
「ニコンF2」の発売は1971年。メカ的には「ニコンF」に準じた仕様とするが、共通の部品はファインダースクリーンを除いてないと言われている。シャッターの最高速は1/2000秒。クイックリターンミラーは大型化されニコンFの欠点のひとつであった望遠レンズを装着したときに発生するミラー切れを解消
ニコンの"F一桁機"について、その歴史やつくり、エピソードなど改めてここで述べるまでもないだろう。日本の、いや世界のカメラに関する歴史の一角をなすもので、フィルムカメラだけでなく写真やカメラ全般を趣味にするとき、ある意味必修科目でもあるからだ。大袈裟な言い方をすれば、その存在を知らない写真愛好家は"もぐり"と言い切ってしまうほどのモデルである。当然"F一桁機"2世代目である「ニコンF2」も例外ではない。そのため、ここでは筆者の個人的な話を主に語らせていただきたい。

私とF2との出会いは1980年、高校3年生のときであった。当時「ニコンF3」が発表されたばかりで、カメラ誌は全て同モデル一色。いずれも多くのページを割き、しかも複数号に渡って紹介するなどセンセーショナルな扱いであったことを記憶している。もちろん天下の"F一桁機"最新モデルであるため話題に事欠くことはなかった。特に電子制御式シャッターや絞り優先AEの採用、イタリアのインダストリデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロによるモダンなボディデザインなど、プロユースを考慮したカメラのそれまでの概念を大きく覆すものであり、写真愛好家の注目を集めないわけにはいかなかったのである。
ところがそれゆえに一部の論客がF3に対しいろいろ疑問をぶつけた記事も散見された。電池がないと作動しない電子制御式シャッターや、当時アマチュア向けと捉えられることの多かったAEの搭載に加え、ファインダーに収まる当時は比較的新しいデバイスで耐久性に不安のあった液晶パネルの採用など、ニコンのフラグシップである"F一桁機"に相応しくないと辛口の論評も見受けられたのである。そして、甚だしく読解力の不足する私は次のように解釈してしまったのである。

「本格的に写真に打ち込むための相応しいカメラは、機械式のシャッターを搭載したものであり、露出にAEは不要。液晶パネルのような最新デバイスは搭載しないものが好ましい」と。
今となって思えば笑い話もいいところだが、当時は子どもなりにいたって真面目に考えた末の結果であった。そしてちょうどニコンの一眼レフ購入を考えていた私は、最新のF3よりも先代モデルとなるF2が自分に最も相応しい1台であると確信してしまうのである。
ちなみに、ニコンの一眼レフが欲しかった理由は、当時好きな写真家や身近にいる大人の写真愛好家の多くがニコンユーザーであったこと、そして新宿西口の某カメラ量販店が販促用に配布していた黄色い価格表の影響である。その価格表は東京に住む従姉妹が以前に送ってくれたもので、ニコン以外のメーカーのカメラやレンズに関しては定価から割引後の店頭価格が記してあったが、ニコンのところだけブランクになっており、それが子ども心としては特別な存在であるように思えたのである。なお、カメラ購入の費用は、学校には内緒で通ったサイダー工場の瓶洗いのアルバイトなどで得たものであった(一部はお年玉や親からもらった小遣いも含まれるが)。
早速地元のカメラ店をあたってみた。狙いは新品の「F2フォトミックA」。しかしながらどこにも店頭に並んでないのである。F2フォトミックAはおろか、露出計のないF2アイレベルファインダーもである。旧モデルとなってしまったこと、買い手の少ないフラグシップモデルであったからだろう。一刻も早く手に入れたいがために、県庁所在地のカメラ店をあたってもらおうとその地に住む叔父に連絡をとる。この叔父もカメラの好きな人間で、当時モータードライブ付きの「コンタックスRTS」と「プラナー85mmF1.4 AE」をはじめとするツァイスレンズを所有しており、幼気なカメラ小僧を大いに羨ましがらせた人であった。そして見つけてくれたのが、"ニシタチ"と呼ばれる歓楽街近くのカメラ店であった。

喜び勇んで現金を握り締め電車に乗りお店に向かったのだが、そこでちょっとした誤算が。ショーウィンドウに鎮座していたのはフォトミックAではなく、それよりも値段の張る「フォトミックAS」。レンズも同時に買うつもりでいたのだが、手持ちでは足りないのである。しばらくお店で考えた結果が当初買おうとしていた「Ai Nikkor 35mm F2」と「Ai Nikkor 85mm F2」は諦め、「Ai Nikkor 35mm F2.8」と「Ai Nikkor 105mm F2.5」に、またカメラ店のお情けで値引きしてもらいなんとか予算内に収めることができた。そして晴れて憧れの"F一桁機"のオーナーとなったのである。

手に入れたF2フォトミックASはレンズも含め気に入り、写真を本格的に勉強するために大学に入った後も長くメインカメラの一台となった。もちろんそれまで機械式シャッターにより電池の心配をすることはなかったし(フォトミック用の電池は必要だが)、当時モノクロフィルムで撮ることがほとんどで、プリントも自分で行っていたため、マニュアル露出でも大きく外さない限り大きな問題になることは少なかった。何よりカメラを操り、写真を撮る楽しさをそれまで以上に知ることができ、ピントや露出を合わせてシャッターを切る一連の動作もより自然と身についたように思えている。さらにフラグシップらしく極めて精度の高いつくりなど、大いに写真を撮る気にさせてくれた。もっとも、今その当時のことを思いだすと、カメラ誌に書いてあったことを深く考えもせず勝手に解釈してしまい、当時最新のカメラではなく旧態然としたカメラを購入したこの天邪鬼な若輩者に呆れ返ることもあるが。

高校時代は、手に入れたF2フォトミックASをほぼ毎日学校に持っていき、教室や校舎の屋上などで友人や女の子たちをよく撮影させてもらった。現在手元にあるF2はそのときのものではないが(そのときのF2は新しいカメラを手に入れるために売ってしまったことを未だ後悔している)、時折空(から)シャッターを切る度に、戦前は旧制中学でもあった高校の古びた校舎の匂いや休み時間の喧騒、屋上から見たちっぽけな街の景色など、おぼろげながら思い出す。同時に月日の流れの速さを強く認識してしまうのである。
※2024年1月20日にアップした「ライツミノルタCL編」では、ニコンF2を手に入れたのは1979年と記していますが、今回改めて確認したところ1980年の間違いでした。お詫びいたします。

大浦タケシ|プロフィール
宮崎県都城市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、雑誌カメラマン、デザイン企画会社を経てフォトグラファーとして独立。以後、カメラ誌をはじめとする紙媒体やWeb媒体、商業印刷物、セミナーなど多方面で活動を行う。
公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。
一般社団法人日本自然科学写真協会(SSP)会員。
