あれ欲しいなと望んでも、手に入れるには難しいものが人生にはいくつもあると思います。
原因はいろいろです。お金が足りないとか、出会う機会がないとか。出会っても向こうに気がないとか。
あの頃君は若かった。なんの話だ。
お金も場所も出会う機会もない男が、ついに手に入れることとなった相棒の話。
今回はそんな話です。
エイトバイテン
エイトバイテンという20×25cmの大きなフィルムを使うようになったのは、大学4年の春。
ディアドルフ8×10というマホガニー製の木製大判カメラを手に入れたことがキッカケでした。
それまでゼミの実習で使っていた4×5の4倍もの大きさになるフィルム。
価格も緊張感も倍になります。フィルムホルダーに装填するのも慣れるのに一苦労。ピント合わせの大変さも倍です。これ4×5の方が使いやすいんじゃないのか。何をこんな無理してるんだろう。勢いで手を出してしまったけれど、やっぱり向いてないのかもな。
しかし、現像して11×14のバライタ印画紙に焼き付けたプリント(コンタクトプリント)を見ると、その苦労もネガティブな思いも一気に吹き飛びました。圧倒的な情報量。ピントがあったところをよくよく見ていると、まるで吸い込まれそうな感覚に陥ります。この同時期に、東京都写真美術館で石元康博氏のバイテンで撮影した東京の写真や、杉本博司氏の劇場シリーズをオリジナルで観る機会がありましたが、その際も同じ感覚に陥りました。「お前は何を言ってるんだ」と言われそうですが、これは実際にプリントを凝視した人にしか分からないと思います。
あまりに長時間同じプリントを凝視していたので、最後は学芸員の方に声をかけられてしまいました。確かに側から見たら完全な不審者ですよね。完全に「洗脳」された私。大学4年間の集大成を飾る卒業制作はバイテンで撮影するぞと決めました。
バイテンとの出会い
そして大学の暗室で、私はバイテンの引き伸ばし機に出会います。
ZONE VIという散光式・光源はコールドライト。タイマーとは別にマルチグレードフィルターが装備されていて、 細かなフィルターワークが可能でした。が、作りはアメリカ製らしく大雑把というかなんというか。
自宅の暗室にあったフォコマートと比べてしまうと、工作精度は雲泥の差。
「お前が機械に合うようにするんだよ」というスパルタ方針でしょうか。まるでハートマン軍曹の怒号が聞こえてきそうです。このZONE Ⅵには大学卒業までの1年間大変お世話になりました。最後は支柱のカムが完全に削れて、クランプでランプハウスを固定していました。今考えれば、中々アナーキーなことをしていましたね。
そして、大学卒業を控える私の前に1つの難問が立ちはだかります。
大学卒業後のバイテン引き伸ばし機をどうするかです。
まさか大学に借りる訳にもいきません。当時調べてみると、都内にあるレンタル暗室では1箇所だけレンタル可能でした。入船にあるヒットオンという暗室に、ダースト184という引き伸ばし機がありレンタル可能でした。
現在のアトリエ・シャテーニュさんの前身です。
レンタル暗室で借りることを想定してはみましたが、やっぱり好きな時間に好きなだけ暗室をやりたい自分としては、自分の引き伸ばし機を買うことしか道はないなと思った訳です。
思ったのはいいのですが。…問題はいろいろ山積みです。
まず第一はお金です。当時はデジタル写真への急速な撮影機材変更が進み、暗室機材の多くがお払い箱な印象がありました。それでもダーストのバイテン引き伸ばし機となると価格も大きさも別格です。中古でも国産・新車のコンパクトカーなら余裕で買える価格。大学卒業と同時に、引き伸ばし機のためにローンを組む度胸は流石にありませんでした。
そして第二に重量。もし自分が度胸ある男であっても、次に引き伸ばし機の置き場所という問題に直面します。
重量物である故、床の補強工事が必要になります。木造住宅の2階にそのまま置いたら、床が抜けるのは目に見えて明らか。当時から付き合いのある写真家の方はマンションのワンフロアを暗室にしていましたが、床と天井を抜いていました。賃貸だろうに良くやったなあと驚愕し、「よく工事できましたね」と聞いてみると暗室のためにマンションを買ったとの回答。…やっぱりお金がかかりますね。
