
1.自動露出専用一眼レフ
1970年代の後半に、自動露出(AE)専用でマニュアル露出を省略した一眼レフが種々のメーカーから出された。きっかけは1976年発売のペンタックスMEである。電子制御フォーカルプレンシャッターによる絞り優先AEの他はストロボ用の1/100秒とバルブしか使えないというもので、それにより大幅なコストダウンと小型化を実現したカメラだった。当時のコンパクトカメラはAE専用が当たり前であったので、一眼レフでもあり得る話だったのだが、果たして一眼レフのユーザーがマニュアル露出が使えないカメラで満足できるかどうかという不安はあった。その答えをペンタックスMEが提供してくれた形になったのである。
その後他のメーカーもこれに追随して続々とAE専用一眼レフを開発した。キヤノンAV-1やオリンパスOM10、ミノルタX-7などである。そしてその流れに乗ってニコンから出されたAE専用一眼レフがニコンEMであった。
2.米国市場からの要求
ニコンEMはそもそも海外、特に米国市場からの要求で開発されたものだった。ニコンFMとFEで一眼レフのコンパクト化は果たしたものの、当時の一眼レフはTTL-AEの搭載やモータードライブへの対応などでだんだんと高価なものになってきていた。米国市場ではさらに一段と安価で使いやすい機種が要求されていたのである。
折から小型化に適したセイコーMFC-Eというユニットフォーカルプレンシャッターが登場したので、これを用いて米国からの要求にかなったAE専用一眼レフを新たに開発することにしたのだ。
3.小刻み巻き上げ
セイコーMFC-Eは、コパルスクエアと同様のスクエア型シャッターである。シャッター幕を構成する羽根の動き方が若干異なるが、駆動機構や制御機構はほぼ同一なので、チャージ完了後にチャージレバーを元の位置に戻す必要がある。従って小刻み巻き上げが苦手なことは、この「ニコンの系譜」のニコマートELWの項に述べた。ところが、ニコンEMではこの常識を破って小刻み巻き上げを可能にしたのである。

機構的な原理はニコマートELWのワインダーAW-1やニコンFE/FM用のモータードライブMD-11などと同じだ。フィルムの巻き上げ軸に連動してスライドするシャッターチャージ用のレバーをスプリングで元の位置に戻るよう引っ張っておき、巻き上げが終了したところで巻き上げ軸との連携を外す。こうすれば巻き上げ軸は一方向のみの回転で済むので、巻き上げレバーとの間に逆転止めのメカを入れておけば小刻み巻き上げが可能となる。

この逆転止めにも、実は凝ったことをしている。普通はラチェット機構といって三角形の歯を切ったラチェット車とこの歯に食い込む爪の組み合わせを用いるのだが、ニコンEMでは「サイレントクラッチ」という一種のカムとコロを組み合わせた機構を使っているのだ。そのため小刻み巻き上げの際によくあるチリチリ音がしない。
4.アクセサリーと交換レンズ
アクセサリーとして外付けのモータードライブMD-Eが用意された。1コマ撮り専用だったAW-1とは逆に、約2コマ/秒の連続撮影専用となっている。シャッターレリーズはボディ側のシャッターボタンを使用し、撮影が終了するとそれを検出して自動的に巻き上げる。小刻み巻き上げ可能になったため、モータードライブもMD-11などのような戻り機構を設ける必要がなく、一方向の回転で済むようになった。
また、専用のストロボ(スピードライト)としてSB-Eが発売された。まだTTL調光ではなく、外光式のオートストロボだが、新機軸としてカメラ側から設定絞りの情報をストロボに伝達するようになっている。外光式なので撮影レンズの開放F値の情報が必要になる。そのためAiレンズの開放F値を導入する可変抵抗がカメラボディに設けられた。
ニコンEMには当然Ai方式のニッコールレンズが使えるのだが、小型で安価なカメラボディにマッチするレンズとして新たに「シリーズE」というレンズ群が加わった 。プラスチックを多用した小型で安価なものだが、実はこのシリーズEレンズは別項で説明するAi-Sレンズの仕様を先取りしているものであった。

5.日本市場への投入
前述したように、ニコンEMは米国市場からの要求で開発され、1979年の3月に海外で発売された。だが、同時期にやはり海外でデビューしたライバル機がほどなく日本でも発売されたのに、このニコンEMだけはなかなか国内で発売されなかった。その背景には国内営業の反対があったのだ。ニコンは高級機のイメージで売って来たのに、このような小型で安価な機種をニコン銘で発売すると、そのブランドイメージが低下するというのだ。そこで対応策として国内での発売を1年遅らせ、フラッグシップ機のニコンF3と同時発売としたのだ。ニコンは安価な機種に軸足を移すわけではなく、ちゃんと高級機も出しますよとアピールするわけだ。そしてニコンEMの外観もできる範囲で高級なイメージを持たせるように変更した。革張りのシボを変え、ボタン類をブルーのプラスチック然としたものから金属メッキのものに変更したのだ。同時発売のシリーズEレンズも着脱時に握るローレットリングをニッコールレンズと同じシルバーのものに変更し、中でも50mm F1.8の標準レンズはニッコールAi-Sに「昇格」させて高級感を持たせることまでやったのだ。こうして1980年にやっと国内での発売が実現した。

6.アサヒカメラのいらだち
この1年の遅れについては、ちょっとしたエピソードがある。アサヒカメラ誌のテスト記事である「ニューフェース診断室」でこのカメラを採り上げようとしたのだが、なかなか国内で発売されない。とうとうしびれを切らして米国から逆輸入してテストしたのだ。1979年の10月号に掲載されたそのテスト記事は、「一体、国内で売るのか売らないのか。いまいちばん、カメラファンに気を持たせている"罪なヤツ"が、35ミリAE一眼レフのニコンEMである。」(朝日ソノラマ刊「カメラ診断室第5集」より引用)というぼやきから始まっている。
豊田堅二|プロフィール
1947年東京生まれ。30年余(株)ニコンに勤務し一眼レフの設計や電子画像関連の業務に従事した。その後日本大学芸術学部写真学科の非常勤講師として2021年まで教壇に立つ。現在の役職は日本写真学会 フェロー・監事、日本オプトメカトロニクス協会 協力委員、日本カメラ博物館「日本の歴史的カメラ」審査員。著書は「とよけん先生のカメラメカニズム講座(日本カメラ社)」、「ニコンファミリーの従姉妹たち(朝日ソノラマ)」など多数。
