映像表現と気分のあいだ

人々は何に「描望」してきたのか

前回に引き続き、今回も「描望」という意味体験タイプを追っていく。前回触れた通り、描望感とは「より自由で、より豊かで理想的な、今とは違う時間」を思い描くようなインサイトのタイプだ。そして、こうした気分を惹起するためのモノコトヒト空間(描望感の対象)が、世界にはふんだんに用意されてきた。描望感の代表的なタイプとして前回は「浄化、自由解放、憧憬、催想、妄想、爽活」あたりを例示し、その感じを確認してきた。

一応補足しておけば、帰属回帰というインサイトタイプであれ、リフレーム異化反転というインサイトタイプであれ、描望というインサイトタイプであれ、さらには描望感のなかでの浄化、自由解放、憧憬、催想、妄想、爽活というカテゴリであれ、すべて私たちに潜在している気分(すなわちインサイト)のタイプである。私たちはみな、これらを潜在的にもっていて、何か対象による契機で、そのどこかが(複数の場合も当然あるが)発火するようなイメージだ。

こうした発火=気分は「どこから」生まれてくるかといえば、本稿でも何度か触れてきた通り、私たちの置かれている環境に影響を受ける。参考までに吉岡洋先生の動画を上げておくこととする。気分の発露は脳で起きるのだろうが、それは腸内フローラなどの内臓内生物、身体とインタラクションする環境全体など「私ではないもの」に広く契機づけされていることが述べられている。つまり気分の発露は、私たちが何を食べどんな生活を送り、どんな環境で何をして生きているのか、にその多くを拠っているという(動画内31分過ぎ~)。

「〈わたし〉の外にある〈こころ〉について」(京都大学 人社未来形発信ユニット)

ここで先生は、例として脳とパソコンの違い(パソコンは自立処理的で周囲環境に左右されないが、脳は常に周囲環境とインタラクションしている)について触れており、非常にわかりやすい。気分の生まれる状況に関しては、「私」というものがそもそも虚構的な観念で、身体や脳という情報インターフェースによっての「気分の発露」という機能が本質にあり、その伝達・表現メディアとして言語や身体表現(さらには映像表現をはじめとしたさまざまな表現)がある、そのように大きく捉えるとわかりやすそうだ。

「気分の発露」の際、身体や脳というインターフェースにおいて作動する情報処理能力――私たちがみんなもっているものだ――は、社会的主観や記憶想起、関係性や連想性にも通暁したすごく複雑(優秀?)なもので、それが俗に「個性」などと呼ばれるものの内実ではないかと思われる。

話を戻そう。描望とは先述の通り「(イマココより)より自由で、より豊かで理想的な、イマココとは違う時間・場所」であり、つまり未来や過去、アソコやドコカ、である。こうした描望感は、古代・中世・近代・現代と、人々の生活を取り巻くテクノロジーや情報環境が変化しても、いつだって変わらず存在してきたはずだ。

一方で、その気分を発露させるもの=描望感の対象となるモノコトヒト空間――それらを見たり想像したりすることで、「ああいいなあ、あれがほしい(したい、ああなりたいetc)」と感じる対象、つまり求められるもの、欲しがられるモノ・コト・ヒト・トキ――は、時代とともに入れ代わり立ち代わり変化してきただろう。

言い換えれば、時代時代において、私たちが何を食べどんな生活を送り、どんな環境で何をして生きてきたのか、によってその対象は変わってきたはずだ。醒めた言い方をすれば、対象は時代時代で変われど、対象によって発露する気分=描望感は本質的にはあまり変わらないのではないだろうか。

例えば西洋古代であれば、アテネやローマの大都市があり、現代とはテクノロジー面で大きな差はあれど、商業農業とも盛んで大都市もすでにあった。金森誠也氏による「一日古代ローマ人」を読むと、特に都市化の進んだ環境に住む人間の気分=描望感、あるいは欲望は、現在のそれとさして変わらない、と思わずにいられない。

