一眼レフの凋落
1979年のキヤノンAF35M(オートボーイ)の登場以降、35mm判コンパクトカメラはフルオートの時代に突入した。自動露出、オートフォーカス、それに電動モーターによるフィルムの自動巻き上げと巻き戻しが加わり、ストロボの内蔵もあってユーザーはただシャッターボタンを押すだけという全自動カメラがさまざまなメーカーから登場し、カメラ市場を席巻したのだ。そしてそのあおりを食らったのが35mm判一眼レフであった。
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1981年をピークに、出荷台数がどんどん下がってきてしまった。レンズ交換ができるとはいえ、大きく重い高価な一眼レフよりもユーザーはボタンを押すだけできれいな写真を撮影できるコンパクトカメラを選んだのだ。この35mmコンパクトカメラの快進撃と、一眼レフの凋落の様子は、なんとなく後年のスマホとコンパクトデジタルカメラの関係を想起させるものがある。
それまで一眼レフ専業メーカーだったニコンも、この市場の状況を静観しているわけにはいかず、35mmコンパクトカメラの市場に参入することを決定し、1983年に発売した最初の機種がニコンL35AFだったのである。
一眼5社とコンパクトカメラ
当時の35mm判一眼レフの業界は、一眼5社と呼ばれるメーカーが市場を分け合うような形であった。5社とはニコン、キヤノン、ミノルタ、オリンパス、ペンタックス(旭光学)である。その中でキヤノン、ミノルタとオリンパスは35mm判レンズシャッターカメラを古くから手掛けており、製品にコンパクトカメラを持たないのはニコンとペンタックスのみだったのである。そしてその2社も一眼レフのみでは立ち行かないと判断したのか、この時期に相次いでフルオートの35mm判コンパクトカメラの市場に参入した。ペンタックスが1982年にオートロンで参入したので、結局のところニコンは最後発になってしまった。
参入障壁と差別化
ニコンはかつてニコレックス35でレンズシャッター一眼レフを手掛けたが、あまりうまくいかなかった。その時に比べ、今回は参入にさしたる困難はなかった。アクティブ方式のオートフォーカスはニコンにとって初めての技術だったが、すでにモジュールの形で容易に入手できるような状況であった。
参入にあたっての差別化要素として、ニコンは撮影レンズに力を入れた。当時のこの種のフルオートコンパクトカメラは、3群4枚のテッサータイプで焦点距離は38mm F2.8というのが定番だったが、ニコンは4群5枚のゾナータイプとし、焦点距離も35mmとワイド側にシフトした。このレンズはユーザーの評判もよかったが、後継機のニコンL35AF2になるとコストダウンのためか3群4枚のテッサータイプに変わってしまった。
なお、このレンズ名は「ニッコール」ではなく「ニコンレンズ」となっており、その後のニコンのコンパクトカメラも一部の例外を除きみな「ニコンレンズ」となっている。少し前のニコンEM用の交換レンズもそうだったが、どうもニコンは「ニッコール」の名称にかなりのこだわりがあるようだ。
ニックネーム
ニコンL35AFには「ピカイチ」というニックネームがついていた。当時のニコン社内でも上層部から反対があったように聞いているが、世間的にも「あのお高くとまっているニコンが」と一時話題になった。
実は当時のコンパクトカメラにニックネームをつけることが流行していた。発端はコニカC35EF(1974)を、ストロボが内蔵されたことを印象付けるために広告などで「ピッカリコニカ」と呼んだのが始まりであろう。その後キヤノンが前述のようにAF35Mを「オートボーイ」と称してからは他のメーカーもこぞって自社のコンパクトカメラにニックネームを付して発売するようになった。「ピカイチ」もそれにならった形で、その後に登場したニコンのコンパクトカメラにも「ピカイチ2」「ピカイチメイト」「ピカイチテレ」というように、しばらくの間は「ピカイチ」の名がつけられた。「ピカ」はストロボ内蔵を表すもので、他社にも例があるが、もともとの語源は花札の20点札を意味するものであった。松に鶴とか桜に幔幕など、最高得点の札である。この20点札が1枚あるのが「ピカイチ」で、転じて「一番優れている」という意味だそうだ。まあ、いずれにしてもあまり上品な言葉とは言えないかもしれない。
なお、このようにニックネームをつける習慣は海外市場にもあった。しかし海外で「ピカイチ」は通用しない。そこで輸出用のものは後継機のL35AF2から別のニックネームを付けた。北米向けのものは"One Touch"となっていて、これもその後機種のバリエーションに従って"Tele Touch"、"Fun Touch"などと変化している 。
ピカイチシリーズの発展
ニコンL35AFには、並行してニコンL35ADという兄弟機が販売されていた。これはL35AFにデート写し込み機構を組み込んだ裏蓋を装着したもので、国内市場ではむしろこのモデルがメインでデートなしのL35AFは主として輸出向けというような性格であった。
このフルオートコンパクトカメラの系列はその後も発展し、2焦点、ズーム付き、防水タイプなどバリエーションも広がっていった。AF化で一眼レフの市場が息を吹き返した後も、ニコンのカメラ事業のもう一つの柱として確立したのである。
その段階で1990年代の初めになると「ピカイチ」の呼称をやめている。時期的にニコンミニやニコン35Ti、28Tiなど個性的なレンズシャッターカメラが登場し、もはやニックネームで親しみやすさを演出する必要がなくなったと判断したのだろうか?面白いことに海外市場向けの"…Touch"というニックネームはそのまま続き、21世紀になってもクールピクスシリーズのデジタルカメラと並んで"One Touch Zoom"や"Lite Touch Zoom"の名前を持った銀塩コンパクトカメラが登場していたのだ。
豊田堅二|プロフィール
1947年東京生まれ。30年余(株)ニコンに勤務し一眼レフの設計や電子画像関連の業務に従事した。その後日本大学芸術学部写真学科の非常勤講師として2021年まで教壇に立つ。現在の役職は日本写真学会 フェロー・監事、日本オプトメカトロニクス協会 協力委員、日本カメラ博物館「日本の歴史的カメラ」審査員。著書は「とよけん先生のカメラメカニズム講座(日本カメラ社)」、「ニコンファミリーの従姉妹たち(朝日ソノラマ)」など多数。