別次元の魅力を持った「PENTAX ME Super」登場
私にとって"アサヒペンタックス"というブランドネームは、1970年台半ばから後半にかけて "準備室"という言葉とともにあった。中学時代は学校の理科準備室に、高校に入ると同じく生物準備室や化学準備室の教師の机の上や実験器具などの収まる戸棚の中に、ペンタ部にASAHI PENTAXと記された(刻印された)カメラが鎮座していたからだ。
大抵は「ASAHI PENTAX SP」や「ASAHI PENTAX SV」などで、F1.8クラスの標準レンズが付いていることが多く、外観はどちらかと言えば草臥れた感じのものが多かった。そしてファインダーを覗くと、使い慣れた自分のカメラ(当時はキヤノンFTb)に比べアルミ蒸着のペンタプリズムのためちょっとスクリーンが薄暗く、ピントが合わせづらかったことを強く記憶している。
しかもマウントがスクリュー式だったり、絞り込み測光だったりで、子ども心ながら"アサヒペンタックス"にちょっとした苦手意識と、学校のカメラというイメージを持ち合わせてしまったのである。
それが大きく覆ったのが、1978年、高校2年の友人の家でのこと。友人の兄の本棚にあった1975年に出版された蒸気機関車のムック本を見てからである。表2(表紙の裏のページ)に、「ニューペンタックスです。」とキャッチコピーの入った旭光学工業の広告が掲載されており、「ASAHI PENTAX K2」を先頭に「ASAHI PENTAX KX」、「ASAHI PENTAX KM」の3台が並ぶ写真で展開されていたのである。
当時の自分にはいずれのカメラもスマートでカッコよく見え、すでに3モデルとも発売されてしばらく経っていたにも関わらず、当時の私は生意気にもアサヒペンタックスも進化したなぁと思ったものである。
そしてさらに追い討ちをかけたのが、同級生が買ったばかりの「PENTAX ME Super」を見せてくれたときのこと。そのコンパクトで軽量なボディは、自分がこれまで使ってきたカメラとは別次元の魅力を感じるとともに、クリアブライトマットスクリーンのそれまで経験したことのない明るさと、ピントの山の掴みやすさに恐れ入ってしまう。当時は、コンパクトな一眼レフカメラというと「オリンパスOM-1」などもあったが、個人的にはそのような理由で旭光学工業の一眼レフに一目置くようになったのである。
ただし、"アサヒペンタックス"のカメラを手に入れるにはもう少し時間を必要としていた。高校生時代はともかくとして、大学時代も貧乏な写真学生であったため、卒業後社会人になってしばらくしてからである。当時の自分には絞り優先AE専用に多少の不満は持ち合わせていたものの、作りのよさやコンパクトで軽量な「ASAHI PENTAX ME」を中古で、しかも格安で手に入れたのである(残念ながらクリアブライトマットスクリーンも採用されていなかったが)。
前置きがすごく長くなってしまったが、それが"アサヒペンタックス"との出会いであり、MEに辿り着くまでの経緯である。
絞り優先AE専用機という思いっきりのよい仕様
MEは、前述のとおり絞り優先AE専用と割り切った作りのカメラである。発売は1976年。当時の状況は不明だが、それまであまり例のなかった絞り優先AE専用の一眼レフカメラとしたことに、開発の現場で賛否があったのではないかと想像している。露出を完全にカメラ任せにしてよいものなのか、マニュアル露出のできないカメラに写真愛好家が果たして振り向いてくれるものなのか、と。
それでも絞り優先AE専用機を出した旭光学工業は、後年、1979年から1980年にかけてカメラメーカー各社から同じコンセプトのモデルが矢継ぎ早に登場したことを鑑みると先見の明があったと言える。ちなみにその両年に登場した廉価な絞り優先AE専用機とは、「オリンパスOM10」「キヤノンAV-1」「ニコンEM」「ミノルタX-7」で、旭光学工業からもMEの廉価版として「PENTAX MV1」が登場している。
今となっては絞り優先AEだけでも無問題
MEを改めて使ってみると、不足を感じることのないある意味、完成度の高いカメラに思える。自分が歳をとってしまったこともあるが、カメラはシンプルなほうが好ましく思うようになったことと、露出モードの選択に以前ほどのこだわりがなく、絞り優先AE専用機であっても一向に構わなくなったことが大きい。被写体や撮影シーンによって撮影モードを切り替えなければならぬ、といった余計な雑音に惑わされるようなこともなくなり、また撮影モードを細かく切り替えるようなこともある意味面倒に思えてしまうので、絞り優先AEひとつで全く無問題である。
さらに、小型軽量であることも、少しでも荷を軽くしたい今の自分にとっては好都合。パンケーキタイプの「smc PENTAX-M 40mm F2.8」など装着すれば、ウェアラブルなフィルム一眼レフとしてどこへでも携えて行けるように思えてならない。
光輝いていた"あの頃"を感じられるモデルのひとつ
あの"準備室"で見たカメラと同じ"アサヒペンタックス"のブランドネームを持つモデルは、このMEが最後となる。そう思うとAOCOマークとともにペンタ部の刻印がより一層誇らしげに、そして愛おしく見えてしまう。最近のペンタックスは、ミラーレスはつくらないと宣言したり、フィルムカメラの製造を仄めかしたりと、ちょっと迷走気味に思えて残念でならないが、MEはそんな同ブランドが光輝いていた時代を思い起こさせるモデルのひとつである。
大浦タケシ|プロフィール
宮崎県都城市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、雑誌カメラマン、デザイン企画会社を経てフォトグラファーとして独立。以後、カメラ誌をはじめとする紙媒体やWeb媒体、商業印刷物、セミナーなど多方面で活動を行う。
公益社団法人日本写真家協会(JPS)会員。
一般社団法人日本自然科学写真協会(SSP)会員。