富裕層は驕奢な時間を送り、一般市民もそれなりに豊かで、なんと午後は働かずに遊んでいるし、さまざまなショップに加えて6~7階建ての集合住宅(今ならタワマン?)が数万棟もあるし、政府は政府で少子化への対策に苦心していたりする。都市空間には見世物その他コンテンツによる発散=浄化、贅沢やステータスへの憧憬、演劇などを通しての妄想など、現在と同様の「イマココ」からの心理的解放=気晴らしの気分が立ち込めている。

面白いのは、多くの古代ローマ人たちが、ゴミゴミした都会(イマココ)ではなく、郊外に対して「自由解放」感を感じていたらしいことだ(気分としては至極当然なことだろう)。もちろん都市部以外の古代の人々の描望感については、若干話は違ってくるのかもしれないが、人の感じる気分のタイプは本質的にはあまり変わらない、ということが納得できるのも確かだ。

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金森誠也 監修「一日古代ローマ人」

旅、そして彼岸

さて、描望感は遥か昔も大して変わらない、と思えたところで少し気になるのが、一般庶民による「旅」の文脈だ。現在でいえば、旅は「自由解放」感のための重要モチーフであり、少なくともコロナ禍まで人々はみな、世界中を旅して羽を伸ばしたりして「イマココ」からしばし逃れて楽しんでいたのだが、そもそもはどうだったのか。

一般民衆の文脈で「旅」がクローズアップされるのは中世になってからのようだ。西欧では時代が下った10世紀以降、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼」というものがある。これは現在なお続く、キリスト教の聖地巡礼コースであり、欧州(主にフランス方面)から多くの人々がスペイン西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指し、巡礼の旅をしたというものだ。とはいえ、パリからピレネー山脈を越え、なんと往復3~4ヶ月かかる。人生の中でそういう時間を工面し、さらに身体的に過酷な信仰の旅に出る、というのだから相当な覚悟が必要だったであろう。この他にも、エルサレムやローマへの巡礼も行われていたようだ。

不思議なのが、実はほぼ同じ時期に、日本でも「熊野参詣」が活気を帯びているということだ。宇多法皇による熊野御幸(10世紀初頭)に始まり、平安後期~鎌倉前期には庶民もこぞって熊野三山の三大社を目指すようになる。参詣の旅路は「蟻の熊野詣」といわれるほど賑わっていたらしい。とはいえ京都から熊野まで300キロ程度、往復で1ヶ月コース、当然ながら身体疲労も大変なものだったようだ。現代では仕事をリタイアでもしない限り不可能そうな、かなりの時間投資だ。

こうしてみると、サンチャゴも熊野も旅とはいえ、そのプロセスは辛苦を伴う「耐え忍ぶ」性格のものだったと思われる。どちらも日常を離れ、非日常のまとまった時間を投じるが、あくまでもその目的は「巡礼」だ。つまり聖地へ辿り着くことによって自らの信仰上の義務を果たしつつ、同時にあの世での救済(熊野であれば浄土)を願うことである。そう考えると、単に非日常の時間を消費する、あるいはのんびりと充電するような現代の「旅行」とはまったく違うことがわかる。

巡礼には、イマココではない「死後=アチラ」での安寧という、本質的な自由解放感が目的設定されている。つまり、最終的な描望対象は、実はこの世ですらなく彼岸(救済や浄土)にあるということだ。その前段階として、巡礼が最初の描望対象になる。巡礼することで初めて浄土という描望対象がその姿を現す。ここで旅とはあくまで、彼岸=カナタへの描望ができる人間になるために、ハードルをクリアすることに他ならない。

  1. イマココから遠出し、長くストレスフルな行程を経てゴールをめざす段階
  2. ゴール達成感による浄化的満足・その後祈りを捧げ、加護やエンパワーメントによるなんらかの安寧感を得る段階(ストレス行程→達成感による浄化=卑近なところでは受験→合格の気分の流れに近いか)
  3. その後日常生活(イマココ)に戻り、ちらちらと死後の明るい自分をイメージする段階(救済や浄土をイメージして心的な「自由・解放感」を得る)

