映像表現と気分のあいだ

txt:佐々木淳 構成:編集部

はじめに

本連載では、筆者の進める研究テーマと絡める形で、

  • 表現の根幹にあること、すなわち「クリエイティブやストーリーテリングといったフワッとしたもの」を、どのような方法で類型化することができるか
  • 上記で類型化した表現のタイプは、どんな読後感を視聴者に誘発するのか。特定の表現の類型が特定の読後感を作る、という「法則」のようなものがあるのか
  • 上の「法則」がわかれば、読後感、すなわち「気分」は<作る>ことができるのか

こうしたことを中心に、その周辺トピックも掘りながら、毎回少しずつ書き進めていきたい。

編集内容を打合せした本年初頭、いま世界を覆っているこの巨大なコロナ禍はまだ始まっておらず、オリンピックイヤーの訪れという高揚感の中で、業務での撮影編集も活発に行われていた。かたや今、生活や世界は完全に変わり、巣篭もりの日常、そしてその先に「ニューノーマル」とも呼ばれる接触レスな新常態が姿を見せ始めている。誰しも予想していなかったこの状況に際して、当連載についても(テーマは変えずとも)その目的や語り方については大きく考え直してのスタートとなった。

withコロナという「新しいストーリー」が生活を覆う中で、生活の変容とともに、人々の気分も大きく変容している。つい先日までの生活スタイルが一気に遠のき、行動範囲が身近に限られ、家族との時間が増えたり、近所の散策が増えた方も多いのではないか。急速に意識が変化する中、今まで気にもしていなかった物事や思考が急に前面化してくることもあるだろう。人々の意識が、土台のところからジャキジャキと組み替えられている—そして「地」と「図」が入れ替わっている—最中なのかもしれない。

そんな中、冒頭の3つのトピックと関連づけて言うなら、日々の気分を捉え直し整理すること、世界と自分の関係値を今一度発見すること、その発見した関係値を新しく変形すること(どれもが、映像を含む表現全般に大きく影響を与えることだろう)、こうしたことに本連載が参考になれば幸いである。

「ぽさ」とはなにか

初回である本稿では、本連載の鍵となるワードから出発してみる。いきなりだが<ぽさ>とは何か?このことに、まず触れておこうと思う。

本居宣長はその国学の研究を通じて、言葉を「ただの詞(ことば)」と「あやの詞(ことば)」という2種に区分した。簡略すれば「ただの詞」とは文字通り、誰にでも伝わる一般的な(普通名詞のような)もの、一方「あやの詞」とは、人が私的に感じる「〜ぽさ」を孕む、形容的、感覚的なことば、である。

少し哲学を学んだ人なら「唯物論」と「観念論」の対比に近いと感じるかもしれない。唯物的なものが「ただの詞」、観念的なものが「あやの詞」、そう考えても概ね差し支えないだろう。

例えば机の上にティッシュの箱があるとして、その箱を見て「ああティッシュか…」と思うだけなら「ただの詞」だが、「小人になってあのティッシュの柔らかさに抱かれてみたい」「しょっちゅう泣いていた妹を思い出す」「よくよく見てみると挿絵の浮遊感がシュールで昔のSFを連想する」などの感覚や記憶が湧くなら、そこには「あやの詞」の要素が大いに入ってきている。

つまり、モノやサービスの情報などをやり取りするだけの会話なら、ほとんどが「ただの詞」で済んでしまう一方、比喩や気分など、主観的な「感じ」「印象」を存分に含んだやりとりには「あやの詞」がふんだんに使われる。前節に「今まで気にもしていなかった物事や思考が急に前面化してくる」と書いたが、前面化したのはこの主観的な「感じ」や「印象」で、それは「ティッシュ」と自分の間の、文字通り「あや」のことだ。この主観的な「感じ」や「印象」を現代風に言えば「ぽさ」ということになるだろう。もちろん「ぽさ」を感じる対象に制限はない。子供の姿や通勤電車の様子かもしれない。広く言えば会社や社会や世界であるかもしれない。

つまり、「ぽさ」とは上に述べてきた「あや」のことであり、対象の醸している(正確に言えば、醸しているように人が感じる)様相に起因している。

そもそも、映像クリエイティブのみならず創作全般において、この「ぽさ」の要素が不可欠であることは、皆さんも良くご存じのことだろう。ちなみに、その極めつけが俳句や連歌である。季語によって「読み手と共有可能なあや(感覚)」を土台に置き、そこから詠み手が更に独自の「あや」によって絶妙な着地を披露するという、「あやの技術プレイ」そのものだ。

「ぽさ」についてをだいたい掴んでいただいたところで、写真で分かりやすい例をいくつか挙げておく。

■「昭和っぽさ」
■「頑張ってる感」

皆さんは「昭和っぽいもの」と言われてどのようなものを連想するだろうか。デザイン、プロダクト、メイクの仕方、生活風景、多くの領域に「昭和っぽさ」はあり、実際に残存しているものも多い。連想がわきやすい「っぽさ」といえるだろう。

「頑張ってる感」については見ての通り、ギリギリで劣勢な状況でありながら、周囲に負けずサバイブしている感じ、という含意がある。モノやコトやヒトの様相、すなわち「ぽさ」のククリで目の前の世界を切り取り直すと、対象のカテゴリーはバラバラでもよいことがわかり、自由で愉快な気分になれるかもしれない。

ちなみに「頑張ってる感」でイメージ検索してもこのような写真はでてこない。このように、なぜコンピュータープログラムには「ぽさ」の検索ができないのか、についても、のちのちの回で触れることにしたい。

「ぽさ」とは、体験のこと

  • 表現の根幹にあること(クリエイティブやストーリーテリングといったフワッとしたもの)を、どのような方法で類型化することができるか?

