冷遇されたニコレックスF
ニコンの歴代のカメラの中で、ニコレックスFほど冷遇されたモデルはないだろう。一時期はニコンから出される歴代機種の一覧というような資料に掲載されなかったこともあった。なぜかニコンとしては触れられたくない「黒歴史」のような存在だったのである。
なぜそこまで冷遇されているのか?その理由の1つは、このカメラの「出生の秘密」にあるかもしれない。ニコレックスFは開発も設計もニコン本体ではなかったのだ。今でいうOEMである。そして、このカメラ誕生の裏には、革命的なユニットシャッター「コパルスクエア」の開発がかかわっている。
コパルスクエア
現在のミラーレスカメラや一眼レフなどレンズ交換カメラのフォーカルプレンシャッターには、スクエア型と呼ばれるシャッターが用いられている。しかし1960年にスクエア型シャッター第1号の「コパルスクエア」が登場するまでは、フォーカルプレンシャッターといえばライカのそれをお手本にしたドラム型のシャッターであった。つまり画面枠両サイドに設けたドラムに巻き付けた布や極薄の金属箔でできた先幕と後幕を、撮像面直前を順に走行させることによって露出を行うものだ。これに対してコパルスクエアは先幕と後幕はそれぞれ複数枚の薄い金属板で構成されており、それを金属製のアームで駆動して折りたたむようにして重ねたり、逆に画面枠に展開して覆うような形で露出を行うようにしたのだ。
このコパルスクエアの開発にはシャッターメーカーであるコパルの他に小西六(コニカ)とマミヤ光機が関わっていた。そして完成したコパルスクエアを小西六は自社の35mm判一眼レフコニカFS(1960年)に組み込んだのだが、なぜかマミヤ光機は自社の一眼レフには採用せず、他社ブランドで世に出す道を選んだ。そしてニコンF用の交換レンズを使う安価な一眼レフカメラの必要性を感じていたニコンとの間で話がまとまり、ニコンFマウントのカメラとして供給することになったのが、このニコレックスFということだ。これについては、ニコンの米国での販売を一手に引き受けていたジョセフ・エーレンライヒ氏が仲介したという話もある。
売れなかったニコレックスF
こうして1962年に世に出たニコレックスFだが、期待に反して売れ行きは芳しくなかった。コパルスクエアという最新のシャッターを備え、ストロボが1/125秒まで使えるというこれまでにないスペックを実現できた。また、ニッコールレンズの「カニ爪」を利用して絞りにも連動する外付けの連動露出計も使えるということで、当時の一眼レフとしては申し分のない性能を備えていたのに、である。
一つの理由としては背の高さがあるだろう。コパルスクエアは縦走りでしかもニコレックスFに使われていたI型は先幕2枚、後幕2枚と分割数が少なかったため、どうしてもそれを収めたカメラの背が高くなってしまう。ニコレックスFでも上カバーを深くして革張り部分の幅を狭くするデザインを採用することで背の高さを目立たなくしたのだが、それでも当時の他社の機種に比べて背の高さが目立っていた。
ただ、不人気の最も大きな要因は、このカメラが「ニコンらしくない」ということだろう。外観デザインだけでなく、操作の感触もニコンの他のカメラとは大違いで、ニコンFなどが巻き上げレバー、シャッターダイヤル、シャッターボタンなどどれをとってもきっちりした感触であるのに対して、ニコレックスFはなんとなくチャチなフィーリングなのだ。これは大げさなことを言えばニコンのような高級機メーカーとマミヤ光機のような中級機メーカーの文化の違いが現れたものだ。中級機メーカーはどうしてもコストダウンや量産性を優先する。それに対して高級機では単純に機能を実現するだけでなく、使い心地のようなものを重視する。
具体的な例を挙げてみよう。ニコンFではレンズの着脱ボタンがレンズマウントの正面からみて3時の位置に配置されている。そのすぐ横のマウント面にはレンズ側の溝に落ち込むロックピンがあり、着脱ボタンを押すとこのロックピンが引っ込んでロックを解除するのだ。この機構はロックピンのガイドとボタンのガイド、それにピンとガイドの間に動きを伝えるレバー、そして戻しばねなどけっこう多くの部品で構成されているのだが、ニコレックスFではマウント横の上から下まで通った長い板バネで簡略化した。
上部のネームプレートに近いところに板バネの支点を置き、反対側のミラーボックス下隅に着脱ボタンを置く。そして板バネの中間付近にロックピンを固着するのだ。こうすると部品点数や組み立て工数を大幅に削減でき、コストダウンになる。しかし、使い心地はいまいちとなる。レンズを外すとき、レンズを握った手の指の背でそのままボタンを押してねじって外すような動作ができなくなるのだ。些細なことかもしれないが、ユーザーにとってはレンズを交換するたびにちょっとした違和感をもつことになる。それを重視するかどうかが、文化の違いということなのだ。
ニコレックスFのバリエーション
冒頭に記したように冷遇されていたニコレックスFは、そのため資料や文献も少ない。その少ない資料を見ると、どうやら「後期型」と言えるようなものが存在したようだ。巻き上げレバーやセルフレバーなどのデザインが変更され、裏蓋にあったフィルムインジケーター(装填したフィルムの種類を手動でセットして記録しておくもの)が省略されたということだ。
また、海外向けのモデルとして「ニッコールJ」というものが存在したことが確認されている。1960年代から1970年代にかけて、ニコンは輸出向けの機種にはブランドを変えて出していたことがある。ニコンFがドイツ向けにはニッコールFになったりニコマートの輸出版がニッコールマートになったりしていたのだが、このニッコールJも恐らくその一環であろう。
そっくりさん
実はニコレックスFには他社から出たそっくりさんが存在する。同じ1962年に発売された「リコーシングレックス」というカメラで、輸出専用機のため国内では販売されなかった。どうやらマミヤ光機が同じ設計のカメラをリコーにもOEM供給したものらしいのだ。セルフレバーやシャッターボタンの形状など細部の違いはあるものの、八角形で上すぼまりのボディシェイプや各操作部の配置など、ニコレックスFにそっくりである。レンズマウントはニコンFマウントに似たものだが互換性はないとのことだ。外付け連動露出計の取り付け部は、位置は同じだが形状は異なる。そしてレンズにカニ爪がないので露出計はシャッターダイヤルのみの片連動となるのだろう。だいたい外付け露出計が存在したかどうかも定かでないのだ。
いずれにしてもなかなか興味深いそっくりさんである。