他者の何気ない一言が、自分の人生を変える分岐点になるかも知れない。
その逆もまた然り。今回はそんなお話です。
6畳間の「お座敷暗室」
大学1年、写真学生だった私の自宅には暗室がありました。
暗室といっても、6畳間の自室の一角を使用したお座敷暗室です。
写真学科ならば大学に暗室があるだろうと思われるでしょうが、大学の設備・資機材を借りるのはそう楽じゃないんですね。毎回、書類に記入して撤収時の掃除を含めての時間内しか使用はできません。
時刻も朝9時から遅くても19時頃まで。写真を撮るのが学ぶ目的で入ったのに、これでは意味がないではないかと思った私は、早速自室に暗室を構築したのでした。
引き伸ばし機はフジのF670MFという集散光式のものを使用していました。中野にあった日東商事さんで購入して、バスで自宅まで運んだ記憶があります。その引き伸ばし機の一番のメリットは、35mmから中判(6×7)まで焼けるのに圧倒的な軽さなこと。大学2年の頃からライカやローライ、ペンタックス67、パノラマカメラのワイドラックスを使用していた自分には、これ一台で充分とも思えました。
しかし、当時アルバイトをしていた銀座の三共カメラにて、常連だったお客様から言われた一言で、私はとある沼に堕ちていくことになります。
「引き伸ばし機はやっぱりフォコマートだね。ライカで撮影してるなら尚更だよ。」
フォコマート
フォコマート。エルンスト・ライツ社がかつて製造していた引き伸ばし機です。
当時知識の乏しかった私が、フォコマートの情報に目を凝らすようになったのは言うまでもありません。
1933年に最初のモデルが発売されたフォコマートIは、24×36mmのライカ判専用機でしたが、1935年に6×9cm判まで使用可能なフォコマートII型が発売されました。各タイプで数回のモデルチェンジがありましたが、中でも代表的なのが1951年から発売されたフォコマートIc、1954年から販売されたフォコマートIIcでしょう。どちらも内部にコンデンサーレンズが組み込まれた集散光式引き伸ばし機です。
1979年から販売されたフォコマートV35も散光式・35mm専用機ですが、未だ根強い人気を保っていますね。
フォコマートが他の引き伸ばし機と違う1番の特徴は、自動焦点だということ。
一度ネガをセットすれば、拡大率を変えてもピント調整の必要がない優れものです。
まあ一応ピントルーペでチェックする訳ですが、いつ覗いてもネガの銀粒子がクリアに見えるのは大したものですね。
さて、知識を身につけたところで気になるのはフォコマートの何のモデルを手に入れるかということです。
当時から好きだったアンリ・カルティエ・ブレッソンのプリントに見られるような黒枠がついたプリントをしたいなあと思っていた私には、自然とIcが気になり始めていました。しかし、中判カメラも使っている私。作業スペースが限られていた私には、2台も自室に引き伸ばし機を置くことは考えられません。かといってIIcは当時から高価。
と思っていたら、程度はそこそこですが実用には充分なIIcが三共カメラの店頭にやってきたのです。
小一時間ほど悩み、よしっと覚悟が決まりました。男は度胸です。
「これ買います。」
お店にとって、まとまった金額で販売できるが売れるまでは場所ばかりとる金属の塊が早々に巣立つことになりました。そこから数日後、赤帽の軽トラックに乗ったIIcが我が家にやってきました。
自宅到着後、まず驚いたのは今は亡き祖母でした。火星人のような見た目の黒い訳わからないものを孫が運び込んだのですから、そりゃ目を丸くしたって当たり前でしょう。
「ドイツ製の電気ランプだよ」と説明すると、まあ納得してくれました。
自室暗室にフォコマートの組み合わせで、大学の課題はほぼ全てこなしました。
集光式の引き伸ばし機は集散光式に比べてネガの埃や傷が目立ちやすいのがネックですが、それは丁寧な暗室作業を心がけるきっかけにもなりました。ズボラな私には結果オーライといったところでしょう。
ガラスネガキャリアと伸ばしレンズのクリーニング、月一回のコンデンサーレンズの掃除は欠かせません。
あと年一回、稼働部に注油をしています。フォコマートには注油部分が赤くペイントがされているのです。
ここ、個人的に好きなポイントですね。
あれから12年以上が経ちますが、今でもIIcは現役です。
3回ほどの引越を経験して、今では管理している会員制暗室に配置されています。
2011年3月の東日本大震災の時は、台座位置は前後していましたが自室のテーブルから落ちずにすみました。
妻よりも長い付き合い、今後とも末長く活躍してもらえるよう頑張ります。
さて困ったことに、一時期高価だったフォコマートも最近では暗室を閉める方が増えたのでしょうか。
安価な値段で市場に出てくるようになりました。海外では、まだそこそこ使い込まれた物でも高価で取引されているようですが…日本ではもうそこまで人気はないのでしょうか。
困ったことに、そんな訳で我が家には最近フォコマートがどんどん増殖していっています。
すでに玄関ホールにIIcグレーの最終モデルが1台、V35が1台、Icに至っては3台リビングに鎮座しています。
あと来月、ヴァロイIIが1台…もう1箇所暗室を作らなきゃいけませんね。
何度も引越の度に移動を経験したので、フォコマートの移動や引取りには躊躇しなくなっている自分がいます。
私の周りには車の助手席にフォコマートを固定して移送する方が珍しくありません。
一番すごいなと思ったのは、新幹線の席に座らせて運んだという方がいらっしゃいました。
なかなかシュールな光景ですよね。
次回は、フィルム現像に関してのお話。
大判フィルムの現像用に、人生初のオーダーメイド品を発注した思い出話です。
「モーター音と適正ネガ」
お楽しみに。
暗室管理人|プロフィール
1990年東京生まれ。日藝写真学科の元落第学生。東京都渋谷区にある24時間・365日稼働の会員制暗室「DARK ROOM 207」創設メンバー 管理・運営人。普段はサラリーマン、一児の父。三度の飯より暗室好き。