意味体験タイプをチェンジするということがよくおこる。逆に見れば、特定の意味体験タイプを時系列で眺めていけば、そこに紐づく「モノ・コト・ヒト・空間」が変わっていくということである。

スタートアップ界隈の知人らとその昔、こんな話で盛り上がったことがある。20世紀のロックバンドと21世紀のスタートアップはどちらも「レバレッジ」タイプに紐づき、それは「単語をいれかえるとすぐわかる」というのだ。

筆者の青春時代、バンド活動をしているということはひとつの「誇示」につながっていた。できるだけ他人の聴いていない新たな音源を求め、できるだけ新しい表現をする。知り合いのバンドにレコード会社から声がかかれば、周囲からはひときわの羨望、そして嫉妬がまきおこる。

ところで上の文の「音源」を「ビジネスモデル」、「表現」を「サービス」、「レコード会社」を「ベンチャーキャピタル」にしてみるとわかるが、これは21世紀のスタートアップをめぐる文脈に変換できる(どちらも最初は大変だが)というのが上の話である。ジャケ写のメンバー紹介も「ヴォーカル」「ギター」「ドラム」を「CEO」「COO」「CTO」とかにすればスタートアップHPのメンバー紹介に変換できる。「海外展開」はさしづめ「ワールドツアー」だろうか。

そしてなにより、意味体験タイプはどちらも同じで「レバレッジ」っぽい。つまり、昔の「バンド」の意味体験の位置を、現在は「スタートアップ」が占めている、という説なのだ。なるほど、と思わされた記憶がある。つまりこれは特定の意味体験(「レバレッジ」)の中心に紐づく要素が、時代によってかわる、ということを示している(その変換原理として常に上のような「代入」が可能なのかはわからないが…)。

現在に立ち戻ろう。第一回にも述べた通り、コロナ禍における現在は社会全体が変化しているけれど、もっとちゃんと言えば、さまざまな「モノ・コト・ヒト・空間」が、その紐づく意味体験タイプを変えている。すなわち、モノやコトが今まで紐づいていた意味体験タイプには紐づかなくなっている場合も多くありそう、逆もまた真なり、ということだ。

今までは時間に追われて毎日電車に揺られ、ストレスや面倒も沢山ありつつ、それでも同僚や部下とちょいちょい飲んだりもしつつ会社生活をしていたのが、いきなり自宅作業で家族としか会わない生活になる。家庭は変わらずだが、オフィスは「帰属回帰」する先ではなくなる。当然、家庭の意味体験タイプも変わる。などなど…皆さんにも色々と思い当たる部分があるだろう。

こうした場合、仕事における「新たな帰属回帰先」を仮説したり、作る必要があるのかもしれない…こうして新しい商品やサービスが誕生していく。つまり(意味体験上での)「モノ・コト・ヒト・空間」が紐づく先(意味体験タイプ)の変化」こそが、新しい商品やサービスが誕生するメカニズムの本質であり正体なのだろう。

さて、本稿のテーマである「映像表現」の方に引き付けてみよう。さまざまな意味体験を創造・拡張してきたプレーヤー領域=たとえば映像クリエイティブの領域においては、こうした状況に際してどういうものが出現してくるのが本質的なのだろうか。

これに対してノーマルな応答としては、たとえばある「コト」や「空間」に対して、今までとは全く違う意味体験タイプを「新たに紐づける」アイデアや動きがどんどん出てくること、ということになるだろうし、それが本質的なことだろう。

ここに関しては色々と思うところがある。精神分析家のジャック・ラカンはこう言っている。

「お菓子が欲しい」と幼い我が子が泣き叫ぶ時、その言葉に簡単に応じてしまうことなく、そっと抱きしめ、頭を撫でてあげるのが賢い親である

第四回の最後に現代そのTVCMを「醒」としたが、リーマンショックや震災が直撃し「頑張ろう」「絆」のようなコトバが溢れた。広告であればわかるが、アートの世界でもそうだった。そして実はこれは日本だけではなく、海外のイノベーション界隈・クリエイティブ界隈でも「包摂」「共感」というワードがこの5年10年あふれてきている。そして世界中がコロナ禍となり、それが日常化し、この先どうなるかは以前にもましてわからない。

「失意にある」「不安だ」「先が見えない」という感情が世の中に充満するとき、往々に社会共有的なスローガン・メッセージは「頑張ろう」「負けるな」「カネよこせ」全面展開、みたいになるが、これって実は上のラカンの「お菓子」だったりしないだろうか。もちろんそれも必要だけど、表現者すらそれだけになっちゃうとどうもなあ、と微妙な気になったりすることがしばしばある。

新たに気になってきた「ぽさ」「感じ」に向けてアンテナを立ててみれば、ある意味体験タイプに、そこに今まで紐づいてなかった新しい「モノ・コト・ヒト・空間」が爆誕していたり、何かが消滅していたりと、さまざまなことが見えてくる。これまで述べてきた通りだ。その辺を見抜いた切り口(見切り)やその鋭さ深さが、映像表現ほかさまざまな表現の源泉であり、重要で本質的なところなんだろうとおもう。

さて、次回は今回見てきた「意味体験」について、それがどのような研究的歴史をもち、例えば人工知能(AI)の領域とどういう関係にあるのか、について述べていきたい。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/