映像表現と気分のあいだ

前回は、「メディア」をコンテンツと意味体験のあいだにあるものとして取り上げ、その歴史的変遷を中心に述べた。今回はその続きである。今のメディアの状況が過去とどう違ってきているのか、それが意味体験にどのように作用していくのか。そのことを考えるにあたって、まずはメディア論での有名なフレーズを紐解くことから始めていきたい。

「メディアはメッセージである」の含意

著名なメディア研究者といえばまずマーシャル・マクルーハンの名が挙げられる。皆さんも聞いたことがある名前だと思うが、彼こそが50年以上前に「メディア論」という研究領域を拓いた先達である。

世界を席巻した有名なマクルーハンの言葉に「メディアはメッセージである」というものがある。とても有名な反面、今一つ理解されていない言葉でもある。そもそもメディアがメッセージ、というのは文字通りとればかなり不可解なフレーズである。

たとえば前回述べたイタコや、新約聖書の例で考えてみる。イタコは伝達役としてのメディアであって、伝えるべきメッセ―ジは先祖神の意思のほうだ。新約聖書という「本」も伝達メディアであって、伝えるべきメッセ―ジはキリスト教の教えのほうである。

だからもちろん、神の意思やキリストの教えの方がメッセージのはずだ。なのにメディア、つまりイタコ自体、本自体のほうがメッセージとは一体なんのこっちゃ?メッセージは伝える内容=コンテンツの方じゃないの?となる。普通に理解しようとすればそうなる。しかし、マクルーハンの見立ては違っている。だからこそ「メディアはメッセージである」というフレーズは大きな反響を呼んだわけなのだ。

マクルーハンの出自は英文学研究であり、どちらかといえばコンテンツメインの研究者と思われる。ところが、そんな彼のメディア論では、コンテンツ自体のメッセージに目を奪われるな、大事なのはメディアによるメッセージの方なのだ、というふうになってしまう。なぜか。

彼は個々のコンテンツ体験よりも「新たなメディアの登場による社会的な感覚変化」のほうに注目したのだ。よりマクロな視点に立ち「どんな技術も、次第に、まったく新しい"人びとの意識"をつくり出していくのだ」とマクルーハンは言う。

マーシャル・マクルーハン
マーシャル・マクルーハン「人間拡張の原理」

「メディアはメッセージである」とは、端的にいえば「メディアが新たに出現するとき、人々の意識や思考・行動様式が無意識のうちに変わる」、さらには「そのことは渦中にある人々には全く気づかれないのだが、ソコこそ超重要」ということだ。メディアによる社会的な感覚変化が最大のインパクトであり、それこそが最大のメッセージである、ということだ。

このスタンスは以下のような一節にも見て取れる。

すべてのメディアはわれわれ人間の感覚の拡張であるが(中略)この感覚が個々人の認識と経験を形成している(人間拡張の原理)

前回、印刷術による「黙読」の発生について述べた。(文字メディアによる)「本」というデバイスメディアによる「黙読」の発生、もまた新しいメディアによって「形成された経験」のひとつといえる。

同様に「新聞」というものが社会に浸透することで「世の中には様々な有象無象があるなあ」といった、なんとなく社会を俯瞰するようなメンタリティも日常化していくだろう。そして次第に「自分はある一定サイズの社会に属する一員である」という、市民意識・国民意識のような感覚がいつのまにか定着していくのだ。

あるいは「さてさて今日はどんなニュースがあるかな?」という無意識の期待感なども、新聞によって日常化していくだろう。こうしたメンタルが総じて、昨日より新しいことが起こる今日、今日より進化する明日、といった時間感覚(人生観)が人びとの中に育まれていく。常に同じ場所で生活し、円環的な時間感覚に支配されていた中世とは全く異なった時間感覚、これが近代以降「無意識的な社会的主観」として新たに共有されていくことになる。

「より大きな・社会的な」意味体験

さらに写真や映画あるいはTVについて、マクルーハンは以下のようにさまざまに評している。

写真と、それが発展していったものである映画は、人間が経験を記録するテクノロジーに、しぐさを取り戻したものといえよう。事実、写真によって、人間の姿勢のスナップが撮られるようになってから、人々はかつてなかったほど、肉体的、精神的姿勢に注意を向けるようになってきたのである。

深い意味において、意識の流れは映画から生まれたのである。(中略)映画と意識の流れは、ともに、標準化と画一性が増大する「機械の世界」からの、それまで深く望まれていた解放の機会を与えてくれるもののように思われたのである。