という3段階がありそうだ。

何か非常に考えさせられる。まず、痛烈な自由・解放感を得るために、イマココ以上に辛い難題・試練・苦難の時が敢えて設けられているところだ。そもそも移動のテクノロジー化が実現する以前の時代では、旅はおのずから試練・苦難を伴ったという面もあるのは否めないが。

そしてもうひとつ、聖地到達による浄化感とは異なり、その後の自由解放感は「彼岸」に設定されている以上、そこに行ったら「イマココ」にはもう戻ってこれない、というところだ。究極の遠出、である。

これらは、今後の自由解放感を改めて考える上でも極めて示唆的だろう。本稿最後には、どうしてもこの部分にもう一度触れざるを得ないように思う。

(ちなみに多くの場合、自由解放感は広々感、遥々感、時に別世界感を伴う点で、浄化感とは異なる。場合によっては、リフレーム・異化へ近接する気分にもなり得る)

描望を先行創造する産業界

中世を経て近代を見てみれば、西欧では大航海時代を経て「海の向こう」が未知のフロンティアとして開拓対象になる。しかし、それがいわゆる観光や「リゾート」の原型として一般の消費対象になるのはかなり後、せいぜい19世紀以降になってかららしい。

ちなみに、リゾートという言葉をWikipediaで確認すると、再びを意味する「re」と、出かけるという意味のフランス語「sort」からできており、つまり「何度も訪れたくなる場所」というのがリゾートの語源らしい。このあたりから、巡礼よりライトな現在的な意味での「しばらく遠出して、またイマココに戻る旅」というものが認識され、商品化されてくることになる。

ちなみに、前回触れた通り「描望」の基本的な含意は心理的に(日常=イマココから)ちょっと/しばらく遠出する、というものだ。時間的長さとして「ちょっと」だと浄化(コンサートやカラオケに行く、スポーツに熱中する)に寄り、「しばらく」だと旅などになる。これには距離感の遠さも関係する。

さて一方で、近代の都市空間のほうはどうだろうか。18~19世紀の産業革命を経て工業社会が訪れ、さまざまな商品供給が盛んとなり、それを支える資本主義が発達して成功者としての資本家を多数輩出する、そんな状況が訪れる。「恋愛と贅沢と資本主義」を著した経済学者ゾンバルトが、資本主義を駆動するメンタルな下部構造として「贅沢への欲望」を挙げているように、この時期から今日に続くいわゆる「消費社会」が本格的に勃興する。

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ヴェルナー・ゾンバルド「恋愛と贅沢と資本主義」

「あの人がアレを持ってるから私も欲しい」といったメンタルの全面化である(こうしたメンタル作動の前提文脈にゾンバルドは「恋愛」を挙げている)。言い換えれば「イマココ」は常に不十分で満ち足りず、いつだって欲しい「アレ」や「アソコ」「あの高み」がある、そんなサイクルが永遠に続くようなメンタル、それが日常化したということだ。

おそらくこれは、前述した古代ローマにも、そしてあまねくどんな時代にもあったメンタルに違いない。けれど、近代がそれ以前と異なるのはテクノロジーの後押しだ。つまり高度な産業と生産技術、さらには宣伝技術が絡むことで<欲望となる対象を常に高速に生産できる体制>になったことである。

本稿で見てきたように、20世紀になると、そこに映像表現でのイメージ供給が始まり、そのメディア(デバイス)も映画館のスクリーンからTV、そしてスマホへと私的かつ身近に=接触的になっていく。こうした中で、産業側であらかじめ作られ用意された「描望」対象=モノ・コト・サービスが、イメージ・ストーリーを契機に私たちの描望感を引火する、という方法が確立していく。