冒頭の連載テーマを再掲するが、この「類型化」をするのに、述べてきた「ぽさ」が超重要になってくる。「ぽさ」は、フワッとしたものを類型化するためのキラーツールなのだ。私は広告の世界で長らくプロデューサーを務め、現在はこの「ぽさ」に代表される「コンテンツ体験」と「人々の読後感」の関係をテーマに研究開発を行っている。主にTVCMを対象とした解析を行いつつ、これまで述べてきた「ぽさ」を分類しその知見をデータベース化して、人工知能領域との橋渡しができないか(事業的にも)模索している。

というわけで解析について論文を書いたり、イノベーションやマーケティング関連の場で研究のお話をする機会がある。折に触れて話すのは、原理的に「大きい/小さい」「多い/少ない」という数値還元に依る現状のデジタルデータに、「〇〇っぽい」というニュアンスのデータを連結することの将来価値、ということである。このところ喧しい「ニューノーマル」にしても、その実体が「専ら数値的利便・効率性・安全性」ばっかりだったら生活が愉快なはずがない。「ムダのないクリエイティブ」なんて、ぜったい面白くないだろう。

私たちが慣れ親しんでいる広告—TVCMや、グラフィック広告、その他今の人々が知っている形態のもの全般—は、そのほぼすべてが、20世紀半ばに大々的に花開いたものだ。「接した人々の<気分を変容させる>ことで、消費を促す」、これが広告の至上ミッションだった。だから映像ストーリー・映像イメージにおける、<気分を変容させる>ための表現方法や技法はバクハツ的に発達してきた。これらの方法・技法こそがまさに「あや」や「ぽさ」に不可欠な部分である。だからこう言うことができる。特定の表現技法・方法が、見る人々に特定の意識体験(つまり「あや」「ぽさ」)を生じさせ、その結果、人々の読後感の中に欲望を駆動させてきた。

では代表的な「ぽさ」のタイプにはどういうものがあるのだろうか、ここが解明すべき大きな部分になってくるのだ。

先の太字部分について、明確にするとこうなる。

  1. どんなタイプの表現(物語や語りのタイプ、イメージ付与、その他の技法)をすると、
  2. 見る人がどんなタイプの気分(読後感)になるのか
  3. 表現と読後感のあいだ(1.と2.のあいだ)にどんなタイプの「意識体験」=「ぽさ」が生じたのか

ここでの「意識体験」について、今後はシンプルに「体験」と記すこととする。上に記した通り、「体験」とは「ぽさ」と同等のものと考えられるだろう。(あるいは映像クリエイティブの現場でよく使う「〇〇感」にも近い)。

すなわち「体験」とは、対象のモノやコト、コンテンツなどに関してわれわれが一次的に感じる「ぽさ」のことなのだ。

こうした「体験」を大まかにタイプ分けすることで、その結果生じる読後感(=気分)のタイプ分けも可能になる。他方で、その「体験」を誘発する成分(その「ぽさ」を成立させるための材料ともいえる)となっている、表現方法・技法のタイプ分けも可能になってくる。

つまり(手法・成分の組合せによる)Aという表現→A’という体験→A’’という読後感という関係性がなりたつのではないか、ということだ。この関係性モデルでは特に「体験」(=ぽさ)の項目が重要で、このことを強調したいがためにここまでクドクド「ぽさ」について述べてきた、というわけである。

今回はここまでにして、次回はこの「体験」のタイプ分けについて記していこうと思う。

「ぽさ」は、自分のメタファーに繋がる

春から続いた巣篭り生活、私は気晴らしに毎日2時間ほど散策をしており、その道中で「申し訳程度っぽい」ものを見つけては喜んでいた。「申し訳程度の」植え込みや公園遊具、警告表示や(ビル街に少しだけ見える)空。モノだったりコトだったり状況全体だったり、対象はバラバラだが、自分にとってこの「申し訳程度っぽさ」の発見と収集は、新しい生活の中で大切な所作となっていた。

自分は「〇〇っぽい」ものが気になる、私は「〇〇っぽい」ものが好みかもしれない、という部分が、人には必ずあるだろう。「〇〇っぽさ」をメタファーと言い換えれば、それは各人がどういうメタファーで世界を捉えているか、すなわち世界と自分との繋ぎ目・フィルターだったりする。

映像創作におけるクリエイティブの源泉も、おそらくこの「自分のメタファー」にあるはずだ。この先の時代、今までとは違う生き方が模索される中では、「自分のメタファー」はこれまで以上に、生き様や人生観にも関係してくるかもしれない。毎回の連載を通じ、このようなことも同時に考えていきたい。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/