テレビ映像のモザイク形態は、触覚と同じように、存在全体の深層における参加と関与を要請するものである。(中略)テレビの十年間を経験した若い人びとは、当然のことながら、深い関与に向かっての衝動をもっている。(中略)テレビのモザイク像を通して、若い人びとの中に起きているのは、全体包括的な現在性への全面的関与なのである。こうした態度の変化は、番組の内容とはどう考えてみても関係がない。

まとめれば、写真や映画は人間の自意識(身体的、精神的姿勢への注意)を促し、映画はさらに「意識の流れ」(への自覚・感知)を目覚めさせた。またテレビは全体包括的な現在性への参加、全面的関与を促したという。断片で単に視覚化された目標あるいは運命――これは書物や文字メディア(文字という、断片としての視覚メディア)のことだと思われる――を受容するのではなく、参加することを望むのがテレビ世代だという(現在からみるとやや違和感もあるが)。

このように、新しいメディアの登場によって、皆が知らず知らずのうちに以前とは別の主観・感覚に染まっていくこと(つまり生活意識を拡張していくこと)、これこそがマクルーハンが強調した「メディアはメッセージ」ということの意味だ。これがとても重要な視点であることだけは確かだろう。

今でいえば、インスタによって「写真や映像をアップしてインスタントに承認欲求を満たす」ことや、LINEやメッセンジャーによって常に「友人との距離感が卑近に感じられている」ことは暗黙的なフツーさである。こうしたことが生活意識を拡張していく。

一方で遺棄される意識もある。「タクシーつかまるかな?」という心配は特定のアプリによってもはや過去の感覚になりつつある。この十数年でスマホやアプリで「過去のものになった心配ごと」は相当な量になっているはずだ。同時に充電切れへの心配やメッセ誤送信のヤっちゃった感など、新たに発生した感覚もある。

日常環境も同様だ。電車で全員が下向いてスマホを見ていたり、カフェで横に座っていた人が独りでいきなり喋りだす(ハンズフリー会話)などという光景が「フツーのこと」となり、私たちの日常を拡張していく。このように、メディアはわたしたちの感覚を拡張し変化させる。その(無意識の)感覚の変化によって、個人個人の認識も変わっていく。

筆者は前回、メディアをその語源である霊媒(媒介者/媒介物)に遡りつつ、

「コンテンツーメディア(媒介者/媒介物)―意味体験」

という図式を見立てた。一方でマクルーハンはメディアの意味体験をコンテンツ内容より重視する。もっといえば、コンテンツ体験はメディアの体験に従属する、くらいの立場だ。内容(コンテンツ)は形式(メディア)によって決定される、と言われれば確かにそうかもしれない。以下にざっくりとではあるが、関係を図で整理してみた。

筆者の前回見立て(コンテンツーメディア/媒介者/媒介物―意味体験)
「メディアはメッセージ」による見立て(筆者による模式図)
コンテンツ以上にメディアが意味体験を左右する。メディア環境Aがメディア環境Bへ変化すれば、コンテンツが同じでも(厳密には同じであるはずはないのだが)意味体験は変わってくる

なるほど、メディアのもたらす意味体験は、TVCMなどの映像コンテンツ、モノコトヒト空間がもたらす個々の読後感よりはるかにマクロなものなのだ、と感じられる。

メディアとは本連載で繰り返してきた「コンテンツのもたらす意味体験」のさらに外側のレベル=土台にあって、意味体験を「図」とすれば「地」の部分に該当しうる、大きな時代意識の部分にあたる。よって、メディアの変容期ではなおさら大きな影響をもつ。あえていえば「時代的・社会的な意味体験」と言ってもいいレベルのものだろう。

テクノロジーはノスタルジーを作る

マクルーハンはもうひとつ重大な指摘をしている。やや平板に言えば「メディアが取り扱うコンテンツの形式が、(少なくともその浸透期においては)「必ずそれ以前のメディアのもの」である」ということだ。

文字や印刷物は"それ以前の"口承コンテンツを扱い、映画は"それ以前の"書物世界=文学を扱い、そしてTVの内容は"それ以前の"映画なのだと言っている(ここは現在の私たちからすればやや違和感があるが)。

もし、現在のスマホやデータによるスマートワールドにもし彼が生きていたら「スマホ/ネットのメディアは、コンテンツ形式としては"それ以前のメディアのものすべて"」であると言うだろうと思う。

確かに、YouTube番組や中継や放送(キャス)やVlog、Podcastなどは、TVやCMやラジオ、といった以前のコンテンツのあり方を踏襲している。スマホでニュースメディアを読むのも、紙の新聞を読むことのアナロジーである。