これは「描望」対象が自生的に浮かぶ(あれしたいな、アレがほしいな)以前に、その対象イメージが次々と街やメディアによって、おびただしいストックとしてあらかじめ刷り込まれているような状態でもある。近代から始まった大衆消費社会では、消費者の欲望(≒「描望」対象)は生産者に依存するようになったわけだ。特に20世紀には映像や音声、グラフィックや看板と結託したマス広告(TV・ラジオ・新聞・雑誌)やマスコンテンツ(TV・ラジオ番組、雑誌特集、映画や音楽)が人々の「描望」対象を先取りしてきた。

こうした流れの中で(前回映像例に併せて記述した部分と被るが)描望感の各カテゴリタイプに対応するように、さまざまなアクティビティが想定され、それに見合う商業施設や商品・サービスが次々と提供されてきた。一部だが、例えばこんな感じになる。

  • 浄化の気分を得られる(スッキリ・気晴らし)
    自分で行うスポーツ(ジョギングその他・ジム・オンラインやTV連動のスポーツ、エアロバイクなど)・他者と遊べるスポーツ・カラオケ・飲んで騒ぐ
    =イマココで沈殿したマインドを発散・浄化するアクティビティが代表的。比較的イマココと近接した距離感でもOK
  • 自由解放の気分を得られる(軽く遠出してリフレッシュ)
    ピクニックや登山・ドライブ・日帰り温泉
    =イマココからの(ある程度離れた)距離感が前提となり、多くの場合そこには心身共にリラックス・リフレッシュできる(自然的な)環境イメージが紐づく
  • 催想の気分を得られる
    カメラ・ビデオカメラ・レトロ商品など
    =イマココからの時間的な距離をもつ(あーこんなことあったなあ的な)「コトの想起」が代表的。アクティビティは個人の内面的なものなので「記録/想起を補佐するモノ」が代表的

一部の例示に留めるが、このように「機能やジャンルではなく、気分で」サービスや商品=モノコトヒト空間を分類すれば、私たちの描望感の多くに「既存世界のモノコトヒト空間がすでに対応している」ことがわかってくる。(当然だが、映画や小説などのコンテンツも、受け手の気分に対応する、というミッションが色濃い)

描望タイプと時間軸

大衆消費社会になり大量生産が可能になることで、商品やサービスが人々の「描望」対象として用意されていく、そのスピードは格段に上がった。ここで見ておきたいのが「描望」対象に私たちが感じる、その対象を手にする(実現する)までの時間軸だ(1~4)。近さ/遠さと言ってもよい。1~4のどれもが、時代時代において、その内容(描望される対象)を変えてきていると思われる。

「ひと世代前だったら?」とか「これからは何が来るんだろう?」などと考えながら1~4を見ていただくのも一興かと思う。

1.一生に一度は行ってみたい、やってみたい、というモノコト

上述したサンティアゴ・デ・コンポステーラや熊野(京都熊野のフル往復など)の巡礼などは、時間もコストも覚悟も必要なものだ。現代においては、よりベタなところでは世界一周旅行や、ライトな所では最近よくある「絶景」観光の類いもある。旅の文脈を離れた、より卑近なことであれば、代表的なものはライフイベント(結婚・家を持つなど)もここに入れられるかもしれない。もう少し抽象的な対象としては、充実したシニアライフとか、豪遊とか、幸せな結婚生活とか、そういう種類のものもあるだろう。TVに出たい、本を出版したい、という自己実現系もここだろう。まとめれば、一生という時間軸での「やりたい夢、こうありたい夢」である。

2.それより短い、数年~十数年単位でのモノコト

考えてみると1とあまり変わらないかもしれない。ただ、ここでは「イマココ」での不足を中長期で克服していく、というような「目標」的なニュアンスがたされるだろう。そうすると昇進(や転身・独立)とか、住み替えとか、高級車を持つとか、結婚相手を見つけるとか、より現実的・現世的なものが含まれてくる。自由解放というよりは(豊かさや幸せ、ステータスへの)憧憬感にも近い。「いつかはクラウン」という車のCMがあったが、そうした感覚に近いのもここだろう。時間的に少し遠いだけに、色々な希望的イメージが付随する。酒を飲みながらぼんやり考える自分の未来、なんていうのが大体ここにくる。中長期目標、といったところだろうか。