その他、大学のゼミでお世話になっていた写真家の三好耕三先生が使っているエルウッドという引き伸ばし機や、 オメガのダイクロイックFという伸ばし機を探してはみましたが、どれも売りになんて出ている訳もなく。
虚しく時間だけが過ぎていくのでした。
ベセラー810
そんなある日。
「お前にピッタリなやつが有るぞ」と三好先生に教えてもらったのが、ベセラーのMT810でした。
ベセラーの引き伸ばし機は大学の暗室にも並んでいて、よく知っていました。ランプハウスを電動で昇降させるので、 実習中の暗室には独特のモーター音が響くのです。あれ、でも4×5まで対応サイズだったよなと思いよくよく話を聞いてみると、ヘッド部分をバイテンサイズに増設したものが販売されていたとのこと。バイテン引き伸ばし機の中では最軽量、これなら自室暗室にも置けそうです。ちょうどアメリカで出品されているぞとebayのページを教えてもらいましたが、輸送費や関税を加えると価格は天上知らず。もし日本で売りに出ていたら考えようと思った2週間後。
ベセラー810が売りに出てるぞと三好先生からのお告げ…じゃない一報が。
詳細を聞くと、月島の銀一に売りに出てるぞとのこと。値段も大学生の身分だった自分でも何とか手が届きそう。
まあ、見るだけよと思い週末に月島の地へ。が、念のためお金を懐に忍ばせています。
倉庫がそのまま店舗になった銀一さんのドアをくぐり、べセラーを見に来ましたと告げると、鋼鉄製の階段を登ったステージ上の場所に案内されました。
「ベセラーね、ええとどこだっけ。…あああれだ。」台車に乗って、大きな金属の塊が姿を現しました。
錆もなく、昇降用のモーターも問題なさそう。「昔は高かったんだけど、今じゃ安くなったねえ」とスタッフさん。
自宅からここまでの小一時間。ずっと私はこの引き伸ばし機を買うか否か悩んでいました。
ましてもう社会人の世界に片足を突っ込んでいるのです。写真を今までのようにやる時間はお前にあるのかと、もう一人の私が尋ねてきます。いや買うべきだ、だからお前はここまで来たんだともう一人の自分。ええい、うるさい。
今こそ清水の舞台から飛び降りる時だ。
「…買います」
「へっ?」
「このベセラー買います。」
「ええ、これ買うの?…本当に?」
スタッフさんのポカーンとした顔が、今でも忘れられません。
人生初めてのバイテン引き伸ばし機は、その2日後にハイエースに乗ってやってきました。
孫がまたとんでもない物を自室に運び込んだと、祖母が溜息をつきましたが全然へっちゃらです。
社会人になっても写真を続ける暇なんてあるのか、という心配は杞憂に終わりました。
むしろここまでしたんだからやり続けるしかないと思ったからでしょう。
「やっぱり手に入れてよかったろ。」
ベセラーを手に入れて卒業した2年後、個展を開いた私に三好先生が言った言葉です。
今でも暗室の一番目立つ場所にべセラーは配置されています。毎週のように稼働していますが、故障知らず。
頼もしい奴ですね。因みに大学で散々世話になったZONE VIも、紆余曲折を経て暗室に佇んでいます。
因みに、ベセラー810はその後もう一台手に入れました。
今、自宅のリビングでこの原稿を書いていますが後ろを振り返ると大きなランプハウスが目立つ彼がいます。
え、リビングに引き伸ばし機があるなんておかしい?はい、それは私が一番よく分かっています。
次回は暗室を突き詰めると必ず欲しくなる、アレのお話。
ベセラーに続く、ヘビー級のアイツ。
次回、「憧れのフィルム乾燥機」。 お楽しみに。
暗室管理人|プロフィール
1990年東京生まれ。日藝写真学科の元落第学生。東京都渋谷区にある24時間・365日稼働の会員制暗室「DARK ROOM 207」創設メンバー 管理・運営人。普段はサラリーマン、一児の父。三度の飯より暗室好き。