だから私たちは、デバイスがスマホになったりコンテンツがデータになったとしても「(視聴のメタファとして)TVを見たり広告を見たりラジオを聴いたりしているんだ」としか意識せず"それ以前のメディア時代の"感覚を暗黙裡に引きずってしまう。

このことについてマクルーハンは「私たちは、バックミラーを通して現在を見ている。私たちは、未来へ後ろ向きに進んでいる」と表現した。「新しいメディア環境」そのものがもつメッセージは、渦中にある私たちにはなかなか見えづらい。

バックミラーを通して現在を見ている。自分たちはメディア環境Bにいるのに、メディア環境Aでの体験をしていると思い込む(筆者による模式図)

だがもちろんのこと、スマホには検索やSNS、GPSとの連動やプッシュ配信、レコメンドなど以前の接触形式に留まらないコンテンツがあることは私たちにもわかっている。さらに前回指摘した通り、botなどプログラムが生成するコンテンツも多く混在し、さらにその分量はふえていくだろう。文字コンテンツのみならず、映像コンテンツの一部(自動的にダイジェスト編集された動画など)にも、すでにそれらしきものは多くある。こうしたことすべてが私たちの日常となっている。

すべての情報がデジタルに一元化し、手のひらサイズへ収納されつつ情報受発信が自由になっている現在、私たちはこの「新たなメディア」のメッセージを自身で看取できるだろうか。次回はこのことについて述べていく予定だ。

テクノロジーはノスタルジーを作る

「バックミラー」の議論にも関連するが、マクルーハンは興味深い指摘もしている。

18世紀後半、人々がワンダフルな湖沼の自然を愛でに行くものとして「観光」が始まったことについてである。この理由としてマクルーハンは、18世紀の産業革命を経て「新しい機械的環境」を迎えた際「はじめて人々は(古い環境としての)自然を審美的・精神的価値の源泉として見るようになった」と述べている。

これをやや乱暴に言えば「やっぱ自然って美しい」みたいな感じは産業革命以降のメンタルだということだ。知らず知らずのうちに、新しいメディア環境に囲まれていく中で、古い環境は「美しく価値のあるもの」として昇華・再発見され(あるいは消費用に「商品化」され)、新しい環境はむしろ不純で品位を欠いたもの、と認識されるのが常のようだ。

今に向き直ってこの法則を当てはめてみるとどうだろう。

スマホ&デジタル化が進んだ昨今、"せんべろとか商店街の温かみ""長屋での家族同然の近所づきあい""パンクやロックなどに宿っていた人間的な反抗精神"などなど、総じて昭和中後期の人間臭さ・エネルギー・猥雑さといったものが「懐かしく戻りたい、以前のあの環境」として眩し気にコンテンツ化されることが多々ある。

「あの頃は大らかでよかった」みたいなヤツ、これもおそらく似たような現象だろう。筆者的にはこのことを「テクノロジーはノスタルジーを作る」という言葉でまとめておきたい。そしてこのノスタルジーは、ほどなくコンテンツ化され、商品化されていく。産業革命の時代も今も変わらないということだ。

映像表現(特に映画やドラマ)においては、ミレニアム以降こうした流れが非常に目につくように思う。一方で海外では英国のTVシリーズ「black mirror」のように「未来をバックキャスト(先読み)する」ような予見的な作品もある。でも、どうしても制作・語り手の視野が邪魔くさいという感じも受けたりする。

ややこしいが、これが仕方ないのは、制作者や語り手があくまで「現在の私たち」だからだ。ゆえにバックミラーを見ながら未来を語ろうとしてしまう。こういう感じを確認するには、昔のSFを見たときのズレ感が手摺りになるだろう(当時の私たちや制作者のもっていたバックミラー感が、現在から見ればやっと体感できるということだ)。

ノスタルジーに戻らない映像表現とは何か。例えば、今の私たちが「バックミラーを見ている」態度そのものに狙いを定めて、クリティカルに浮き立たせるような表現などはアリかもしれない。

まずは一度、自分たちの無意識的な感覚の足場を突き崩してみることだ。それはTVやラジオやCMによって知らず知らずのうちに踏み固められ、がっちりとバックミラーの視界を構成・キープしている「与えられた意味体験」を、なんとか自分たちで明らかにしていくことにもつながっていく。

そういった系譜に、少しだけ関係していそうな表現をシェアすることで本稿を締めようと思う。少し前に結構有名になったものだが、筆者はこういう表現は「バックミラーの視界」から覚醒する上で重要で、その意味でリスペクトすべきと感じている。

岡崎体育「MUSIC VIDEO」

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/