3.数ヶ月~1年のような単位でのモノコト

対象はグっと具体的になるだろう。プロジェクトを仕上げて旅行に行きたい、とか合格して仲間と遊びたい、金をためてクルマやマンションを買いたい、など「イマココ」を頑張って耐える代わりに達成するぞ、という「ノルマ達成のご褒美」感も全面化してくる。つまり「イマココ」側での努力が意識されている分、その報酬としての「描望」対象もかなり具体的になっていく。まさに目先の、短期目標・短期プランである。「金で買える非日常」が最も売りやすい時間軸といえるかもしれない。

4.イマ~ひと月先程度のモノコト

そして最も時間軸の短いゾーン。今・あとで、を皮切りに明日、来週来月あたりをゾーンとしている描望対象だ。「ずっと詰めて仕事してるから明日あたりカラオケ行かない?」とか「来週みんなでワイガヤ飲みに行かない?」とかそういうヤツだ。もっと微細になれば「頭が疲れたから夕方走りにいくか」「打合せ終わったらアイス買いに行こう」という程度の、ほとんどイマイマの時間軸にもなってくる。

ちなみに、時間軸がイマイマであっても、あくまで「イマココ」からの気分転換、一時逃避が描望感の前提にあるので、単純に「腹が減ったので飯を食う」のような事象は除いておきたい。

こうして見ると、この数十年でも特に4のような「ちょっとした描望」対象として利用されるモノ・コト・サービスは相当拡大してきている。手軽な身体的浄化(ジムやフィットネス、カラオケ他)もそうだが、特にネットやスマホの普及で、コンテンツ消費での心的浄化がオンラインへと劇的に移行した。街の映画館やゲームセンターへ行かずとも、身体的には「イマココ」に居ながらゲームや映画鑑賞ができ、アソコやドコカへ瞬時に一時逃避ができたりする(YouTubeでもソコソコ旅した気分になれたりする)。インスタやカメラロールを繰ることで、以前を想ったりもできる。

3や4でも、リアル空間での描望対象としてのサービス(居酒屋・カラオケ・海外旅行など)はコロナ禍で大きく影響を受けた。もちろんスマホは手元にあれど、リアル空間での描望感の対象を失うことで、私たちは日常のなかに「時間の区切り」を作りにくくなった、と相対的には言えよう。リアル空間という「外部」で保っていた短中期の時間のリズムを、自らで組み上げようと、多かれ少なかれみな試行錯誤していたように思う。

この先の描望タイプ

欲望の本質を「模倣」であると看破したのは、フランスの社会学者ガブリエル・タルドである。「あの人がアレを持ってるから私も欲しい」である。のちに批評家ルネ・ジラールは、「欲望の三角形」という図式を用いて「私たちが欲しがるのは、他の誰かが欲しているものだ」とも言った。描望感の中でも特に憧憬タイプについては、この定式は示唆的だ。それがモノであれ容姿であれ、才能であれステータスであれ、もっと根本的にいえば「気分」であれ、おそらくこうした原理は古代から変わらないものとされている。

実業家・投資家のピーター・ティールは哲学専攻の学生時以来、ジラールに傾倒しており「他の人がしていることに羨望させるための、まさに模倣の回路を創造する仕組み」だと看破して、初期のFacebookに投資したという。身体的な浄化は別として、描望感の多くはこうした外部情報に依存的である。

しかしながら、情報のインターフェースがスマホへ移行したことの意味は大きかっただろう。例えば広告などで憧憬感としてのイメージで語られていた「モノ・コト・ヒト」はもはや心理的に遠いもの(=憧憬の対象)ではなくなり、すべてが数タップで消費、ないし疑似可能になった。ではFacebookやインスタは憧憬対象をたくさん補充してくれたのだろうか。確かにそれはあったかもしれないが、その後徐々にSNS疲れも加速した。羨望を惹起させるような投稿に対しても、覚醒して距離をとるようなスタンスが少なくない。そんな昨今の状況は、どうしてもタルドやジラールの議論だけでは足りないような気もするのだ。

モノ消費→コト消費の次は何か、という議論も盛んだ。トキ消費、イミ消費、エモ消費というワードも出てきている。Z世代に顕著といわれる、公正性や社会貢献性を特長とするイミ消費は別として、トキ消費(モノの唯一性や、コトの非再現性、格別性で豊かさを得る)やエモ消費(モノやコトへのこだわりを研ぎ澄ます精神的満足)は描望感とも重複しており、こうした消費性向をいかにビジネスに結び付けるか、ということも頻繁に取りざたされている。

昨今では、休日の遊びをまとめた情報サイトも充実している。こうした情報に対して、トキやエモによる気分の種別までを検出して、レコメンドまでできれば画期的かもしれない。そして束の間「イマココ」から離れるための予定が組まれる――そこでは「どこで何をした」という羨望惹起的な面よりも「どんな気分になれたか」という共感醸成的な面が、より価値をもっていきそうだ。

タルドのいう模倣は「生起する気分の模倣」という、より本質的な局面へ向かうのではないかと筆者は考える。同時に、そうしたものの多くが、時間軸でいえば4の領域での描望感を、より満足していくのだろうと思う。「イマココ」からのちょっとした息抜きはますますバリエーション豊かに、世の中に準備されていく。これはこれで一つの進化なのだろう。

筆者が描望感で気になるのは1や2の領域だ。中でも先に触れた「巡礼」というものは、長い行程を歩くことによる深度のある身体的浄化であり、「イマココ」から遠く離れる自由解放であり、その行為をおいそれとはできない条件ハードルが憧憬を募らせもするだろう。おそらく重要な因子は「遠さ」ではないかと思う。

「イマ」から実行されるまでの時間的「遠さ」と、「ココ」からの距離的な「遠さ」。それはもはや、日常からの解放というより、人生からの解放、というスケールに近いだろう。描望感とは「より自由で、より豊かで理想的な、今とは違う時間」を思い描くようなインサイトのタイプだと述べたが、その中でも「スケールの大小」があるのだと改めて思いいたる。

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サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(Wikipediaより)

これは映像表現も同様だ。そこにいたる時間的な「遠さ」と、距離的な「遠さ」。そこへのアプローチとして巡礼路にも似た何らかの辛苦を敢えて置いて、しかも全体としては巡礼とも違う、スケールの大きい新たな描望対象を描くことができるか。もしそんなものが描ければ、その境地・視点からは逆に4や3の描望対象(モノ・コト・トキ・エモ)を一斉に描きなおすこともできるのではないか、と思う。

このように、これからの描望感というものを抽出して考えるとき、近い描望対象(=4や3)が産業によって拡充されればされるほど、「遠い」描望対象、特に1の領域(人生に一度しかない格別さ?)の対象を仮説・創造することこそ本質ではないか、と思えてくる。

その「遠い」描望対象は、「イマココ」に戻っても、巡礼における浄土のように、再び次の「描望感」を自生的に育んでしまうだろう。もっといえば「イマココ」に戻ったとき、そこはもはやそれまでのイマココ(=帰属回帰元)ではなくなっているかもしれない。そもそも「イマココ」(帰属回帰の文脈)に戻る前提なのが描望感の所以だったはずなのに、回帰先が食い破られる。遠出をしていたら自分も世界が変わってしまった、これが実は描望感のさらに深奥に潜む、根源的な欲望(もはやリフレーム・異化に近い)なのではないだろうか。

WRITER PROFILE

佐々木淳

佐々木淳

Scientist / Executive Producer 旋律デザイン研究所 代表 広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。各種広告賞受賞。その後事業開発などイノベーション文脈へ転身、新たなパラダイムへ向けた研究開発の必要性を痛感。クリエイティブの暗黙知をAI化するcreative genome projectの研究を経て「コンテンツの意味体験をデータ化、意味体験の旋律を仮説する」ことをミッションに旋律デザイン研究所設立。人工知能学会正会員。 http://senritsu-design.com/